6話 独白
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スーパーの棚いっぱいに詰まったお菓子。
俺にとってあれは、ただ見上げるだけの存在だ。
友だちの家や児童館。そんな場所で食べたことはあるけれど、遠足の日以外に買っている存在がいるなどと、考えたこともなかった。
俺が仲の良かった友だちとそのお母さんと一緒にスーパーに行ったある日、暇だった俺はスーパーの中を回って、そしていつものようにあの棚を見上げていた。
「今日は一つだけよ」
友だちのお母さんが言ったその言葉が、俺にも向けられたものであることに俺は始めまったく気がつかなかった。気がつかなかった俺は、もう一度面と向かってはっきりと言われてやっと理解して、そして困惑した。
どうして俺にも買ってくれるのか、俺なんかにお金を使う理由が、俺にはどうしてもわからなかった。
盛大に動揺して、何度も「いい」と断っていた俺は、周囲の目で少しずつ必死に断る俺の方がおかしいことがわかってきた。だから俺は、目に見える範囲で一番安かった板チョコを手に取った。じゃあこれと板チョコを渡すと、友だちのお母さんは目に見えてほっとしてから、俺に向かって明るく笑った。
お会計が済んだあと、俺は友だちのお母さんに何度もお礼を言ってから、板チョコを手にもったまま、友だちとバイバイをして家に帰った。
家に帰って、スーパーの袋から板チョコを取り出した。
その板チョコを手に取って頭の中に浮かぶのは、友だちと別れる最後の瞬間――俺に並んで笑顔で手を振る、友だちと友だちのお母さんの姿だった。
俺が捨てられたら、あの中に入れてはくれないだろうか。
涙がこぼれそうになって口をぎゅっと閉じてから、急いで板チョコの包みを破って、そのままかぶりついた。
チョコは甘くて、美味しかった。
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晃久と調理室で話したあの日、晃久はやっぱり様子がおかしかった。けれども、あれは何かの間違いではなかっただろうかと、そう思えるくらいそのあとはいつも通りだった。晃久は周囲の目があるところではいつも通りふざけたことをして、話の話題は8割方エロだ。
だから、一学期の中間テストが終わってから1週間ほど経ったある日曜日、クラスメイトから突然電話があって、その話を聞いたときは何かの冗談だと思った。
「春、今どこ?」
「俺は家だ。どうした?」
「俺さ……今日たまたま買い物に行ってたんだけどさ、晃久がなんか警察連れて行かれて――」
「警察?」
聞き慣れない言葉に思わず立ち上がってしまう。
「何があったんだ?」
「俺が見たときはもう警察の人が来てたからよくわかんないんだけど、なんか晃久が数人の人に地面に押さえつけられてた。春に言っていいのかよくわかんなかったけど、一応、俺見かけちゃったし……」
言っていることはわかるけど、状況がまったくイメージできない。
「……ありがとう。連絡助かった」
「ん、じゃあな」
通話を切って、一度深呼吸をしてから後ろを振り返れば、廊下にはルーが立っていた。
「ルー。晃久は今どこにいる?」
ルーは、少し視線を下げたまま俺から目を逸らして、俺の質問に答えようとしない。
「ルー。晃久のCOMNの位置から分かるだろ? 教えてくれ」
そこまで言って、ルーはやっとおずおずと顔を上げた。
「春。晃久君は、春には知られたくないことだと思います」
俺に知られたくないこと?
「ルー。それは、俺が知らない方が晃久のためなのか」
「それは……わかりません。ですが、晃久君は春には隠したがっていた」
晃久が俺に隠していることをルーはどうやら知っているらしい。それが何なのかは少し気になるけど、今大事なのはそんなことじゃない。
「ルー。晃久がいるのは警察署だろう?」
警察署は現代日本では唯一と言っていいネットワーク通信が遮断されている場所だ。晃久が警察に捕まっていたらレミーネでは動きが取りにくいだろう。そして俺たちには人の親戚は一人もいないんだ。
「迎えに行こう」
だから俺が行こう。晃久を迎えに行こうと、そう思った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ルーが教えてくれた警察署に行って、ただの知人である俺は門前払いをくらって、入り口にあるベンチに座って、出てくるのかもわからない晃久をただ待っていた。
そのまま3時間くらいだろうか。奥から誰かが出てくる音に何度目かわからないほど顔を上げると、やっと晃久の顔が見えた。慌てて立ち上がると、その音に晃久の視線がこちらを向く。晃久は何か悪いことをしていたのが見つかったかのように、驚いた顔をしてから俺に向かって誤魔化すように笑った。
あれは晃久だと、そう思える笑顔にほっとしていると、晃久の視線が晃久の後から出てきた中年男性の方に向いた。その男性は、不快そうな目で晃久を一瞥してから前を向いた。
「来年の4月だ。4月までには必ず出て行け」
そう男性は言い捨ててから、苛立った様子で足早に俺の前を通り過ぎた。
その男性に取られていた視線を後ろに向けると、晃久が体のこりをほぐすように片手を伸ばしている。
「疲れた!」
晃久は腕を降ろしてから、俺の肩を叩いた。
「じゃあ、春。行こうぜ」
俺の前を横切った晃久が、外の日差しに目を細めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
どこに向かっているのかわからないが、ついてこいと言われている気がして、しばらく無言で晃久について行く。
「何から話せばいいか……」
俺の前を軽い足取りで歩く晃久がつぶやいた。俺からは晃久の顔は見えない。
曲がり角を曲がって、現れた車を避けようと気を取られていたときに、晃久の声が届いた。
「春。さっき冴えないおっさんいただろ? あいつは俺の親父だ」
親父? 慣れない言葉が、頭の中でぐるぐると回る。
「遺伝子上の?」
「そうなんだけどさ。何て言ったらいいのか……普通のだ」
「普通の?」
晃久が立ち止まって振り向いた。晃久の刺さるような視線に、俺は自然に足を止めた。
「春。俺はFチルじゃない」
Fチルじゃない?
俺が無意識のうちに呟いたのかはわからないけど、晃久は小さく頷いたあと、また前を向いて歩き始めた。晃久と間隔が空いてしまっていたので、俺は足早についていく。
しばらくまた無言で歩き続けて、晃久は赤い鳥居の前で足を止めた。こんなところにあるのかと、街中にぽっかりと現れた小さな神社だ。
「ここで話そう」
頷くと、晃久はまっすぐ手洗い場に向かった。神社での作法がよくわからないから、横の晃久を真似て俺も手を洗う。慣れた様子で手を洗い終えた晃久は、境内を横断して、石でできたベンチに座った。
俺もその横に腰掛けて、どこか肌に感じる神聖な空気に深呼吸をする。
「何か言わないのか?」
「いや驚いた。驚いたけど、Fチルじゃないってどういうことだ?」
ずっと考えていたけど、よく意味がわからない。
「俺は、普通に人の腹から生まれた」
Fチルは女性のお腹ではなく人工母体システムから生まれるけど、別にFチル以外でも母親が高齢だったりするとそんな子たちはたくさんいる。Fチルとは何かと聞かれて、生まれ方が違うことについて定義する人はよくいるけど、俺はそうじゃないと思う。
「晃久。でもレミーネは晃久の世話役なんだろ?」
レミーネが晃久の世話役だったら、俺にとってそれはもうFチルだ。そう続けようと思っていたけれど、
「レミーネは……」
晃久の言葉はそこで止まった。晃久は軽く息を吐いてから、ただ無言で、境内に広がる樹木を見上げていた。
何かを含んだようなその横顔に、聞いてはいけないことを聞いている気分になって、俺は言い直した。
「いや俺は、別に晃久がFチルだろうが、そんなことは別にいいんだ。嘘をついてたのかもしれないけど、怒るような内容じゃない。でもただ、何でなんだろうなとは思う」
詩織ちゃんがここに来た当初にFチルであることを隠していたように、隠すか隠さないかを選べるのなら俺だって隠したと思う。それなのにどうしてFチルじゃないのに、Fチルだと嘘をつくのか。その理由が見当もつかない。
「春も、詩織ちゃんと同じようなことを言うんだな」
「詩織ちゃんは知っているのか?」
「前の呼び出しの内容がそれだ。俺が告白しに行ったわけじゃない」
「そ、そうか」
晃久の顔を横目でちらりと見ると、晃久は考え込むように上を向いていた。
「春。俺の遺伝子上の母親は、俗に言うパブ嬢ってやつだ」
パブ嬢。突然始まった軽い言葉に思考が一瞬止まった。
「俺の父親はある晩、色々とテンションが上がって羽目を外したらしい。その一夜の過ちで、できちゃったのが俺だ」
無言になったので、「うん」とひとまず相づちをうった。晃久は昨日あった出来事を話すみたいに軽い口調だけど、重い話を紛らわすために敢えてそういう言葉を選んでいるのだと思う。
「俺ができたことが家にバレて、揉めに揉めたそうだ。だけど、あいつの家は名家だったし、あいつはFチルの監督委員の仕事をしていたから、どうしても俺のことを堕ろせなかったらしい。それで俺は生まれることになったんだけど、俺の母親は俺を産んだあと金だけもらって国に帰ったから、俺はあいつに引き取られて本邸で本妻の子どもと一緒に育てられることになった」
「……うん」
晃久の言葉が淡々と続く。
「で、案の定、本妻が俺の存在に耐えきれなくなって、俺が5歳のときに俺は家から追い出された。俺はワンルームマンションで暮らすように言われて、家政婦さんがときどきやってくる以外は、ほぼひとり暮らしだ」
淡々と語る晃久が、息を整えるために流れる一瞬の空白――俺はその間に、膝の上で固く手を握ったまま「うん」と相づちをうつことしかできない。
「それで俺が小2のときだ。あいつが、レミーネを買ってきた」
その言葉に晃久を横目で見ると、晃久は目を細めて遠くを見つめていた。
「レミーネは、Fチルの世話役をやっていたヒューマノイドだ。だけどレミーネの担当するFチルは病気で亡くなったらしい。浮いたレミーネをあいつはコネを使って買い取ってきた。『今度からこのロボットが世話をすることになった』と言われて、俺は始めは何だと思ったさ。俺の家政婦は俺が慣れてきたころに交代することがほとんどで、長くは続かなかったから、ついに人間を探すのを諦めたのかって――だけど、レミーネが俺のところにやって来て、初めて俺の『普通』の暮らしが始まった」
かすかに微笑む晃久は何を思いだしているのだろう。
「さっそく初日から帰ってくるのが遅い、遊びに行くならちゃんとどこに行くのかを連絡しなさいって怒られたよ。俺、初めて面と向かってまともに怒られたから、すげー驚いた。だけど、なんで怒るのか全然理由がわからないし、なんでロボットにそんなこと言われなきゃいけないのかって、いきなり喧嘩した。なあ、春。俺は、レミーネと一緒に暮らし初めて、自分がわかんないことだらけだってわかった。箸の持ち方とか、物の片付け方とか、人に謝る方法とか、そういうことは全部レミーネに教わったよ」
晃久はそう言って、ふと笑った。
「俺はハーフで顔立ちはそうでもないけど、小さい頃は髪色も今よりずっと明るくて目立ってんだ。それで、子どものころは周囲のやつから『母親は金で買われたんだ』ってずっとからかわれてて――まあ実際にその通りなんだけどな――俺はそう言われるのが嫌で『俺の本当のお母さんはアメリカ人で、研究者で今は日本にいないだけなんだ』って嘘をついてた」
子どもは意外と敏感で、そして残酷だ。
「それで、レミーネが俺のところに来てからの、初めての授業参観の日だ。俺はレミーネに絶対に来るなって言っていたのに、レミーネは俺のクラスにやってきた。しかも、金髪にグレーのスーツを着て、教室の入り口から大きな声で『はあい! 晃久』って。俺英語わかんないのにレミーネは英語で話しかけてくるし、大人は知っているはずなのにレミーネに完全に飲まれていたし、今朝まで黒髪で地味だったのにどうしてって、ほんと訳がわからなかった」
晃久は笑っていたけれど、少し泣きそうにも見えた。
「なあ春。俺、よく言われるんだ――レミーネの優しさは『作り物』だって。そんなものを貰って、喜んでいる俺が変だって。そう言われ続けて最近俺、やっとわかったんだ。俺には全然わからないんだが、どうやら普通に育ったやつには、相手から向けられた優しさが、本物かそうでないかがわかるらしい」
晃久はそう言葉をこぼしてから、上を向いた。
「なあ、そんなやつらに勝てるわけがないと思わないか」
晃久は笑っていた。
「ガキの頃、レミーネが俺のそばに居る理由は、俺にとって何でもよかった。俺は本当にそう思っていた……」
晃久は再びぼんやりと遠くを見つめている。
「レミーネは、もともとあいつの介護用だ。まだ自分には必要ないから、今は俺の家政婦として使っている。レミーネの所有者はあいつらで、俺がレミーネに命令する権限はない。俺がレミーネにしているのは、あくまで『お願い』で、そしてそれさえも、レミーネは俺とあいつでは、あのクソの方を優先する」
吐き捨てるようにそう言う晃久の視線の先には、ご神像に向かってゆっくりとした動作で何かをお祈りしている老婦人の姿があった。
「小5のときに引っ越してから、俺は自分のことを周りにFチルだと説明するようになった。何でそんなことしたのかって聞かれても、ガキの頃の話だし自分でもはっきりと説明はできない。たぶんガキ特有の人と違う人間になりたいって気持ちもあったと思う」
「でもそうだな――俺はきっと、Fチルになりたかったんだ」
すべての大人も、昔は子どもだったはずなのに、なぜか大人はそれを忘れて、子どもに何を言っても、何をしても、正しく理解できないから、子どもは傷つかないと思っている。でも、子どもに向けられた悪意や敵意はまっすぐ子どもの心に突き刺さって、言い返す言葉を持たない子どもはそれを家に持ち帰って泣くしかなかった。
俺は家に帰って、ルーに抱きついて、何も言わずに頭を抱きしめてもらっていた。
ルーはロボットだから、それはどこかでプログラムされた行動だ。だけど、俺にはそんなことはわからない。俺はそこまで賢くないから、それが作り物かどうかなんてわからない。
わからないから、俺にとってそれは本物だった。ルーが小さいころの俺にくれたものは、人と暮らしたことなどない俺にとっては、紛れもなく本物の『愛情』だった。
だからこそ俺は晃久に気休めのような言葉をかけることができなくて、『ごめん』と口に出そうになる言葉を押さえ込むために、下を向いた。




