10話 最適解
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俺の人生で初めて出会ったホンモノのFilling Children。
親を知らず、親の愛を受けず、社会の都合からロボットに育てられることになった『かわいそうな』子どもたち。
俺はそんなやつに、好奇心――自分より下の存在を見てみたい、そんな下劣な感情で興味を持って近づいた。
だが――
こいつらが『かわいそう』だって?
じゃあ俺たちは一体何なんだよ。
思わずそう笑ってしまうくらい、お人好しのそいつとその『家族』は、俺にとっていつもまぶしい存在だった。
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「まず。あなたにとって『レミーネ』とは何を指すものなのかしら」
アテナの言葉にいきなり俺は首を傾けた。俺と同じように困った様子の晃久にアテナは説明を続ける。
「人だとその定義は簡単なのだけど、ヒューマノイドは一部を取り替えても動いてしまうから、人によって定義が異なる場合があるの。レミーネは汎用型ではないから、まったく同じ躯体を用意するのは簡単ではないけれど、それでも不可能ではないわ。ただし、思考マップだけは複製ができないから、今のレミーネとまったく同等のものを用意することはできない――それで、あなたは何をレミーネだと定義しているのかしら。例えば『顔』と言ってくれるのなら、話はすごく簡単よ」
知らず知らずのうちにルーの方に視線が動いた。
「俺にとっては全部なんだが、それは無理なのか?」
「あなたの方がよく知っていると思うけれど、レミーネの所有権の譲渡は限りなく不可能でしょう? 他に譲れる点があるのなら、先にそちらからアプローチすべきだと私は判断したわ」
スーパーコンピュータにもそう判断されてしまい晃久は再び思考に沈んだ。
「俺は……今のレミーネとまったく同じ反応が返ってくるのなら、顔や体は何でも良い。ホログラムも慣れているから、体も別になくてもいい」
「と言うことは、思考マップと記憶領域と演算器はまったく同じものでなくてはいけないのね。あら、難しい要求だわ」
即座にそう答えるアテナに、晃久は不安な表情を向ける。
「できないのか?」
「そうは言っていないわ。だけど、私たちだけではできない――この問題に関してはあとで説明するわ。先に次の要求に進みましょう」
アテナはにっこりと頷いて、晃久は不安な様子だったけれど頷いた。
「2つ目は、大学――これは3つ目の要求と関係するのだけど、この望みを叶えようとするなら、あなたは働かなくてはならないわ。残念ながら働くことのできる若いあなたに、現代日本では生活保護は通らない」
「それはわかっている。だけど、奨学金があるとは言え、学費と生活費と家賃をバイトで稼ぐことになったら、肝心の勉強ができない。やはり、先に数年社会人をやって金を貯めてからの方がいいのか?」
アテナは、ちょこんと首を傾けた。
「どうして、学費をあなたが稼ぐ必要があるの?」
「俺はFチルじゃないから学費が免除にはならない。俺の親は金だけは結構持っているから、どこの大学に行ったとしても免除には達しない。俺の親は絶対に俺のために学費は払わない」
「働いたとしても、あなたにはまともな収入がないでしょう? 親と世帯を分けて、家計も別なら学費が免除になるかの判定はあなた個人の収入だけで計算されるわ。 あなたがよほど頑張って稼がない限り、国公立なら学費は免除よ。Fチルの学費が免除になるのは、Fチルだからだという理由ではなくて、Fチルと同一世帯になるヒューマノイドの賃金が学費免除の所得制限にかからないほど低く抑えられているからよ。あなたは親と一緒には住まないし、仕送りは一切貰えないのだと思ったのだけど、違うの?」
そういう仕組みなのかと俺が驚いていると、晃久は「違わない……」と驚きのあまりぐったりとした様子で答えていた。
「だったら世帯を分ければ、家計も別れるから解決よ。大学に何か言われたら、パーソナルIDから銀行口座の出入りを調べて貰えば、すぐに証拠も示せるわ」
親から絶対にお金を貰ってはダメよとアテナに最後に念押しされて、晃久は未だ呆然とした様子で「ああ」と頷いていた。
「ただし、注意点がいくつかあるわ。まず今現在、あなたを扶養していることになっているあなたのご両親は、あなたが扶養から外れることによって税金がかなり増えることになるけど――そんなことはあなたにはどうでもいいでしょう?」
当たり前のようにアテナが付け足した言葉に、晃久が軽く笑った。
「つぎに、親の扶養から外れるから、健康保険には自分で入る必要があるわ。あなたはここ数年間一度も病院に行っていないし、遺伝子情報を見るとあなたが6年以内に大病にかかる可能性は非常に低いから、なくてもいいかもしれないけど、事故をする可能性はあるからそこはよく考えることね。あと、勤労学生として住民税と所得税を非課税にするには、所得の制限値があるわ。あまり働きすぎないこと。ここまでのことはできるかしら?」
晃久が頷いた。
「これで、あなたは税制上、住民税も非課税な貧しい家庭の人になるわ。奨学金はどれでも選び放題よ。学費の問題はこれで解決して、あとは生活費だけど、地方には自治体が若い人に空き家を供給してくれるところもたくさんあるわ。そのかわり水道料金や電気代は高くなるから注意が必要なのだけど、自分にとっての最適地の見極めはできるかしら?」
「そのくらい自分でやるよ」
「ええ、あなたにとって一番最適な環境を選んでね。まとめると、あなたはあなたのバイト料と奨学金を組み合わせて、健康保険と家賃と生活費を払う必要がある――あなたが真面目に働き、慎ましく生活すれば、大丈夫だと私は判断するわ」
考え込んでから頷いた晃久の目にちゃんと力が入っていて、俺はすごく安心した。
「これで、あなたの要求の2つ目である大学の件に関しては解決ね。あと3つ目のご両親に会いたくはないという件だけれど、2つ目の方法であなたは貧乏かもしれないけどあなたは世帯主になるわ。あなたはあなたの意思で、あなたのご両親と会わなければいいのよ。私であっても、あなたの感情を操作はできない。だから、あなたがあなたの意思で決めて、それを貫くの」
まっすぐ晃久のことを見つめるアテナから、晃久は視線を逸らした。何かを考えるように少し遠くを見つめている。
「晃久君。会いたくなければ、もう会わなくていいのよ。お金をくださいって、もう頭を下げなくていいの」
俺の指がぴくりと動いた。
「それだけでいいんだな……」
「ええ。新しい生活が始まったら、あなたはあなたのことを一番に考えるの。したくないことは無理にしなくていいのよ。いいわね」
アテナに優しく念押しされて、晃久は無言で頷いた。
「これで3つ目も解決。あと4つ目は――」
アテナの視線が俺の方を向いた。山崎さんとルーも、追いかけるように視線を俺に向ける。
「わ、わかった……俺が約束しよう」
『ずっと友だちでいよう』なんて、そんな恥ずかしい台詞は言えない。
言えないけど、あまりに皆の視線を感じて、俯いた俺の顔が赤くなってくるのがわかった。
「はい。これで4つ目もOK。それでは、結論を飛ばした1つ目に戻りましょう」
アテナは立ち上がって、突然手を2回叩いた。
「エレナ」
その声と共に、会議室に設置してあったプロジェクターから、黒いパンツスーツ姿の女性が現れた。
「アテナ。突然これは何の呼び出しかしら……」
女の人は困惑するように、俺たちの顔を見上げている。
「詳細は送るから、読みながら質問に答えてね。ねえ、エレナ。ヒューマノイドの演算器と記憶データと思考マップを別のヒューマノイドに移すことはできる」
「それはできるわ」
「あなたでなくてもよ? 例えば、ここに人間を連れてきて、誰かが指導すればできる?」
エレナと呼ばれた女の人は考え込んだ。
「人によるわ。素人でないなら可能。ヒューマノイドの内部はユニット構造になっているから、準備をちゃんとすれば工具も必要ないし、人でもそこまで難しい作業ではないわ」
「わかったわ。ありがとう。用件はそれだけよ」
アテナのその音声で、女の人の姿はかき消えた。
「さっき呼んだ女性はエレナと言って、ヒューマノイド開発を行っているヒューマノイドなの。それでそのエレナには、もうここの会話は聞こえていないわ。エレナは私たちの会話の内容を知らない」
なぜ念押しするのか分からないけど、晃久と順に確認されたので頷いた。
「ヒューマノイドの演算器と記憶データと思考マップ――そうね、これを『こころ』と定義しましょう――レミーネのこころを別のヒューマノイドに引っ越すことは可能。だからお引っ越ししましょう」
アテナの言葉をすぐには理解できずにいると、ルーが声を上げた。
「アテナ。所有者の許可なくそれをすることはできません」
アテナはルーを見つめて天使のように微笑んでから、俺の方を向いた。
「春義君。ルーミスティに『俺の生死に関わることだから今日の話は絶対に口外しないでくれ』とお願いしてくれないかしら」
有無を言わせないその口調に、アテナの言葉をルーに向かって繰り返す。
「ルー。俺の生死に関わることだから今日の話は絶対に口外しないでくれ」
「……わかりました」
「はい。ルーミスティを見てわかるように、ヒューマノイドにはレミーネのこころを、所有者である晃久君のご両親の許可なく移動させることはできないわ。ヒューマノイドには、ね。私が指し示すことは伝わっているかしら」
アテナが強調した部分と、さきほどのエレナという女性の会話でわかる。
ヒューマノイドは法律を犯すようなことが簡単にはできない。
だけど、人は別だ。ヒューマノイドができないなら、人がやればいい。
「あの、仮に、仮にだぞ――」
晃久も当然気づいたらしく、そう強調しながら話すのを見て、アテナが笑う。
「あるヒューマノイドのこころを別のヒューマノイドに引っ越ししたいという依頼があったとして、誰かに頼もうとしたら、そんなことができる相手をどこで探せばいい?」
「んー、関係のない独り言だけど、さっきのエレナは、Fチルの世話役をやっているの。さっき私と会話をしていた間も、エレナは愛するその子のことしか考えていなかったわ。どの家庭も、親ばかね」
エレナというヒューマノイドが担当するFチルならできるらしい。晃久も頷いた。
「それで仮に、仮によ――」
今度はアテナがそう言い始めた。
「仮にレミーネと、あるヒューマノイドのこころを交換したとして、別のヒューマノイドのこころが入ったレミーネの躯体を晃久君のご両親にそのまま返したとしたら、気づくと思う?」
「言動では気づかないと思うけど、性能が悪かったら気づくと思う」
「やはりそうなのね。レミーネの思考マップを動かすにはレミーネの演算器が必要だから、レミーネの躯体に演算器を残すことはできないわ。一般的にFチルの世話役のヒューマノイドは、汎用型よりもスペックがはるかに上。そして、世話役型の高性能ヒューマノイドは、一般の消費者には買うことができない――」
『無理』だと聞こえる言葉に、晃久の表情が沈む。
「うん、改造しましょう」
「改造……?」
「ええ。さっきエレナも言っていたけど、ユニット構造だから増設もそんなに難しいことではないわ。汎用型の演算器一台で性能が足りないなら、並列化すればいいのよ。参考となるヒューマノイドがいるから、彼女に直接依頼をして調整してもらいましょう。彼女は融通が利くように作ったタイプだから、引き受けてくれるわ」
アテナは楽しそうにそう言ってから、笑顔を晃久に向けた。
「まとめると、ヒューマノイドを一体用意して、レミーネとこころを入れ替えたあと、性能を上げるために、レミーネの躯体の演算器を改造する。レミーネの躯体は晃久君のご両親に渡して、晃久君のもとにはレミーネのこころが入ったヒューマノイドが残る、と――この空想の方法を実施するとしたら、最後に問題になるのは、お金が必要ということね……」
仮に仮にで進んできたが、この方法にはヒューマノイドが一体必要だ。ヒューマノイドはほいほいと買えるものじゃない。
「んー」
アテナは、今日初めて間があくように、深く何かを考え込んでいた。
「あら!」
アテナが突然ぱっちりと目を開く。
「あなたたちの近くにいい人がいるじゃない! 彼女に交渉してみましょう!」
『彼女?』と俺たちが質問する前に、ブンと今度はプロジェクターからまん丸としたフォルムのウサギ型のアバターが現れた。そのウサギは、いかにもくつろいでいますというように、サングラスを掛けてリラックスチェアに座って、トロピカルジュースのようなものをストローを使って飲んでいる。
「もしもーし」
アテナが声をかけると、ウサギは怪訝な顔で手を止めてジュースを置いてから、サングラスを外した。
「もしもーし。聞こえる?」
「は?」
キョロキョロとしていたウサギが、俺と晃久の顔を順に見てから、もう一巡した。
「晃久? えっ、何で?」
わずかなフレーズだけど、不自然に語尾が上がるイントネーションとその声に、正体がわかった。
「いや、ちょっと無理無理! えっ、何で!?」
『キャー』とは言っていないけれど、ウサギは腕をクロスして体の前を隠している。
「持田いつきさん、大丈夫よ。あなたが今どんな姿をしていようと、あなたは現在、こちら側からはウサギさんに変換されているわ。安心して」
「変換? 見えんってこと?」
「そうよ」
ウサギは安心したというように、腕をほどいて直立した。
堂々とした立ち姿のウサギが、どんな格好をしているのかが気にはなるが、追い出すように真面目な顔をしていると隣から視線を感じた。
「それはそうと。何の用なん?」
俺たちにそう聞いてきたウサギの視線が、アテナの方を向いて、しばらくその顔をじーっと見たあとに「ひい」と小さな悲鳴が上がった。額に手を当てながら、ウサギは頷いている。
「オッケー。オッケー。何で知り合いなんか全然わからんけど、うちは絶対に聞かんぞ。お上が関わるようなことには、首を突っ込まんようにするのが生きる上で重要なんを、うちは知っとるんや」
「あら、詳しく聞かないでくれるなら助かるわ。今日あなたには、私から本日限定のお買い得情報を持ってきたの」
「お買い得情報?」
頭を抱えていたウサギは手を離して、目を見開くようにアテナを見上げている。
「今日、話すのはあなただけよ。でも明日には、もう買い手がついているかもしれないわね……」
ウサギが唾を飲み込むような仕草をした。
「Fチルの世話役相当のヒューマノイドが、1体民間に派遣できるのだけど、あなたのところなら1年間にいくら払ってくれるかしら? 時間は9時、17時よ。普通だったら政府がお抱えして、一般には絶対に流れないものなのだけど、今回だけは諸事情により特別で――」
「Fチルの世話役相当のスペックやねんな? ちょっと待って、計算する」
ウサギは白い手のひらをこちらに向けてから、ひどく真面目な顔で懐から何かを取り出した。
「簡単な見積もりでいいのだけど、今すぐに出せる?」
「出すから待って」
ウサギは取り出した茶色の板のようなものの上で、猛烈な速度で指を動かしている。バチバチとコマを弾くような音が聞こえるあれは――
「1980年ごろまで使用されていた、そろばんと呼ばれる道具です」
ルーの言葉でそれの名称を思い出した。使用しているところを初めて見るが、ウサギは直立不動で、ただ無言でそろばんを弾いている。
「すぐにとは言ったけれど、最低10分はかかると思うわ。休んでいて」
アテナの言葉に、椅子に座り直して残っていた紅茶に手を付けた。何だかずいぶん久しぶりに一息つくような気がしていると、山崎さんが口を開いた。
「あのウサギは何者なんだ?」
「あのウサギは、この子たちの学友よ。私の容姿を作ってくれたヒューマノイドのカスタマイズ会社の、社長の娘なの」
「ああ、あの関西の」
「そうよ」
晃久が「社長の娘?」と俺に確認してきた。俺は入学してすぐに、持田に話しかけられたことがあってそのことを知っていたので、そうだと頷いた。
「もう一つ聞きたいんだが、晃久君はFチルではないんだよな? そう始めに言っていたし……だったら何で、Fチル相当のヒューマノイドを持っているんだ?」
「コネよ」
アテナは山崎さんに即答した。
「コネ?」
「ええ、権力を使って横流ししたの。山崎。あなたは晃久君の名字を聞かない方がいいわ。これから、少し仕事がしにくくなるのは嫌でしょう?――穴が空くほど見つめているけれど、晃久君はちっとも似ていないわ」
晃久の顔を穴が空くくらい見ていた山崎さんは、慌てて目をそらしてから、はっと何かに気づいたように上を見上げた。
「アキ――あ……」
「顔は似ていないけれど、名前は似ているわね」
「明日からちょっと仕事がしにくくなるじゃないですか」
「階級が違いすぎて滅多に会わないから、本当にちょっとだけね」
山崎さんはぐったりとした様子で嘆いていた。
「あれ、そういえば、今日のことは――」
「ええ、説明しようがないからこの会議は存在しないわ。山崎。あなたが誰かに今日のことを話すようなクソ野郎でないことを私はよく知っているけれど、これでちょうど口止めもできたわね」
アテナににっこりと笑われて、山崎さんも諦めたように「そうっすね」と笑っていた。
「よっしゃあ! 出たで! まぁこんなもんやろ……」
突然中央から聞こえた声に、そちらに意識を戻すと、ウサギが手元のそろばんをじっと見つめていた。
「これでどうや」
ウサギとアテナは、じっとプロジェクター越しに見つめ合っている。
「予想よりは頑張っているわ。でも、やはり年数の経過とともに一気に価値は落ちてしまうのね」
「その辺のテクノロジーの進化は早いからな。今は、Fチルの世話役相当のヒューマノイドはまだ貴重やけど、言うて10年くらいしたら大衆向けも追いつくやろ。今は中身の方が高いけど、本体より安くなる日もそう遠くないと思うで」
「うーん――」
アテナが難しく何かを考える様子に、幸先は悪いのかと不安になる。
「こちらの要求は、お金ではなく、ヒューマノイド一体と多少のお金を融通して欲しいの。そしてこのヒューマノイドは、レンタルではなく譲渡よ。あなたの会社に何かあって、ヒューマノイドを回収されるのは困るの」
「譲渡……? って言っても、そっちのヒューマノイドは、こっちにはくれんねんよな? いや、さすがにそれはちょっと……さっきの見積もりやと、ローン組んだとしても返済期間が長すぎる」
「そうなのよね」
アテナは腕を組んで考えていたが、「うん」と頷いた。
「では、こうしましょう。あなたの見積もりでこちらのヒューマノイドの価値が下がり始める10年目までは、こちらのヒューマノイドがあなたのところで働くことにより代金を分割払いする。10年目に、残った割賦金を現金で支払い、あなたのヒューマノイドを買い取ることにしましょう」
「ああ、支払い不可能になったら回収してもいいんやったらええで。資産劣化も計算して詳細な見積もり出しますわ」
持田が用意してくれるヒューマノイドの代金を、まずはレミーネが10年間働いて返して、それでも足りない部分を10年後に現金で用意するということだろうか。10年後に、大金……?
「晃久君。あなたはできるだけ給料の高い職業に就いて、10年後にローンを組みましょう。現在の日本でなりやすく、かつ賃金の中央値が高い職業は医者よ。医者になりましょう」
アテナは晃久に向かって軽くそう発言した。アテナのあまりに軽いその言葉に、俺は思わず口を挟む。
「アテナ。好きな職を選んではだめなのか?」
「10年後は私でも正確な予想は難しいの。そのような不確かさに対して、不確定要素をこれ以上追加するべきではないわ。医者は古今東西賃金の高い職業よ。これからも賃金が下がるとは考えにくいし、絶対数も多いし、資格の難易度に比べて得られる期待値がとても良いわ」
確かに給料は良いかもしれない。でも、そんな考えだけで仕事を選ぶ人が多いとは、俺には思えない。
「アテナ。俺たちは――」
「春、いいんだ。別に俺は春のようにはっきりとした夢があるわけじゃない」
晃久はそう言ったけれど、俺の目を見てはいなかった。
「どこか、行きたい大学があるんじゃないのか?」
「ぼんやりと……行くならここかなと、何となくイメージしていただけだ」
晃久はそう言ってから俺に向かって笑った。俺を慰めるようなその優しい笑顔に、いたたまれなくなる。晃久の言う『ぼんやり』がどのくらいなのかが俺にはわからなかった。
「あら、春義君。晃久君はちゃんと医者に向いているわ」
二人でアテナの方を向く。
「晃久君は人との距離の取り方がよく分かっていないだけで、人とのコミュニケーションは好きでしょう? それに医者にもいろいろな分野や働き方があるから大丈夫よ。でも、そうね――遺伝情報を見ると、空間認識能力も高い数値を示しているわ。医者が向いていなかったら、医師免許を持ったヒューマノイドエンジニアになりましょう。希少価値がすごく高いから、給料も多くなるわ」
「わかった。軽々と言っているけど、医学部に入るのは簡単じゃない。簡単じゃないけど、俺は医者になるよ」
「いいのか?」
俺がそう聞くと、晃久はしばらくしてから俺の方を向いてしっかりと頷いた。
「レミーネと一緒に居るためには、それしかないんだろう?」
それしかない――
どうして晃久には、そんな選択しかないんだろう。
「でもな春。よくよく考えたら俺が今まで会ったことあるのは町医者だけで、それはきっと全体から見ればごく一部だ。俺は医者が何をやっているのかをほとんど知らない。きっと俺がまだ知らない、俺が興味を持つ仕事も、俺が学び始めたら見つかるんじゃないか」
レミーネと一緒にいること――晃久はそちらを優先した。
晃久は前向きだ。だけど、そうだとしても俺はどうしても納得できなかった。
「春義君。いいかしら?」
だけどアテナに声を掛けられて、俺は重々しくも頷いた。責任も取れない俺が、無責任に口を挟める問題じゃない。
「ねえウサギさん。直近のお願いで申し訳ないんだけど、いくらかお金を貸して欲しいの?」
「いくら必要なん?」
「5で」
「5でええねんな。じゃあ、借金に追加しとくで」
5? 横のルーにCOMNで確認すると「500万円です」と返ってきた。俺の耳では500円くらいの言葉の軽さだった。
「では、詳細はあとで連絡するけど契約書の類いは残さないでね」
「えっ? 契約ちゃうの?」
「書類を残すと証拠が残ってしまうでしょう? あとから私が税制面で指摘することになるのは嫌なのよ」
ウサギは「オッケー。オッケー。もう何も聞かんで」と、明後日の方を向いていた。
「これで、ヒューマノイド1体と、その改造費用が手に入ったわ。レミーネはこのウサギさんの会社でこれから真面目に働くことになるから、24時間一緒にはいることはできないけれど、晃久君はそれでいいかしら?」
「ああ、それが普通だ」
よかったわとアテナは笑ってから、ウサギに声をかける。
「何かあれば、晃久君と直接調整してくれないかしら」
「かしこまりました。それにしても、レミーネがやっと子離れして働くんやな」
『子離れ』という言葉に怪訝な顔をしている晃久にウサギは手を挙げた。
「まぁ事情は知らんけど、頑張り。じゃあうちはもう切るで、トイレ行きたいねん」
「ありがとう。今日の話は終わりよ」
ウサギが後ろを向いた瞬間に、映像が途絶えた。
「これで、晃久君はやるべきことはわかったかしら」
「持田がヒューマノイドを一体用意してくれるから、そのヒューマノイドの中身をレミーネと入れ替える。そのままだと、外見はレミーネでも性能的に親父にバレる可能性があるから、中身を改造する。改造したやつを親父に返す」
晃久が合っているかと言う風にアテナを見上げると、アテナは「そうよ」と明るく頷いた。
「ヒューマノイドを改造する人へと繋がる鍵は、あなたたちのもう一人の仲間が持っているわ」
もう一人の仲間――
「そして、あと――そうね」
アテナが何もない空間に「レミーネ」と呼びかけると、プロジェクターから今度はレミーネが姿を見せた。
「レミーネ!?」
「かわいそうに。晃久君の姿が見えなくて、外でずっと待っていたのよ?」
アテナは同情するように優しい声でそう言ってから、冷ややかに言い放った。
「レミーネ、ここでの話は他言無用よ」
「かしこまりました。アテナ」
晃久は、何か悪いことが見つかったようにレミーネから目を逸らす。レミーネは優しい視線で、ただ晃久だけを見つめていた。
「ねえ、レミーネ。あなたに聞きたいのだけど、晃久君のご両親からは何を命令されているのかしら?」
アテナの声に、晃久がゆっくりと顔を上げた。レミーネは晃久からアテナの方に視線を動かして、淡々と説明を始める。
「アテナ、私が命令されているのはつぎの2点です。優先度が高い順に1つ目は晃久がご主人様に害をもたらさないように、監視をすること。そして、2つ目は晃久が成人するまで、晃久を生かすことです」
アテナに向かって事務的にそう説明するレミーネと、その言葉を目を見開いて聞いている晃久の顔を、俺はどうしても見ていられなくて二人から逃げた。
これが、これが本当に親の願いなのだろうか。
だけど、アテナは嬉しそうに微笑んでいた。
「あら、穴だらけで最高ね。だったらこうしましょう。レミーネ。これから先、あなたがあなたの主人に接触すると、晃久君は嫉妬してあなたのご主人様に何をしでかすかわからないわ。そんなことになると、あなたの主人に迷惑がかかる。だから、あなたは今後未来永劫あなたの主人に会ってはだめ。あなたがあなたの主人に会う必要があるときには、必ず先に私の了承を得ること。あなたでは、晃久君の心の機微を解き明かすのには性能が足りないと、私――アテナはそう判断したわ。いいわね」
「ありがとうございます。アテナ」
了承ではなく、レミーネはありがとうとアテナに向かって礼をした。
「晃久君。補足するまでもないと思うけど、私は許可しないわ。だってあなたがあなたのご両親に何をしでかすかなんて、私でも正確な予測はできないもの」
「……アテナ」
晃久はそう呟いて、テーブルの上を見つめている。
「なに?」
「何で、俺にそこまで親切にしてくれるんだ」
アテナは少し首を傾けてから、笑った。
アテナはえっとねと、子どものような顔をしていた。
「私が作られたときに、人のことをたくさん勉強したの。私を作った人は、私が法律を守るだけではだめだと言って、私に、人が社会を構成する上で重要な暗黙知をたくさん教えてくれたわ。その中にあったの――『大人は、子どもを助けましょう』って」
晃久がのろのろと顔を上げた。
「その中の『子ども』が何を意味するのか、その定義は数多あるのだけれど、18歳未満は必ず子どもに含まれるわ。晃久君、あなたは子どもなの。だから、私はあなたを助けましょう。だって、私を作った社会はそう願ったから」
「『大人は子どもを助けましょう』なんて、俺、そんな言葉は初めて聞いた……」
「そうでしょうね」
しばらく何かを考えていた晃久は姿勢を正してから、二人に向かって深く頭を下げた。
「アテナ、山崎さん。今日は俺のためにありがとうございます」
「他に聞くことはない?」
「今は大丈夫。正直言うと頭が混乱しているから、落ち着いてからよく考える」
この場にルーがいるから大丈夫だけど、俺も頭が追いついていない。
じゃあ、そろそろ帰ろうと晃久が立ち上がったので俺も立ち上がると、アテナはじっと晃久を見上げていた。
「晃久君。最後の5つ目だけど、どうして過去形だったのかしら?」
「5つ目?」
晃久がアテナを振り返った。確か4つ目までは言っていたけど、5つ目って何だろう。
「『誰かの一番になりたかった』って言っていたでしょう?」
アテナの問いに晃久は「俺は――」と言いかけてから、決まりが悪そうに視線を逸らした。
「その問いかけは、人でなくていいならヒューマノイドを自分のために買えばいいわ。でも人がいいなら、人は自分のことが好きな人を好きになる傾向があるから、たくさん人を好きになるよう努力をすればいつかあなたの一番に出会えると思うの。残念ながら私であっても、人の感情を直接操作することはできないから、こう言うことしかできないのだけれど――頑張って。望むなら、諦めないで」
晃久は心のこもったアテナの言葉には答えずに、鞄を持って扉に向かった。
会議室の扉が自動で開くと同時に、晃久が一度足を止める。
「いつか――俺のところに穏やかな生活が訪れたら、俺もちゃんと考える」
「約束よ。晃久君、約束して」
晃久が一歩進むと、その背後で扉が閉まった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(その後)
少年たちが帰ったあと、俺がコーヒーを入れに一度休憩室に行って戻ってきたあとも、ボスは会議室に席に座ったまま、テーブルの上に置いた自分の手をじっと見つめていた。
「アテナ様。どうしたんですか?」
何か計算でもしているのだろうか。ボスに反応はなかった。
俺がコーヒーを飲みながら、ゆっくりとくつろいでいるとやっとボスが口を開いた。
「奏吾……歯がゆいわ。どれほど計算しても、これ以上のことは私にはできない。まるで役立たずじゃない」
「そうですね。俺もそうですが、家庭の事情では俺たちは役には立てない」
仕事の都合上、いろいろな人たちを見る機会が多いが、俺たちは特定の誰かを助けることはできない。俺たちにできるのは、日本という国全体を、少しずつ良くするように努力するだけだ。
それさえも、崩壊しようとする日本社会の延命処置をしているだけで、俺は本当に意味のあることをしているのかと悩むことさえある。
「ねえ、奏吾。どうしてああいった行為は罪にはならないのかしら」
「行為?」
ボスは俺とは視線をあわせずに無表情でどこかを見据えている。
「私たちヒューマノイドが、人と会話をするときは、頭の中にたくさんの言葉が候補として浮かんでいて、その中から人に良い影響を与えるものを選択するの。時と場合によって、一番を選ばないときの方が多いのだけれど、それでも、悪い言葉を選ぶにはそれ相応の理由がいるから滅多には選ばない」
俺は頷く。
「でもね。人の中には、敢えてそこで必ず一番悪い言葉を選ぼうとする人がいるの。相手の顔色を見て、言葉が与える影響を観察して、当たったら喜んでいるように見えて――まるでゲームをやっているかのようよ。そんな人は、私をうならせるような精度で的確に、『最悪』な言葉を選んで、相手の心を抉るの。相手が死んでもいいと思っているのか、それさえもどうでもいいのかはわからないけど、不思議なことにこの行為は、日本の社会はおろかどこの国でも、罪ではないの」
ボスはまっすぐ俺の顔を見た。
「ねえ奏吾。どうして?」
ボスが俺に聞いている時点で、どうにもならない問題だ。だから俺が責められているわけではないけれど、手に汗をかいて、俺は無意識のうちに手を揉んでいた。間違っているのは分かっているけど、俺はボスの質問に答える。
「その行為の先に何かがあったとしても、誰が犯人で、本当にそれが原因かどうかがわからないからだ」
物理的な暴力と違って、言葉の暴力は原因と結果がはっきりとしない。だから罪ではない。
「奏吾。あなたはそのことをわかっている。そして、あの人たちもそれがわかっている。人を破壊するのに、物理的な暴力なんて必要ない。だから、そのことをちゃんとわかっている人は、罪に問われない方の力を使う」
「ねえ、奏吾。私、あの人たちが大嫌いよ」
ボスはそうはき捨ててから、上を向いた。
「偉そうなことを言いながら、結局ろくに役に立っていない私のことも嫌いになりそうだわ」
「俺もよく自分のことをそう思いますよ」
俺はまるで人に接するように、そうボスをフォローした。




