間話 アテナ
「山崎さん。今週の宅配が届きました」
「ありがとうございます」
昼休憩後に、総務の女性から軽い軽蔑の目を向けられながら受け取った段ボールを抱えて、両手を振ってその重さを確認してから、俺はため息をついた。
毎週毎週、俺宛に送られてくる段ボール。今日の段ボールは茶色で中身のわからないシンプルなものだったが、たまにどう見ても女性向けパッケージで送られてくることがある。今日はまだマシな方だった。
皆の視線を感じるが、大衆の目のある中これを開けてしまうと俺を見る目が本当の軽蔑に変わってしまうので、段ボールを抱えて静かにエレベーターに乗った。その最上層――監視カメラに視線を向けてパーソナルロックを解除しないと入れない階に、エレベーターは止まった。
俺がフロアに足を踏み入れると同時に、右側の通路から軽い足音が届く。
「来たわ! 待っていたわ!」
そう鼻息荒く言いながら、俺の真正面に立つのは紛れもない美少女だ。その、顔だけは美少女と言える俺のボスは、俺から段ボールをひったくって、Uターンをして行ってしまった。
あれが立場的には俺の直属の上司なのだからやってられない。そして部下は俺一人だ。一番の下っ端はどこの世界でも苦労するものだ。
ボスが去った道をたどるように歩いて、左手側に見えてきた重厚な両開きの扉の前で足を止めた。天井に設置されている、銀色の小型カメラを見上げる。
「ロックを解除します」
真面目なボスの声と共に、俺の虹彩と指紋を認識して、重い扉が自動的に左右に開かれた。
俺に反応して、必要最低限の照明が部屋に点った。その暗い部屋の中に、いや部屋そのものがそれだとでも言うように、巨大な黒いコンピュータ群が鎮座しているのが見える。
耳に聞こえるのは、うなり声のような換気音。そして目に見えるのは、それが生きていることを示すLEDの光。
日本の最高の頭脳――政府所有のスーパーコンピュータだ。
俺は部屋の端に供え物のように設置してある自分のデスクに向かい、椅子を引いた。その椅子に一番リラックスでききる体勢でもたれ掛かって、デスクの角に引っかけていたCOMNを取って首に着けた。
「お帰りなさいませ。奏吾様」
「ただいま」
俺が魂込めてカスタマイズした俺だけのアシスタントの元気なその声と姿に、頬が緩む。
「奏吾様。午後の仕事のリストはこちらです」
今日も俺は彼女に癒やされながら、仕事を開始した。
周囲の音も聞こえないくらい作業に没頭していると、突然視界が真っ暗になった。首に掛けていたCOMNを取って、顔を上げる。
「ねえ山崎。これでいいかしら。変ではない?」
俺のボスが自分の姿を見せつけるように俺の前に立っていた。
今日のボスの格好は、レースであしらわれた白の花柄スカートと緑のカーディガンだ。上から下まで軽く目を通して、しばらく考えこんでから呟く。
「はぁ、いいんじゃないですかね」
睨まれたので言い直した。
「アテナ様。そちらのレースは、以前恵美子さんが褒めておられたものと類似のものですね。緑のセーターとどちらも爽やかな春の装いで、良くお似合いですよ。ですが敷いて言わせていただくなら、髪は後ろで軽くアップさせた方がいいと思いますよ」
「山崎。あなたはそのために雇ったの」
俺のボスは恐らく本音であろう言葉を吐き出してから、髪のセットをするために姿を消した。
最近、俺のボスはこのフロアの清掃担当である恵美子さんという名前の掃除のおばちゃんをいたく気に入っている。その恵美子さんが訪れる毎週火曜のために、フリマサイトで服を売り払い、そのお金を使って新しい服を手に入れるなんてことをするくらいの力の入りようだ。
そんな、俺から見れば女子大生のようなチマチマとしたことをするくらいなら、日本最高の演算能力を使って荒稼ぎをすればいいのに、それは国から禁止されているらしい。俺のボスは、国から与えられている雀の涙の小遣いをやりくりして健気に頑張っているが、個人番号がないボスのために落札は俺、発送も俺と俺はいい迷惑だ。
そんなボスの子守が俺の仕事――それだけだったらいいんだが、そうは行かないのが人手不足に金不足の日本の現状だった。
「ねえ山崎。どっちがいいと思う?」
戻ってきたボスが手に持っているのは、2つのバレッタだ。白のパールがついたものと、紺のリボンがついたもの。
手で回るようにジェスチャーしてボスに後ろを向かせて、髪にバレッタを順番に当ててから少し下がって全体像を見る。
「こっちですね」
俺が紺のリボンのついたバレッタを渡すと、ボスはそのまま「はい」と俺に返してきた。
「やって」
ボスは準備していたのか、櫛とヘアピンの入った元はクッキーの入っていた箱を俺に渡した。
「お願い」
今日も何の仕事だ……俺はそう思いながらも、ボスに再び後ろを向くように指示をした。
俺の前に立ったボスの髪を、椅子に座ったまま櫛で丁寧にとく。ボスが俺に渡してきた櫛は、100均にあるような安いプラスチック製の平べったい櫛だから使いづらくてたまらない。
何の素材で作られているのかは知らないが、人の髪のようなボスの髪を何度もといてから、ふんわりとねじってピンで周りを落ちないように留め、最後は紺のリボンのバレッタを中央に着けた。
「はい、できましたよ」
ボスは少し歩いて、ボスの本体である巨大なコンピュータに自分の姿を見せるようにくるくると回ってから、こちらを振り向いた。
「ねえ山崎。どうかしら!」
「はいはい、可愛いですよ」
「可愛いのは元からよ」
大阪に住むヒューマノイド造形家の最高傑作であるボスはそう言って笑った。
その笑顔に何とも言えない気持ちになって、俺はその笑顔から視線を逸らしたとき、俺の視線がちょうど机の上に展開されていた資料に向いた。
「そういえば山崎。そのデータは古いわ。昨日の会議で、C社に依頼することになったから、その資料はもう無駄よ」
「はっ?」
突然の話に、俺のデスクの周りに浮かび上がる資料に目を戻す。明日までに説明用の資料作りをやれと、ボスとは違う上司に言われてほぼ徹夜でやっていた上に、「まだできあがらないのか」と催促されたのは今朝だ。今日はずっとその仕事に取りかかりっきりだった。
「今朝言われたんですよ?」
「あなたの上司の上の上の上役の会議で、14時間前に決まったの。まだあなたのところまで伝言ゲームが降りてきていないようね」
ボスがそう言って顔だけ可愛く微笑んだ。この顔で俺の疲労がなかったことになってくれればいいが、そんなことはない。
「色々言われてあんなに証拠の資料集めしてたのに、自分らは何の説明も根拠もなく勝手に決めるんですか!?」
「そうよ」
「調べるのにもまとめるにも、時間が掛かってるんですよ!?」
「そうね」
ボスは人に対して意見は言うが、決定権はないのでボスに文句を言っても意味はない。意味はないが文句が伝わる相手には、文句も言いたくなるものだ。
俺が椅子に突っ伏していると、くいくいと横から手を引かれた。
「山崎。エミコがいらしたわ」
そわそわとした態度で、この建物の入り口に視線を向けるその様子に、
「はいはい。行きましょうか」
大きくため息をついてから俺は立ち上がった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
日本の最高頭脳が設置してある日本の最高機密と言えるこのフロア。セキュリティやハード面での侵入者を警戒し、このフロアに配属される人たちの身元調査は、先祖代々から犯罪歴や国籍などすべてに関して事細かに調査されているらしい。俺は、特に何もしていない俺のご先祖様のおかげで、ここで働く権利を頂いてしまった。
掃除のおばちゃんと、保険のお姉ちゃんだけはノーチェックは日本の文化だが、ここだけは例外的に、ボスが掃除のおばちゃんも含めて直接個人調査を行っているそうだ。
日本の最高頭脳であるはずの俺のボスは、現在エレベーター前の通路の曲がり角に身を隠して中腰になって、エレベーターを見つめていた。
8階から順番に上がってきたエレベーターが、チンと到着の音を告げた。その瞬間、ボスは通路に飛び出して、なぜかその場で半回転してエレベーターに背を向けた。
「あらエミコ。おはよう!」
ボスは、ちょうど今ここを通り過ぎるところだったけれど、エレベーターが開く音がしたので振り返りましたよ、とでも言うような白々しい演技をしていた。
「アテナさん。おはようございます」
声だけはかわいい、俺には普通のおばちゃんにしか見えない恵美子さんが、ボスに笑顔で頭を下げてから通路の掃除に向かった。
ボスは掃除を始めた恵美子さんしばらくじっと見つめてから、前を向いて歩き始めた。恵美子さんからは見えなくなる位置まで来てから、ボスは足を止めて俺を振り返った。
「行くわよ。山崎」
俺の目に見えるのは、何か大切なものでも見つけたような、15歳くらいの年頃の少女の笑顔だ。
「はい、アテナ様」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
時折踊るような足音を打ち鳴らしながら、少女の澄んだ歌声が部屋に響く。
没頭していた仕事から現実世界に意識を戻すと、ボスが巨大なコンピュータ――ボスの本体についた埃を小さなブラシで掃きながら、古い古いJポップをアレンジしたものを歌っていた。
『ねえ山崎。人は暇なときに何をするのかしら』
ボスに以前そう聞かれて、「歌でも歌ったらいいんじゃないですかね」と俺が答えてから、ボスは時折この部屋で歌うようになった。
始めは少し耳障りな曲もあった。だけど、恐らく俺の仕事量や脳波は監視されているのだろう――いつの間にか俺が仕事に集中できるようなテイストの曲に変わっていった。
この曲は何という名前だっただろうか。ボスに聞けば答えはすぐに返ってくるだろうが、LEDの光がわずかに照らす部屋の中で、白いスカートを舞わせて楽しそうに歌うボスを俺は止める気にはならなかった。
ボスは、ボスの本体がお遊びとして作った思考マップを、ボスの本体から見ればあってもなくてもいいわずか数コアだけを使って動かしている存在だ。
ボスは、ボスの本体から見ればどんな存在なのだろうか。ボスの本体はボスを動かして、何を得ているのだろう。
ボスの本体にとってボスが不要になったとき、ボスは消されてしまうのだろうか。
ボスが日本にとって不都合な存在になれば、それは考えるまでもない。
日本のために作られた、日本の最高頭脳であるボスの本体は、そういう存在だ。
『ねえ奏吾。これってどう思う?』
ボスはときどき子どものような質問を俺に問いかける。その質問は俺が簡単に答えられるものであったり、答えに悩むものであったりする。
「ねえ奏吾。人って好き?」
俺はそんな――言葉が一瞬詰まってしまうような問いかけに対して、『ただし』とか、『でも』とか、ボスが取り間違える可能性がある余計な言葉は使わない。
「はい、アテナ様。大好きですよ」
いつもボスは、俺の目の前で、安心したというように子どものような顔で笑った。
「私もよ」
俺も色々と思うことはあるけれど、何度も、何度も正しい答えだけを繰り返していれば、いつの間にか、俺にもそれが真実のように思えてくる。
余計な言葉は、俺にも必要ないのかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ボスが震える手でティーポットをカタカタと鳴りしながら、慎重にカップに紅茶を注いでいる。
「アテナ様。俺がやりますよ」
「みんなできているのよ? 私にも練習すればできないはずがないのよ」
もちろんこの紅茶は、俺のためではなく恵美子さんのものだ。
休憩中の恵美子さんに一息ついて欲しいというボスたっての願いで、紅茶セットを購入しようと計画したけれど、そんな理由では経費で落とせそうになかった。俺が買ってくることも提案したのだが、ボスはこの建物の全階に応接用の紅茶セットとコーヒーサーバーを配置させることに決めた。
恐らく相当誘導が入っているアンケートがすべてのフロアに配られ(配ったのは俺だ)、返ってきた予想通りの結果に、ボスはコーヒーサーバーを隠れ蓑に、念願の紅茶セットをゲットした。
でも、不思議だ。各階に少なくとも一体はいるヒューマノイドは、応接用の紅茶セットを本当に難なく扱っている。それなのに、本体のスペック的にも、中身の性能的にも上回っているはずのボスが、どうしてここまで下手なのだろう。
「あの……冷めますよ」
「静かにして」
俺は大人しく休憩室の空いた席に座った。やっと紅茶を入れ終えたボスは、額の汗を拭うような仕草をしたあと、俺のストックしている俺のお菓子箱からどれがいいかなとお菓子を選んでいる。
「アテナ様。何で紅茶を入れるのがそんなに下手なんですか」
ボスは以前カップを落として割ったこともある。怯えて割れたカップを見つめるその様子に、そのときは俺が割ったということにしたのだけれど、何となく今日は聞いてみることにした。
ボスは特に俺の言葉に傷つく様子もなく、大きなクッキーをお菓子箱から取り出しながら答えた。
「私はヒューマノイドクラスタに連結されていないの」
ヒューマノイドクラスタ。日本に所属しているヒューマノイドは情報共有のために、それ専用の巨大な管理サーバを持っている。その管理をしているのがボスの本体なはずだが……
「セキュリティのためですか」
「そうよ」
つまりボスは他のヒューマノイドが学んだ情報をダイレクトに受け取れない。でもその代わりに、ヒューマノイドクラスタがウイルスなどで危機的状況に陥ってもその影響を受けない。
まるで人みたいだなと、一瞬そんな考えが訪れた。
そのときボスが出入り口を振り返った。
「エミコ! お疲れさま。休憩にしましょう!」
「アテナさん。山崎さん。失礼します」
恵美子さんが俺に向かって頭を下げながら休憩室に入ってきた。恵美子さんは俺が(一応)この階の管理者的な立場であることがわかっているらしく、俺に少し萎縮しているきらいがある。
「恵美子さんお疲れさまです。今日もありがとうございます」
ボスの邪魔をしたくはないので、コーヒーサーバーから注いだコーヒーを持って、急いで休憩室から退散した。
休憩室から出ると、沈みかけた太陽がちょうど目に刺さって、そのまぶしさに目を細めた。ゆっくりと目を開いて、慣れてきた目で窓の外を見ると、湾岸区の超高層マンション群のシルエットが見えた。
建設されてから50年以上が経過した超高層マンション。かつてファミリー層で賑わったあの町も住人の死去や維持費の滞納などにより、メンテナンスが行き届かず、超高層マンションにもかかわらず、すでにエレベーターが動いてないマンションも多い。
良質な住人の多くが去り、入れ替わるように入ってきた怪しげな住人により、目の行き届かない上層階ほど不法な使われ方をしている。かつて若い夫婦の憧れだったあの町も、今では若い女性が夜に出歩くのは避けるべきエリアに変わった。
だけど、色々な言葉が飛び交っていて、混沌としている――たまに気が向いて、ふらりと飲みに寄ったあの町には、多国籍な住民が作り出す活気があった。今の日本では滅多に見られない、活力のようなものがあった。
思わず左手が窓に触れそうになっていて、慌てて身を引く。恵美子さんが今日せっかく綺麗にしてくれた窓に、俺の指紋を付けてしまう。
そろそろ行こうと窓から離れて、夕日で染まる廊下を歩いた。
ヒューマノイドが現れてからこの世界の労働環境は一変した。事務や財務など、あいまいな判断が不要な仕事や、同じ作業を繰り返すようなブルーカラー系の仕事は一掃され、そこで働いていた多くの人は介護や医療、清掃業など、未だに人が比較優位である仕事に転職を余儀なくされた。
ヒューマノイドに仕事を奪われたと言う人もいるが、ヒューマノイドがそれらの仕事を一手に引き受けてくれなかったら、とてもではないが人手不足の今の日本では介護などの仕事に手が回らず、増え続ける老人のためにとうの昔に社会が崩壊していただろう。
人手の足りない日本では、どんな仕事も必要だから存在している。どんな仕事も必要で、そこに優劣なんてものはないと俺は思う。
給料の差はただ需要と供給の関係で決まるだけで、俺が選んだ仕事は適正者が少なかったから給料が平均より少し多く貰えるというだけだ。俺は給料が多いというだけでふんぞり返り、他人を見下すようなやつを尊敬することはできない。
ここのフロアに常駐している人間は俺一人で、恵美子さんに要求なんてものを出していないから、仕上がりは恵美子さんの自由だ。いくらでも手を抜くことはできる。
だけど、窓はいつも輝いていて、頼んでもいないのに休憩室の机やコーヒーサーバーまで拭いてくれていて、その上ボスの面倒まで見てくれて、俺が恵美子さんに文句を言う機会など一度もない。気の利かない俺には、絶対に真似できない仕事の仕上がりだ。
ボスが恵美子さんを気に入っている理由のには、きっとそれも含まれているのだと思う。
「俺もそろそろ真面目に仕事するか」
誰も自分のことなど見ていないかもしれない。でも、俺の仕事もどこかで日本の役に立っているはずだ。
そして天井を見上げると、今日も監視カメラは俺のことをじっと見つめていた。
今日は何時に帰れるかなと、俺はコーヒーに一度口を付けてから、ボスの本体が待つ部屋に向かった。




