エピローグa:穏やかな暮らし
リニアに乗ってわずか1時間。ちょっと遠出するくらいの時間で降りると
「よお! 春」
俺の友人は駅の柱にもたれ掛かりながら、改札口の前で待っていた。相変わらず男の俺から見ても顔の良いそいつは、だけど俺には今日も犬みたいな笑顔を向けている。
「久しぶりだな、晃久。元気そうで良かったよ」
晃久は俺に向かってもう一度笑って、行こうぜと通りを指し示した。
晃久の家に向かうまでの道を、久しぶりに肩を並べて歩く。
「晃久。最近どうだ?」
「実を言うと、大学が始まってからすぐは貧乏で死にそうだった。だけど最近は軌道に乗って、ようやくまともに生活できるようになったよ」
何一つ聞いていない言葉に「ちゃんと言えよ」と怒ると、晃久は「だから黙ってた」と笑っていた。俺が怒るのを期待していたように笑う晃久を見て、今はもう晃久が言うとおりちゃんと生活できているのがわかった。
「軌道に乗ったって――バイトか? 前、店長がすごいとか言ってたけど、そこのこと?」
晃久は最近酒場でバイトを始めたらしい。晃久は時間対効果が高いからだと軽く言っていたけど、この顔だし、ちょっと俺は友人の身が心配だったりする。
晃久は何かを思いだしたかのように、うんざりとした顔をしていた。
「俺のおかげで女性客増えてるのに、相変わらずあのババアうるさいのなんの――」
「何か、変なことをやらされているのか?」
心配してそう聞くと、晃久は「違う」と笑った。
「俺は別にそれでもよかったんだけど、あのババアはその根性をたたき直してやるって俺に対して怒り狂っている」
よくわからないが、良い機会じゃないのだろうかと言いそうになった。
「なあ、春。最近俺思うんだ」
晃久を見上げると、晃久は穏やかな視線を前に向けている。
「酒を飲む場所だから、客は一日の間で人として一番ダメな時間なはずだ。だけど、それでも大体の人は、話の通じるすごくまとも大人なんだ」
「うん」
「俺さ、一番身近な大人を見て、大人なんてものは裏を掻くようなクズしかいないと、ずっとそう信じていた。大人の世界に近づくにつれて、世界はあんなのばかりになって、俺は今よりももっと生きづらくなるんじゃないかって――でも違ったよ。俺が思っていたよりも、世界はずっとまともだった」
晃久はそう言ってから、俺の少し前を進んだ。俺からは晃久の後頭部しか見えない。
「でも、わかるわけがないんだよな。だって、俺が一番よく知っているのがあれだったんだ。他の人間もそうじゃないかって、当たり前のように思ってしまう。誰か――誰か他の大人が、それは違うんだと、子どもだったころの俺に教えてくれれば、俺はもっと楽に生きられたんじゃないかって思うんだ」
晃久が『クソ』だと表現する晃久の両親。世の中には、理由はともかく実の親に対してそう思うこと自体を禁忌だと批難する人もいる。
具体的に何があったかは晃久が話そうとしないから、俺も何があったのかは知らない。だけど俺は――晃久の友人としては、晃久がこんなに嫌っているのだから、『クソ』と表現していいんじゃないかと思う。
別にそこについての真偽なんかを議論する気はない。俺にとって、大切なのは友人だ。
そこからはたわいもない話が続いて、「あそこだ」と晃久は小さな水色のアパートを指さした。最近、色を塗り替えたのがわかる、はっきりとしたペンキの水色だ。
晃久はまっすぐそのアパートの一階に向かって、一番手前の扉の前でなぜか手を振ってから扉を開けた。
「ただいま」
その声に、ぱたぱたと小走りで移動する音が部屋の奥から聞こえてきた。そして――
「お帰りなさい! 晃久!」
すごいスピードで現れた黒髪の少女が、そのままのスピードで晃久の胴をがっちり掴むように抱きついた。驚いている俺の前で、頭突きをするようにぐりぐりと晃久のお腹に頭をぶつけていた少女は突然がばっと顔を上げて、そのぱっちりとした瞳が俺を捕らえた。
「春君!」
「えっと、久しぶ――」
俺がすべて言い切る前に、今度は俺の胴に抱きついた。少女の腕にきりきりときしむ体の音に、「結構痛いんだけど……」と伝えると、晃久はそんな俺の顔を見て笑っていた。
やっと俺から身を離してくれた少女は、人差し指を上げながら俺たちの顔を順に見る。
「はーい、帰ったら手を洗うこと! うがいも、ちゃんとするのよ!」
「はーい」
晃久は慣れた様子でそう返事をして、玄関で靴を脱いで少女の横を通り過ぎた。
「春君は、紺色のタオルを使ってね」
「はい」
俺は廊下に立って、晃久が洗面所を使い終わるのを待っていた。廊下の前はもうキッチンで、内装も古いただのワンルームマンションのように見える。でも、シンクは磨かれていて、コップが伏せられたタオルは真っ白で清潔感があった。
「春君、ちょっと通してね」
その声に壁に張り付くと、やかんを持った少女が俺の前を通りすぎて、コンロに火をかけた。
「春君は何が飲みたい?」
「コーヒーで」
「ブラックでいいのよね?」
うんと俺が答えたときに、がらがらと洗面所からうがいをする音が聞こえた。そのあと出てきた晃久と入れ替わるように、俺も洗面所に入る。
洗面所だと思っていた場所には、トイレとバスタブがあって、これがユニットバスというものかと俺は初めて実物を見た。言われた通りに手を洗ってうがいをして、紺色のタオルで口を拭いたあと、廊下に出た。
「春。こっちだ」
晃久に手招きされて、小さなちゃぶ台の前で向かい合うように座布団に座る。この家に部屋はここしかなくて、晃久の後ろの押し入れには、布団が畳んで仕舞ってあるのが見えた。
物が少ないこざっぱりとした男の部屋。一見そう見えるけれど、無骨に見えないほどに、小さな花や白いレースの飾りが、ところどころについている。そして顔を上げると、白いエプロンを着けた少女がトレイにカップを二つ乗せて、こちらに歩いてくるところだった。
「熱いから気をつけて飲むのよ」
晃久が少女の顔を見て、穏やかに微笑んだ。
「ミヤビ。ありがとう」
晃久が子どものころを共に過ごしたあの『レミーネ』はもうここにはいない。今は晃久の両親のもとで暮らしている。
そして、今晃久に寄り添う晃久に似合いの黒髪の少女の名前は、『雅』。
アテナさんが晃久のために、その名前を贈った。
「はい。春君はこっち。晃久の砂糖は、ここに置くわね」
コーヒーカップが置かれた音で、俺は現実に引き戻された。そのあと晃久の横にどんと置かれたのは、大量の角砂糖が入ったポットだ。その中から、晃久は指で角砂糖をひょいひょいと取り出して、つぎつぎとカップの中に入れた。
「晃久。一体砂糖何個入れるんだよ」
俺は驚きのあまり声を上げた。
「いいだろ別に。俺が砂糖を何個入れたって、春のコーヒーは甘くならないし」
晃久はむすっとしている。まあ、そう言われるとそうだな。
「ごめんね春君。晃久は、苦いの苦手なの」
だったら飲まなければいいだろうと言いたくなって――晃久が目を細めながら初めて美味しそうにコーヒーを飲むところを見て、言うのを止めた。
晃久のその顔を嬉しそうに眺めていたミヤビが、座布団を持ってきて、ちゃぶ台を囲むように正座した。そして、頬杖を突きながら、こちらを見上げる。
「ねえ、春君。私、春君の話を聞きたいわ」
「そうだな。これまで俺が話してばかりだ」
二人の言葉に、「俺の話?」と考える。俺の方は、特に何かがあった訳ではなく、いつも通りだ。
「別に面白い話はないぞ?」
「大丈夫。春はいつもそんなもんだ」
うぐっと黙ってから、訥々と話しを始めた。面白い話なんてあっただろうかとそう思っていたけれど、話し始めると色々と浮かんできて、気づけば俺は晃久たちに色々な話をしていた。
晃久はその話を楽しそうに聞いて、時折、俺に面白い考えを教えてくれる。
「なあ、晃久とミヤビの方はどうなんだ」
「ねえ、聞いてよ春君――」
「俺は――」
優しい時間が流れるこの場所で、俺の友人は穏やかに生活していた。




