茜色のSOS信号
「助けてあげて欲しいんです――お兄ちゃんのこと」
「……え?」
あまりにも唐突すぎる、彼女からのSOS。その一言に、私の中から一気に緊張感が抜け去った。
目の前の茜ちゃんは今までと打って変わって、神妙な顔つきへと変化していた。その様子から、どうやら冗談で言っているわけではないらしい。どういう意図かは分からないが、一先ずは彼女の話を聞いてみるに越したことはない。
「あの、助けて欲しいっていうのは?」
「その……お兄ちゃん、高校時代に付き合ってた女の子のことを、未だに引きずってるんです」
「……はぁ」
思っていたほど小さかった悩みに、拍子抜けしてしまった。ちょっぴり身構えてしまった自分が、なんだか恥ずかしい。
「あっ! ただのヘタレだとか、未練タラタラだとか、そういうんじゃないんです! いや、極論を言えばそういうことになるのかもしれないけど、そうではなくて!」
「うん……というと?」
「えっと、どこから話せばいいんだろ……。お兄ちゃんって昔から、困ってる人を見ると放っておけない性格なんです。他人の問題を自分のことのように悩んで、周りが見えなくなってることもあって。そんなところを、何度も見てきました」
「あー、なんか分かる気がする。あの人って助けたいって思ったら、無理やりにでも関わろうとするよね」
「それです。前の彼女と付き合ったきっかけも、そんな感じだってお兄ちゃんが言ってました。何があったのかは、相手の子に悪いからって言われて、私は知らないんですけど……」
「そっか……」
とはいえ、何かしらの問題を経た上で、付き合い始めたという事実を聞けたことは大きい。茜ちゃんが言った『彼を助けてほしい』という言葉のヒントになるかもしれない。
「確か、高校一年生の途中ぐらいから付き合い始めてたと思います。それからも何回か、お兄ちゃんは厄介事に首を突っ込んでたみたいなんです。それも、他の女の子絡みのこともあったみたいで。その度に彼女とケンカしたって言って、家でしょぼーんってしてるときも結構ありました」
「先輩らしい。本人に悪気は無いんだろうけど、女心が全く理解できてないというか、なんというか……」
「本当にそれですよ、もう。……でも彼女のことは、本気で好きだったみたいです。よく二人で通話してたし、お休みの日は二人でデートもよく行ってました。
私も何度か会ったことがありますけど、普通に仲良さそうでしたし、このまま将来結婚までいきそうだなっていう雰囲気もありました。だから、高校卒業と同時に別れたって聞いたときは、私もビックリしたんです。
しばらく部屋からご飯とトイレとお風呂のとき以外出てこなかったし、一人で何かをずっと考えてたみたいで。作り笑いで『なんにもないよ』とは言ってたけど、多分きっと彼女と何かがあったはずなんです」
「なるほどねぇ……」
それを聞いたら、確かに彼が彼女のことを本気で好いていたことも理解できる。というより、容易に想像が可能だ。
――この間、なんかそんな感じのことも言ってたしなぁ。本人は自覚無いんだろうけど、本音ダダ漏れだったし。
あの日彼は『もう後悔はしたくない』と言っていた。ならばきっと、何かが原因で大きな後悔をしてしまったということだろう。それが何なのか定かではないが、大まかな全貌が見えてきたのは好都合だ。
「それから……今度はお兄ちゃん、綾乃お姉ちゃんにしつこく付きまとってるって聞いたんですけど」
「あー、付きまとってるというか……。まぁ最初は確かに付きまとわれてたけど、今は色々あってもう普通に友達だと思ってるし、そこは大丈夫」
「そうですか、ならよかった。まぁ無いとは思いますけど、もしお兄ちゃんが綾乃お姉ちゃんに変なことをしてきたら、私に言ってください。十分に叱っておきますから」
そう言いながら茜ちゃんが、自分の左手にグーパンチしてみせた。これはまた、ある意味で恐ろしい妹を持ってしまったものだと、そこだけは彼に同情する。
「あはは……もしそうなったら、そうさせてもらうね」
「……でもそれを聞いたとき、わたし不思議に思ったんです。確かお姉ちゃんに付きまとった理由って、サークルに勧誘するためだったんですよね?」
「うん? そうだけど……」
特に珍しくもない些細なことだが、どうしてそれが不思議なのだろうか。
「やっぱり……。あのお兄ちゃんが、困ってる人のために動くのならまだ分かるんです。でも綾乃お姉ちゃんみたいに、特段困ってるわけではない人のためにそこまで必死になるのは、なんだかお兄ちゃんらしくないと思ってて」
「そうなの?」
「だってあの人、忘れん坊の鳥頭なんですもん。困ってる人の顔ならまだしも、一度サークルに来たぐらいの人の顔なんて、覚えてるはずないです」
「それは……あー、はは……。そうだよね……」
――それは多分、あの時どぎついキャラ作って、変に目立っちゃったからだと思うなぁ……。一応演技相手として一緒にやったし、顔覚えられちゃったんだろうなぁ。
あの時は自分でも思っていた以上に、あの場にいた人達へインパクトを与えてしまったという自覚はあった。ただでさえ鳥頭である彼に、後日声を掛けられてしまったというのは、きっとそれが原因だろう。
「……まぁ、確かにお兄ちゃんは鳥頭ですけど、それは一旦置いといて。それにしたって、あの人基本はあんまり他人に興味がないような人なんです。自分から友達作ろうとはしないし、なんというか、放任主義なんですよね」
「そうなの? そんな風にはあんまり感じないけど」
「表向きはそう見えるかもしれませんけど、仲の良い人とか、困ってる人は大事にする一方で、他にはほとんど関心がないんです。その割に人当たりも良いですし、来るもの拒まずっていう性格で、スポーツも好きだったから、陽キャの仲間内にいられてたっていう感じなんですよ。
家にいるときはずっとマンガ読んでるか、映画とかドラマ見てばっかりで、軽いニートみたいな生活してますよ。多分、今もそうだと思います」
「そう言われてみると、なんかその通りな気がする。サークルに入ってる陽キャの割に、いつも一人でいるから、不思議だなぁとは思ってたんだよね。流石、妹は知ってる量が違うなぁ」
「えへへ。これでも私、ブラコンですから。お兄ちゃんのことなら、色々知ってますよ」
そう言って、茜ちゃんがクシャっと笑ってみせた。なんだか心做しか、彼の笑顔と似ている気がする。そこは流石、兄妹だと言ったところだろう。
「そっかぁ。それならさ、先輩が私にしつこく付きまとってきた理由も、なんとなく分かったりするの?」
「あー……それは……」
私がそう言った途端、茜ちゃんの顔から突如、それまでの笑顔が無くなってしまった。何か悪いことを言ってしまったのではないかと、思わず不安になる。
「……なんとなくですけど、見当はついています。でもそれは私からじゃなくて、お兄ちゃんから綾乃お姉ちゃんが直接聞いたほうがいいと思うんです」
「どうして? 何か理由があるの?」
「……こんなこと言っちゃったら、元も子もない話なんですけどね。私もお兄ちゃんの妹ですから、なんとなく分かるんです。今日綾乃お姉ちゃんと初めて話してみて、私もそんな気がしました」
「……それってもしかして、私が誰かに似てるってこと?」
「っ……。聞いたんですか、お兄ちゃんから」
すると茜ちゃんは、目を大きく見開いて驚いてみせる。どうやらこれを知っているのは、よっぽどなことらしい。
「うん。とはいっても、それだけだけど。誰に似てるのかは、私は知らないよ」
「そうですか……」
茜ちゃんは静かに呟くと、そのまま俯いて黙り込んでしまった。
私には一体、この兄妹の身に何があったのかは全く分からない。けれども、今回の茜ちゃんと言い、彼女のブラコンぶりを認めている先輩と言い、彼ら兄妹はなんだかんだお互いに心配して、理解し合っていることはよく分かった。
「それなら尚更、綾乃お姉ちゃんにお願いです。お兄ちゃんを、助けてあげてください。きっと、今のお兄ちゃんを助けてあげられるのは、綾乃お姉ちゃんしかいないと思うんです」
「そうかな……。あの人友達いっぱいいるだろうし、私なんかよりも、茜ちゃんのほうがよっぽどいい気がするけど」
「ううん、それじゃあダメなんです。私だって、ずっと助けたいと思って考えてきました。でも私には、お兄ちゃんのそばにいてあげられるくらいしかできないから……。あの子に似てる綾乃お姉ちゃんじゃなきゃ、ダメなんです」
「そう言われても……助けてあげたいのは、山々だけどさ……」
いざそんなことを言われても、どう返事をすればいいのやら。私の似ている相手が分からない上に、そもそも友達でしかない私に何ができるというのだろうか。……ただの友達でしかない私に、一体何を成せるのだろうか。
――そうだよね。そんなこと言われたって、私が先輩に聞けることなんて限られてるよね。……先輩の彼女じゃあるまいし。
そんなことは、十分に分かっている。何も言われなくたって、ちゃんと理解しているつもりだ。……だが。
――……なんでだろ。なんか、引っ掛かる。
自分の置かれている立場なんて、十分に分かっているはずなのに。自分にできることなんて、ちゃんと理解しているつもりなのに……それがどうしても、もどかしい。
――この感じ……あの時と一緒だ……。
目の前にいるというのに、自分は何も出来ないというもどかしさ。彼のことは色々と知っているはずなのに、それはただ理解したつもりなだけで、結局は何も分かっていないという現実。
結局は、無知な私自身に満足して、矛盾に拗れたままそれに安心しているだけ。そんな限りなく惨めな自分が情けない。
――このまま私が断って、今まで通りのままだったら……。先輩は、どう思うのかな。
そう思うと同時に、私の脳裏にはかつての情景が過ぎった。本当はもう思い出したくもないのに、何度も繰り返し映像として蘇ってくる、憎い情景だ。
『ごめん。私には……その資格は無いよ。きっと、もっと良い人が見つかると思うから。……だから、ごめん』
『……そっか。アヤちゃんがそう言うなら、仕方ないや。ごめんね、急にこんなこと言って。僕は大丈夫だから、気にしないで』
『……うん』
私の一言によって、それまでの全てが壊れた瞬間。私の一言によって、一人の人間を見殺しにした瞬間。そう、それは全て私のせいで起こったことだった。
――……そんなのやだ。
私のせいで、また一人の人間がいなくなってしまうのは。
――もう二度と、あんなことにはしないって決めたんだ。私なんかのせいで、大事な人を見殺しにするなんて。でも……。
彼女ですらない自分に、一体何ができる? 以前は『話づらい』とまで言われてしまって、ほとんど何も話してくれなかったじゃないか。結局その程度の存在でしかない自分が、こんなことで悩んだところで無駄ではないのか?
「……本当に、私なんかでいいのかな……?」
ハッとしたときには遅かった。意識せずに口から、そんな情けない言葉が零れ落ちてしまった。
一体茜ちゃんに、どんな反応をされてしまうかとヒヤリとする。しかし彼女は、私の不安とは裏腹に、ニッと相好を崩してみせた。
「大丈夫ですよ。綾乃お姉ちゃんだからこそ、お兄ちゃんだってきっと友達になったんです。だから安心してください。妹の私が保証しますから!」
「茜ちゃん……」
どうしてだろう。彼女の笑顔を見ていると、不思議と安心する。……やはり、彼の笑顔と似ているからだろうか。
――そっか……。それなら、やれるところまでやってみようかな。私にできるかは分からないけど……あの時みたいに、断って後悔するよりはよっぽどマシなんだから。……私だって、言わなきゃいけないこともあるし。
あの日お互いに約束を交わした、過去についての相談。あの時は勢いで無責任にそんなことを言ってしまったが、今となってはそのおかげで、彼とちゃんと向き合えるようになれるかもしれない。
――それに……少しでもこの気持ちの償いにも、なれるかもしれないし。
こんなことで、あの人が戻ってくるわけではない。こんなことをしたところで、私の罪が全て無かったことになんかならない。
だがそうだとしても、私はもう決めたのだ。もう二度と私の目の前で、誰一人として彼と同じ目には遭わせたりしないと。
――ごめんね。こんなことで、許されるとは思ってないけど……もう、昔の私のままは嫌だから。だから、こんな私でよかったら見守ってて。……レン君。
「……分かったよ。私がどこまで先輩の助けになれるかは分からないけど……やれるだけのことはやってみるよ」
「本当ですか! ありがとうございます! それじゃあ、鳥頭で情けないところばっかりなお兄ちゃんだけど、どうかよろしくお願いします」
そう言って茜ちゃんが、ペコリと頭を下げてみせる。
「あはは……こちらこそ、よろしくね」
そうして次に顔を上げた彼女の表情はなんだか……妙にニコニコしていたような気がした。
「……ところで綾乃お姉ちゃん。一つ気になったんですけど、言ってもいいですか?」
ふと、唐突に茜ちゃんがそんなことを告げた。
「うん? どうしたの?」
「なんか……綾乃お姉ちゃんって、ソーチューバ―のアヤさんに声似てますよね。よく言われませんか?」
「えっ!?」
突然そんなことを言われて、心臓が飛び出る勢いでドキリとする。まさかこんなところで、その話をされるとは思ってもいなかった。おかげで口から変な声が出てしまったではないか。
「あいや……そんなことはないけど……」
「そうですか? でもすっごく似てるんですよねぇ。試しに『別にあなたのためじゃなくて、自分のために付いてきただけ。勘違いすんな、バカ』って言ってみてくださいよ。あ、結構クール目で!」
「え、えぇ……」
そのセリフはちょうど、この間の生放送で言った言葉だ。視聴者からリクエストされたセリフをどんどん読んでいく企画の中で、特に反響が大きかったセリフでもある。まさかそれを取り上げてくるとは、もしかするとガチ目のファンかもしれない。
「えぇっと……」
「あ、やっぱり恥ずかしいですか? そうですよね、急にこんなこと言われてもって感じですよね。すみません。……でも聞きたかったなぁ、綾乃お姉ちゃんのセリフ」
そう言いながら、チラッと茜ちゃんがこちらを見てくる。
――あ、これ多分バレてる。隠し通すの無理だこれ。
それは明らかに自然な動きではなく、意図的なものだとすぐに分かった。無理に隠そうとするよりは、もうハッキリと言ってしまったほうがいいだろう。ここはもう諦めたほうがいい。
「あー……あの、ね。茜ちゃん。やっぱりごめん、そのアヤって人ね。実は私……なんだけど……」
「あぁー! やっぱり! 話口調とかそのまんまだなぁって思ってたんですけど、やっぱり綾乃お姉ちゃんだったんだ! えへへー、私ファンなんですよー。こんなに間近で会えて嬉しいです!」
「あぁ……ありがとう……」
ファンだと言ってくれること自体は嬉しいが、まさか先輩の妹にこうした形でバレてしまうとは、複雑な気持ちだ。できればもっと、マシな形で知ってほしかったところだが……それよりもだ。
「あっ、あのねっ、茜ちゃん! このことは、その、先輩には……」
「分かってますよ。きっとお兄ちゃんには言ってないんですよね? 大丈夫です、こう見えて口はダイヤモンドみたいに硬いので、絶対に言いませんから! 女の約束です!」
「あ、うん、ありがとう……」
――全部お見通しだった……。
先輩の妹、恐るべし。ずっとニコニコしながら楽しそうに喋っている顔とは裏腹に、なんだか全てを見透かされてしまっていそうだ。
「あ、そうだ綾乃お姉ちゃん! いや、ここはアヤさんって言ったほうがいいのかな? よかったらあとで、サインくださいよ!」
「さ、サイン? ……まぁ今度でよかったらいいよ」
「わーい、やったぁ!」
両手を挙げて、茜ちゃんがバンザイしてみせる。まさかこんなにグイグイ来られるとは。陽キャの妹は、やはり陽キャということなのだろうか。
私はいつまで経っても、陽キャの人間には敵わないのかもしれない。そんなことを改めて痛感した瞬間だった。




