84.結界を書き換えて
アッシュの瞳にはこの場に施された結界の術式が数値や、魔法陣などに利用される魔法文字と言われるものが視えていた。
そしてそれらを魔の支配者の力で書き換え、自分たちがその結界によって迷わないようにしていく。
本来であればこのようなことは熟練の魔法使いでも不可能に近いことだがイシュタリアの加護や祝福を持つアッシュにとっては造作もないことであり、次々に書き換えという作業を終わらせてしまう。
そうした作業に没頭するアッシュの様子は瞬きをすることなく、虚空を見つめ続けるだけであり、最初は感心していたシャロだったが、流石にそれを心配そうに見つめるようになっていた。
だがルキは何も言わずにアッシュに抱き着いたまま深呼吸を繰り返しているので、そんなに心配しなくても良いのかな? とも考えていた。
そしてカルナは虚空を見つめるアッシュを見上げ、その時にアッシュの瞳の中に見たことのない魔法陣が浮かんでいて、その一部が自身にとって見覚えのある神が用いる文字だと気づいた。
これがアッシュに授けられた加護だと理解し、それと同時に強力な加護であることも理解していた。
また強力な加護には必ず反動があるのだが、そういった様子を一切見せないことからアッシュは自身に授けられた加護を十全に扱えるのだと考え、安易に戦闘を挑むべきではないと判断していた。
「……よし、もう大丈夫だ。これで俺たちは問題なく歩けるようになったはず」
そう言ってアッシュは一度瞳を閉じて大きく息を吐くと、先ほどまで瞳に浮かんでいた魔法陣はその姿を消した。
やはりあれが、とカルナを考えつつ、アッシュの言葉が真実であるか確認するためにアッシュたちから離れ、数歩歩いてみるがアッシュたちからはぐれるようなことはなかった。
「どうやら本当に問題はないようだ。流石だな、アッシュ」
「アッシュならこれくらい当然だっての。まぁ、俺は敵が傍にいるからアッシュから離れる気はねぇけどな」
敵、と言いながらしっかりとカルナを見据えるルキは、言葉の通りにアッシュから離れようとはしなかった。
「えっと……私は普通に離れますね。何かあった時に主様の邪魔にならないように、ということで」
「そうか……そうか、わかった。となると……クロエ?」
最後はクロエがどうするのか、ということで名前を呼んだがクロエはそれに反応を返すことはなかった。
「クロエさん? どうかしたのですか?」
そのことが気になってシャロがアッシュの背後に回り、クロエの様子を見た。
するとそんなことがあるわけがないのに、クロエの周りにはピンク色の靄が見えてしまった。シャロはそれに驚きながらも目を擦り、二度見をするとそこにピンク色の靄などなかった。
あれはいったい何だったのだろうか、とシャロが首を傾げるとルキが呆れたようにこう言った。
「むっつり目隠れが変な妄想してんだろ。脳内ピンクでお花畑だろうしな」
「随分な良いようだな、と言えば良いのか。そうだろうな、と納得するべきなのか。いや、これがクロエの個性ということなのだろう。例えそれが目を背けたくなるようなことであろうと」
「はぁ……こうなると面倒だな……本当に思春期男子かっての。いや、それよりも酷いかもしれないのか」
そう言ってからアッシュは妄想の世界に旅立ち、ただアッシュの背に張り付いているだけのクロエからスッと離れ、振り返った。
そこにはシャロの視界にそう映っていたピンク色の靄が見えていて、何だこれは。とアッシュは困惑していた。だがそのまま放置というわけにもいかず、そして何よりも面倒だという想いを込めてクロエの頭に手刀を落とした。
「痛っ! ……くは、ない……?」
「クロエ、どんな妄想してたのか知らないけど結界は特に気にせずに歩けるようになったぞ」
「も、妄想何てしていませんよ!? 別に、連れ帰るという言葉にこう……カルナさんに鎖と首輪で繋がれるアッシュさんを想像して背徳的だとか、その後はどうなるんだろうとか、そういうのは考えていませんから!!」
ぼろぼろと妄想の内容が零れるクロエの言葉に、アッシュは途中からシャロの両耳を塞いで聞こえないようにし、ルキはその様子を想像して内心でないな、と判断を下していた。
そして勝手に妄想に使われたカルナは首を傾げて口を開いた。
「クロエが何を考えているのかわからないが、随分と奇抜なファッション。ということになるのか」
「ファッションも何もねぇだろ。まぁ、むっつり目隠れの言葉は一々気にしても仕方ねぇみたいだから放っておけば良いんじゃねぇの?」
クロエに冷めた目を向けてからルキはそう言って、それからアッシュを見上げながらこう言った。
「だいたいアッシュを首輪と鎖で繋ぐとか意味わかんねぇよ。どっちかっていうと俺がアッシュに首輪と鎖で繋がれる方がらしいだろ」
ルキとしてはそちらの方がしっくりくる。と考えてるようだった。そこに変な意味はなく、普段からアッシュの犬になら、と言っていることからそういうものだと考えているだけに過ぎない。
だがそうではない脳内ピンクで思春期男子のような妄想に溺れるクロエはそうではないらしく、アッシュとルキの顔を見比べ、そして真っ赤になりながらコクコク、と頷いた。
「た、確かにそうですね! こう……アッシュさんに繋がれて、ちょっと強めに鎖を引かれるとかそういうのもありだと思います!!」
「はぁ? 繋がれてアッシュのものだってことの証明にして、アッシュには優しく大切にされながら甘えさせてもらうに決まってんだろ」
お前、頭おかしいんじゃねぇの? と、言外に含みながらルキはそう言って酷く冷めた目をクロエに向けた。
だがクロエはクロエで新しく投下された燃料のせいでそれを聞いていない、見ていない。という状態になっていた。
「あー、とりあえず、さっさと行くぞ。アルトリウスに軽く事情を説明しないといけないからな」
そう言ってアッシュが瞳に映るアルトリウスの情報を頼りに歩き始めるとルキとカルナは当然のようにそれに続き、シャロはクロエを放っておいても良いのかと逡巡していたがこれはクロエの自業自得、と考えてアッシュたちの後を追った。
そして残されたクロエだったが、少し離れた場所でアッシュがわざとカツンッと靴を鳴らすとその音に現実に引き戻され、自分が置いて行かれそうになっていることに気付くと慌てたように駆け出した。
「あ、ま、待ってください!! おいて行くのは流石に酷いと思いますよ!?」
「妄想に浸ってるクロエが悪い。遅れないようについて来いよ」
「そこは立ち止まるとか、そういうことはしないのですか!?」
そんな言葉を口にするクロエに軽く笑んで返し、アッシュはその歩を進めた。
▽
追いついたクロエがあれこれとアッシュに文句とも言えないような文句を口にするが、アッシュはそれを聞き流しながらアルトリウスの下へと歩き続けていた。
全員が引っ付いて歩く、という必要はなくなったのでその歩みは先ほどに比べて格段に速くなっていた。
そしてそのおかげもあってアッシュたちはアルトリウスがいる部屋の前に辿り着いていた。
「ここだな」
そう呟いてからアッシュは扉の前に立ち、一切の躊躇いなく取っ手に手を駆けるとそのまま開いた。
突然扉が開いたことでアルトリウスとイスタトアが驚いた様子で扉を開けたアッシュをみた。
「少し邪魔するぞ」
「え、あ、だ、誰ですか……!?」
「イスタトア様、落ち着いてください。彼の名前はアッシュと言って、私とシルヴィア様を聖都まで護衛してくれた冒険者です。それからその仲間と……聖女候補であるクロエ様になります」
「そ、そうだったのですね……あの方が、聖女候補の……」
アルトリウスの言葉を受けてイスタトアはクロエを見た。その視線には嫉妬や憧憬の念が込められていて、そのことに気付いたクロエはどうして自分がそんな目で見られるのだろうか、と戸惑っていた。
だがそんなものに一切頓着せず、自分の要件だけさっさと済ませてしまおう。と、アッシュは考えていた。
「アルトリウス、話がある」
「は、話……?」
「あぁ、とりあえずざっくりと説明するからまず黙って聞いてくれ。質問はその後だ」
どういうことなのかと聞きたそうにしているアルトリウスを手で制しながらそう言ってアッシュは宣言通りに現在の状況を説明し始めた。
それはアルトリウスたちがある程度把握していたことだった。
だがそんなことよりもアッシュたちが既にそれに関して幾つか手を打ち、解決に向かっているということに二人は驚いていた。
「そういうわけで俺たちの邪魔はするなよ」
「邪魔はしないけど……その、言い方をもう少し考えるべきじゃないかな……?」
「かもな。ただそっちの事情があって部外者の俺たちのことを見過ごせない。そういうこともあるんじゃないかと思ったんだ」
「それは……その、確かに本来部外者の方がこの場所にいるというのは見過ごせません……ですが、今回は見なかったこととします。貴方たちの邪魔をするべきではない、というのは話を聞いていてわかりましたから……」
そう言いながらもイスタトアは複雑そうな表情を浮かべていた。
イスタトアとしては自分は聖女として認められるために努力を重ね、そして漸く聖女になることが出来た。だというのに、その努力などなく聖女候補となっているクロエに対して思うことがないわけではなかった。
そして平然と結界の中を歩いて来たアッシュに対してもこの人は何者なのだろうか、という疑問で一杯になっていた。
「そいつはどうも。とりあえず次はシルヴィアにも話をしておく必要があるから次はそっちに行くかな」
「シルヴィア様の下にも行くんだね?」
「あぁ、話はしておかないと後々面倒になるかもしれないからな。それがどうかしたのか?」
「それなら僕たちも連れて行ってくれないかな? 実は僕たちもシルヴィア様にどうしても話しておかなければならないことがあって……」
シルヴィアに、と言いながらも一緒に行けるのであればその際にアッシュたちにも話をしておこう。アルトリウスはそう考えながらそう言った。
それを聞いたアッシュは少し考える素振りを見せ、僅かにカルナへと視線を向けた。するとカルナは小さく頷いて返した。
「あぁ、わかった。それなら一緒に行くか」
アッシュから了承の言葉が返ってきたことにアルトリウスはほっと胸を撫で下ろし、イスタトアを見る。
「イスタトア様。どうにかシルヴィア様の下へと行けそうですね」
「はい、そうですね……ですが、ここからが大変だと思います……」
「えぇ、わかっています。気を引き締めなければなりません」
そんな言葉を交わす二人を見ながらアッシュは、この二人はこの二人で面倒なことになっていそうだな、と何処か他人事のように考えていた。
そして完全に蛇足になってしまうのだが、この状況でルキはアルトリウスが同行するということに嫌そうな表情を浮かべ、シャロはどうにも状況が悪そうだと判断して何事もなければ良いのに、と考えていた。
またカルナに関してはどうでも良さそうに、クロエに関してはイスタトアのことを聖女として意識しているようでその表情は硬かった。
やっと合流。まぁ、すぐにシルヴィアとも合流しないといけないんですけどね。




