弟が会いに来ました
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ぼんやりと椅子に座り、大きな窓から外を眺めていた。二階から見える景色はこの居住区の庭で美しく手入れされている。さほど広くもないが一人で楽しむには十分な広さだ。
衝撃的な茶会から数日が経っていた。王妃様主催の茶会でやらかしたジョアンナはしばらくの間、王宮への出入りが禁止された。当然と言えば当然の結果だった。わたしへの態度というよりも王妃様の茶会を台無しにしたことが問題なのだ。
ところがその処罰だけで気が済まなかったのがアルバートだ。わたしを迎えにやってくれば、お茶を頭からかけられているのだから。ノリス伯爵家ごと処罰しようとしていた。慌てて取り持ったが、本当に大変だった。ジョアンナだけではなくノリス伯爵も交えたため、騒動が落ち着くまで一週間ほどかかっている。
反省を促すということで謹慎しているが、本人は何をしてしまったのか、わかっていないと思う。きっと今頃わたしが悪いと悪態をついているはずだ。
王妃様とアルバートの不興を買ったことで、彼女のこれからの貴族としての立ち位置はひどく不安定になっていく。まだ若く至らないから、では庇いきれない。もしかしたら婚姻相手を見つけるのも大変かもしれない。色々残念な結果だが、それも自分が引き起こしたことだ。
「キャロライン様、お客様でございます」
「お客?」
そんな予定がなかったので首を傾げた。アルバートの居住区に住むようになってから客など誰ひとり来たことがない。予定外の訪問なんて、入り口でお断り一択だと思うのだ。誰だろうと不思議に思いながら、通すようにと指示をした。
「お久しぶりです、姉上」
入ってきたのは10歳になる弟のユーインだった。驚きに目を見開き、立ち上がる。
「ユーイン?」
「そうです」
「まあ、会いたかったわ!」
天使のような笑顔を見せられて、足早に近づき抱きしめた。ぎゅうぎゅうに抱きしめると、そっと背中に手が回った。顔の位置が前の時よりもかなり上の方になっており、抱きしめた感触が変わっている。その変化もとても嬉しくて、柔らかな髪に頬ずりをした。
十分に弟の存在を堪能してから、そっとユーインを抱きしめる腕を緩めた。
「姉上が元気そうでよかったです」
目を細め、しみじみとユーインを見た。前はもっと頬もふっくらとしていたのに今では引き締まった顔をしている。体つきも子供っぽさが抜けてきていた。まだ筋肉が付いていないのか、ひょろりとした体系だ。それでも顔の造作はお母さまの儚い感じを引き継ぎ、パッと見ただけでは男の子には見えない。
「だいぶ大きくなったのね」
顔を上げれば、扉の所にはアルバートが立っている。どうやら連れてきてくれたのはアルバートのようだ。嬉しさに顔をほころばせた。
「アル、ユーインを連れてきてくれてありがとう」
「いや、元気がなかったから」
アルバートは照れたのか、そっぽを向く。きっと茶会の後、わたしが考え事をしていることを気にしてくれているのだ。素直に屋敷に返してくれればいいのにと思いながらも、ユーインに会えただけでも素直に嬉しかった。
「お仕事、忙しいのでしょう?」
「気にしなくていい。今日は一緒にいる。仕事は……」
仕事のことを持ち出せば、やや不機嫌にアルバートが仕事に行かないようなことを言い出す。それを見越していたのか、護衛についていたメイナードが駄目だと言ってアルバートの腕をがっちりととらえた。流石のアルバートもメイナードの力には勝てないのか、もがいても腕を振り払うことができない。
「じゃあ、二人とも。ゆっくりな」
メイナードが気取ったようにぱちんと片目を瞑り、アルバートを引きずるようにして出て行った。やれやれとため息をついた。今日はいつも以上に仕事を早く片付けて帰ってきそうだ。
「姉上は……アルバート殿下を好きなのですか?」
「え? ああ、その」
ユーインがいたことをすっかり失念していた。いつもと同じように接してしまって、恥ずかしさに頬が熱くなる。弟に真面目な顔で好きなのかと聞かれて、どう答えていいのかわからない。わたしの様子に何か納得したようにユーインがしきりに頷いていた。
「母上が、姉上はアルバート殿下に恋しているようだと」
「恋」
想像外の言葉に思いっきりうろたえた。何を言い出すのだろうか、この子は。こちらの困惑に気が付かないのか、綺麗な瞳でじっと見つめられる。心の底まで見えてしまいそうな眼だ。
「姉上からの手紙からその変化が見えるのだと母上は嬉しそうに言っていました。父上も分かっているのか、とても不機嫌です」
「手紙から?」
そんなにわかるようなことを書いたつもりはなかった。初めは早くここから連れ出してほしいという嘆願だった。その後は毎日何をしているかを書いていただけだ。それがどうしてそんな解釈につながるのか、まったくわからない。
やや気恥ずかしさを感じながらも、ユーインとの会話は楽しかった。ユーインは今10歳で、あと2年で王都にある貴族令息が入る学院へ行く。これから将来必要なつながりを作っていくのだ。
「ユーインはどの科に入るの?」
「騎士科へ行こうと思っています」
「騎士?」
驚きに唖然とした。お父さまの跡を継ぐと思って、てっきり文官の道かと思っていた。ユーインがおかしそうに笑う。
「父上は確かに財務関係でしたが、お祖父様は騎士ですよ」
そうだった。お祖父さまはとても強い騎士だった。メイナードが最初に遊びに来たきっかけは、お祖父さまに手ほどきを受けるためだった。わかっているけど、天使のようなユーインが騎士になるなんて想像がつかない。
「大丈夫なの?」
女の私が見てもとても可愛らしいのだ。線も細いし、男にしておくのはもったいないほど華奢だ。肌も抜けるように白く、髪が長ければ令嬢にも見える。仕草もとても優雅だ。このきれいな肌が傷つくのはもったいない気がした。剣を握る手はアルバートのようにいずれ固くなってごつごつになってしまう。
「心配いりません。姉上を守るには剣の力もいりますから」
ああ、この子はこんなにも小さいのにわたしを守ろうとしてくれているのか。きっと茶会のことも聞いているのだと思う。
うれしくて胸の奥がじんとした。でも、わたしを基準に物事を考えなくてもいいのだ。
「ユーイン。わたしは大丈夫よ。あなたはあなたの道を進んでほしいわ」
「……僕では頼りないでしょうか?」
不安に思ったのか、大きな瞳が揺れた。否定したつもりはなかったが、拒絶と受け取ったようだった。慌てて説明した。
「わたしにはアルもいるし、その、あの」
何を言っているの。どうしてここでアルバートの名前を出してしまったの。
頭を抱えたくなった。
ところがユーインはアルバートの名前を聞いてぱっと笑顔を見せた。
「アルバート殿下は姉上を守ってくれるんですね」
「え、ええ」
過剰なほどにね。若干遠くを見つめた。
「姉上がアルバート殿下を愛しているのなら問題ありません」
なんかちょっと違う気がする。
わたしはアルバートを愛しているのだろうか。彼の人となりはとても好ましく、彼の態度を嫌われていると考えていたかつてのわたしは彼のことをあまりよく見ていなかったのだと思う。
ではこの気持ちが愛なのかと言われれば、よくわからない。
「愛しているのかしら?」
ぽつりと落ちた言葉をユーインが首を傾げた。
「姉上?」
「わたし、今のうちにできれば婚約破棄したいと思っているの」
ユーインが戸惑った顔をした。
「でも、お互いに愛し合っているのでしょう?」
「まだ愛じゃないと思うわ。逃げられるなら逃げたいもの」
憂鬱そうにため息を付いた。茶会の席でジョアンナが言い放った言葉が今になって思い出される。醜い傷があることも子供が産めないかもしれないことも事実なのだから仕方がない。
ぐっと彼女の蔑む言葉が突き刺さった。茶会では気にならなかったのに今になってとても苦しい。
「茶会でのこと、気にしているのですか?」
「そうね、そうなるのかもね」
アルバートは本当はどう思っているのだろうか。
傷のことも、社交のことも、子供のことも。
足らないところがあると知っていても、アルバートはわたしと結婚したいという。アルバートの態度を見ていればわたしを大切にしていることを疑いようがない。
だけどきちんと話しているわけではなかった。わたし自身、この体で彼の妃としてやっていけるのか不安でしかない。いつも両親に守られ、隠れて生きることしか考えてこなかった。貴族令嬢のすべきことを体面を気にしてほんの少しだけやってきただけだ。
こんなわたしに彼の隣に立つ覚悟なんて、あるわけがない。
ユーインがじっとわたしの言葉を待っている。何か言わないとまた心配させてしまう。
「姉上、泣かないでください」
「……!」
いつの間にか涙が出ていたようだ。茶会の後には出なかった涙だ。堪えきれなくなった涙はとめどなく流れた。両手で顔を隠し、声を押し殺す。
きちんと現実に向き合わなくてはいけない。
いつまでも見ないふりはできないのだから。




