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90.イシュタリアの加護を授かった人間

 アッシュと言葉を交わすことで少し緊張がほぐれたクロエの表情は先ほどよりも穏やかなものへと変わっていた。

 そして緊張する場面ばかりが続いていたこともあって喉の渇きを覚え、ファルシュへと一言断りを入れてから紅茶へと手を伸ばした。

 そして紅茶に口をつけ、思いのほか美味しかったようで頬を緩ませるクロエ。ファルシュはそんなクロエに優しく温かな眼差しを向けていた。

 そうしてファルシュは少しの間クロエを見守っていたかと思うと、静かに口を開いた。


「さて、そろそろ話を、と思います。ですがその前に改めて自己紹介と致しましょう。私の名前はファルシュ・ファクティス・フェルシュング。このイシュタリア様を信仰する教会の本部にて聖女という役目を与えられています」


「えっと……クロエです。その、ファミリーネーム、というのはわからなくて……一応、聖女候補として聖都へとやってまいりました」


「アッシュ。ただのしがない冒険者だ」


「しがない冒険者、ですか……とてもではありませんが、はいそうですか。と納得できるようなものではありませんね……」


「それ以外に何て言えば良い? 聖女や聖女候補、第三王女に王国騎士。そういった肩書はないんだからこうなるのは当然だろ」


「それはそうですが……その……答え難いことかとは思いますが、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」


 しがない冒険者という言葉を受けてファルシュはそんなわけはないはずだ。と思いながら確認しなければならないことがある、とアッシュに尋ねる。

 アッシュはそれに対して少しだけ考えてから言葉を返した。


「そうだな……代わりに、俺の質問に答える。ってことなら良いぞ」


「その程度でしたら、構いませんよ」


「そうか……そうか。例えそれが人に明かすつもりのないことでも、答えてくれるか」


「……アッシュさんはとても意地悪な方のようですね。とはいえ、それはいずれ明かさなければならないことだと思っています。ですからそれが少しばかり早くなっただけのこと。としておきます」


 意地悪な方、と言ってファルシュは困ったような表情に変わり、しかしすぐにふわりと小さく微笑みを浮かべてそう返した。


「へぇ……覚悟は出来てた、ってことか。だったら条件を間違えたかもな」


 言葉とは裏腹にアッシュは何処か楽しそうで、そんなアッシュにファルシュは困った人ですね、とでも言いたげにその様子を見ていた。

 そしてクロエはそうした二人を見て何事かと不安に思いながらも事態の成り行きを見守っていた。


「それで、何が聞きたいのか何となくわかるけど聞いておくか」


「予想は出来ている、と。えぇ、そうでしょうね。ですがあえて言葉にして尋ねさせていただきます」


 そこで一度言葉を切り、今度は何処か緊張した面持ちで言葉を続けた。


「アッシュさん。貴方はイシュタリア様より加護を授けられているのではありませんか?」


「少し違うな。正しくは押し付けられた、だ」


 ファルシュにとってイシュタリアは心より信仰する女神だ。

 そんなイシュタリアから加護を授けられた人間が目の前にいる。その事実にファルシュの胸の中に歓喜が湧き上がって来るのを感じていた。

 流石イシュタリアの信徒、とでも言えば良いのか。自分にとって都合の悪い、もしくはあまり聞きたくない言葉を聞かない便利な耳をしているようだった。つまり、押し付けられた、という言葉はファルシュに届いていなかった。


「イシュタリア様の加護を!?」


 そしてそれはクロエも同じだったようで、器用にアッシュがイシュタリアの加護を受けている。という言葉にだけ反応を示した。


「あぁ……まさか人の短い命の中で、イシュタリア様の加護を授かった方と出会えようとは……!」


「すごい……すごいです!! あの、アッシュ様はどのような経緯でイシュタリア様より加護を授かったのでしょうか!?」


「このような奇跡、歴代の聖女であってもそのようなことはありませんでした。本当に、私はどれほど幸運なのでしょうか……」


「それと、イシュタリア様より加護を授かるということはイシュタリア様の御姿を目にしたということですよね!? つまりそれはイシュタリア様の御姿を目にしたということ……あ、あの! イシュタリア様はどのような御姿だったのでしょうか!?」


 異様な食いつき具合、と思うかもしれないがイシュタリアの信徒であればこれは間違った反応ではない。

 というよりもこれでも控えめな方だった。もっと酷ければアッシュに詰め寄り、尋問のようにあれこれと聞き出そうとし、決して逃がしはしないと取り囲む。というくらいは普通にやってのける。

 ついでに言えば、シャロもイシュタリアの信徒であり、この二人のように食いついてもおかしくはなかったのだが思いもよらぬイシュタリア本人、もしくは本神と出会ってしまったがためにそういった反応をする機会を逃してしまったのだ。


「その辺りのことはどうでも良いんだけど、なんでいきなり様なんて敬称がついてるんだ?」


「それはアッシュ様がイシュタリア様より加護を授かった方だからです。私たちのようなイシュタリア様の信徒にとってはそれがどれほどのことなのか、アッシュ様はご存じないのですか?」


「あぁ、知らないな。だいたいそういうのには興味がないんだ」


 興味がないと言い切ったアッシュは勝手に盛り上がる二人を眺め、イシュタリアの信徒、それも教会に所属している人間は本当に面倒臭いな、と考えていた。


「イシュタリアの加護があるからって俺はそんな大層な人間じゃない。もっと気楽に呼んで欲しいだけどな」


「気楽に、と言われましても……」


「それにせっかくクロエと仲良くなれたんだ。そんな敬称をつけられるよりも、いつも通り呼んで欲しいんだよ」


 もう少しの間はクロエと顔を合わせる機会もあるだろう、と考えているアッシュは余計な敬称をつけられて悪目立ちするような事態を避けるためにそんな言葉を口にした。

 余談だが既にシャロから主様と呼ばれるのが当たり前になっているアッシュはそれが原因で悪目立ちすることが多々あることに気づいていないことがあるので、今更何を言っているんだ、と思わなくもない。

 何にしてもアッシュにとっては本当にその程度でしかなかった言葉だったが、アッシュに好意を抱いているクロエにとっては違った。

 クロエ自身にとって都合の良い解釈をしている、と言われるかもしれないがアッシュの言葉は自分とは友好的な関係に、果てには親密な関係になりたいという意味に聞こえていた。本当に都合の良いように捉える耳である。


「わ、わかりました! それでは今までと変わらずアッシュさんと呼ばせていただきますね!」


「あぁ、そうしてくれ。俺としてもその方が嬉しいからな」


 その言葉で更にクロエが良いように解釈し、胸を高鳴らせているとは露知らず。アッシュはファルシュへと声をかけた。


「俺がイシュタリアの加護を持ってるだけで特別な存在ってわけじゃない。ただ奇妙な縁でイシュタリアと出会った。それだけのことだからな」


「イシュタリア様と出会った、というだけでもそれは特別なことだと思いますが……いえ、そのことに関してあれやこれやと言っても仕方がありませんね……」


 ファルシュはアッシュとクロエが言葉を交わしている間に幾分か落ち着いたようで、ある程度は冷静に話し合いが出来るようになっていた。


「ですがアッシュ様におかれましては、私たちにとってイシュタリア様の加護を授かった方は特別な方として見るのが当然のことなのだとご理解ください。そして、どうか不快な思いなどされませんように……」


「まぁ、教会の人間はそうだろうな。とはいえクロエとファルシュならそこまで大事にはしないって思ったからこうして話したわけだ。余計なことはしないでくれよ」


 大事にはしないと思った。というのは嘘ではないがそれと同時にどうせ気づかれているのだから。という考えがあった。

 またクロエに関してはアッシュたちの会話から何かあると思っていたがまさかそれがイシュタリアの加護だとは思ってはいなかった。何か特別なものがある。とは考えていたのだが。


「はい、それがアッシュ様の御意思とあらば」


「……いや、仕方ないんだろうけど……せめて他の人の前では普通の扱いにしてくれよ。聖女がそんな態度で接するとか、何者かって話だからな」


「それは……はい、わかりました。ですが代わりに、というのは少しおかしいかもしれませんが……イシュタリア様に関して何かお話が伺えないかと……」


「わ、私も気になります……!」


「イシュタリアの話か……あいつはリンゴが好きだったな」


「リンゴ、ですか?」


「あぁ、リンゴだ。旬の時期になると蜜入りのリンゴも出回るからな。それを食事のついでに出すと機嫌が良くなるんだ」


「まぁ……」


「知らなかったです……」


 さて、ここで問題がある。

 アッシュにとっては大したことはない話だったのだが、ファルシュとクロエにとっては非常に価値のある、そして驚くべき話をアッシュはしていた。

 イシュタリアの好物など伝承などには記載されておらず、一切わかっていなかった。それがイシュタリアと出会ったことのある人間の言葉によって判明した。

 それもその言い回しから考えて交流があり、食事を共にする関係ということになる。

 そのことを理解しているファルシュは自分が思っていたよりもアッシュは特別な、というよりも神に愛された存在なのではないだろうか、と内心で再度歓喜の念が湧き上がり、それと同時にそのような人間が実在するのだと慄いていた。


「……あぁ、あんまり話しててもイシュタリアは良い気がしないだろうから終わりにするとして……そろそろ俺の質問にでも答えてもらおうか」


 良い気がしない、というよりもあまりイシュタリアの話ばかりしていても埒が明かない、という考えの方が大きかった。

 それと同時にある程度必要な話を終わらせてさっさと用事を済ませたい、とも考えていた。


「私への質問、ですね」


「あぁ、とはいえそう難しい話じゃないさ」


「そうですか……わかりました。何なりとお尋ねください」


 次は自分がアッシュの質問に答えるべきだ。とファルシュはそう考えて背筋を伸ばし、居住まいを正した。

 それに釣られるようにクロエも背筋を伸ばし、アッシュとファルシュの間を視線が行ったり来たりと世話しなく動いていた。

 アッシュは二人の様子に小さく苦笑を漏らし、自身がするべき質問を口にすることにした。

アッシュがあっさり加護を持っていると言ったのは、ファルシュがそれにほとんど気づいていたから、です。

本来はそう簡単に言うべきことではありません。

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