『孤高の元勇者と、勘違いストーカーVTuber』
第一話 静かな部屋と仮想の草原
チャイムの音が遠くに消えたあと、廊下を歩く足音は自分のものだけになった。
集合住宅の三階。夕方の薄い光が、灰色の床をうっすら照らしている。
結城湊は、自分の部屋の前で一度だけ周囲を見回した。
隣の部屋のドアは閉まったまま。階段から上がってくる気配もない。
誰もいないことを確認してから、そっと鍵を差し込む。
かちゃり、と小さな音がしてドアが開く。
中も、やはり静かだった。
玄関の靴箱の上には、親からのメモが一枚。
『残業。晩ご飯は好きなの買って食べて。父も遅い』
湊はそれを一瞥して、ゴミ箱に落とす。
寂しいとは思わない。ただ、いつも通りだと感じるだけだ。
鞄をベッドの足元に放り、制服のネクタイを緩める。
冷蔵庫を開けると、ペットボトルのお茶と昨日の漬物、それから空のタッパーだけが冷えた空気の中に並んでいた。
「……コンビニだな」
財布を確認する。小銭と、千円札が数枚。
足りれば良い。足りなければ、その時考えるだけだ。
湊は上着だけ脱ぎ、再び部屋を出た。
◆◇◆◇◆
十五分後、湊はコンビニの袋を片手に戻ってきた。
冷たい弁当と、レジ横の揚げ物。ペットボトルのお茶。
白いビニール袋は、外気と同じようにひんやりしている。
周囲を確認し、やはり誰もいないことを確かめてから部屋に入る。
鍵を閉めたあと、ドアノブを軽く引いて、きちんと閉まっているかだけ確かめる。
「……よし」
小さく呟いて、ようやく靴を脱いだ。
弁当を電子レンジに入れ、時間をセットする。
温まり始めた機械の音を背に、湊は窓の鍵を確かめた。
カーテンの隙間を指で少しだけ広げ、外の通路を覗く。
人影はない。声も足音も聞こえない。
確認してから、ようやく息を吐いた。
「平和か」
その言葉には、喜びよりも警戒が混じっていた。
平和は、いつ壊れるか分からない。
それを知っているからこそ、彼は確認せずにはいられない。
電子レンジの音が鳴る。
弁当の蓋を開け、箸で中身を口に運ぶ。
味は悪くない。だが、何を食べているのか意識することもなく、機械的に口と胃に流し込んでいく。
テレビは点けない。
ニュースは、知らなくていい情報まで押しつけてくる。
雑音は、判断を鈍らせる。
視線は自然と、机の上の黒いVRゴーグルへ向かった。
「今日は、少しだけ」
自分に言い訳をするように呟き、空になった弁当を片付ける。
食器を流しに置き、手を洗う。
それから、ベッドの端に腰掛けてゴーグルを手に取った。
このゴーグルを買ったのは、少し前だ。
他のゲームや、軽い体験用ソフトは一通り触ってある。
ただ、今日やろうとしているゲームに本格的に潜るのは、これが初めてだった。
昨日、チュートリアルだけを終わらせた。
操作感は分かった。世界の雰囲気も、大体つかめた。
現実の部屋は六畳一間。狭い。
けれど、目を閉じてこの機械を付ければ、広すぎるほどの世界が広がる。
本物かどうかは関係ない。
本物の戦場は、もう二度とごめんだ。
しかし、何もしないでじっとしていると、頭の中だけが騒がしくなる。
だから湊は、今日も仮想の戦場に逃げ込む。
ゴーグルを装着し、スイッチを入れる。
視界が暗くなり、起動画面の光が浮かび上がる。
選択メニューの中から、昨日インストールしたばかりのVRゲームを選ぶ。
チュートリアルを一度やっただけの世界。
今日が本番だ。
ログイン用の確認項目がいくつか表示されるが、慣れた手つきで同意を押していく。
「結城湊、ログイン」
誰にも聞こえないような声で呟いた瞬間、視界が白く弾けた。
◆◇◆◇◆
次に目を開けた時、湊は別の場所に立っていた。
荒れた草原。濁った空。
遠くでは、知らない誰かの戦闘音が響いている。
風に舞う砂ぼこりが、頬をかすめていく感覚さえある。
自分の体を見下ろす。
ボロ布同然のマント。ところどころ裂けた布の下から、金属の胸当てがのぞく。
腰には、刃こぼれだらけの鉄剣。
チュートリアルで見た、初期装備そのままの姿だ。
「変える意味もないか」
湊は、肩にかかったマントの端を軽くつまんで離す。
周囲には、派手な装備をまとった他のプレイヤー達がちらほら見えた。
光を放つ武器、重そうな鎧。
多くはスキルを連発し、視界を色と光と音で埋め尽くしている。
昨日、チュートリアルの最後で一度だけ戦闘をやらされた。
その時も思ったが、動きそのものは難しくない。
体をどう動かせば、斬れるのか。
どの角度なら、致命傷になるのか。
そういう感覚は、嫌になるほど染みついている。
「今日も、ソロでいい」
湊は、小さく呟いて歩き出した。
スキルのエフェクトを避け、戦闘中の敵にも味方にも近寄らず、視界の隅で動きを観察しながら進む。
草むらの陰で、小型の魔物が身じろぎした。
狼と猿を雑に混ぜたような低レベルのモンスター。
湊は剣に手を添える。
足音を殺し、距離と角度を計る。
魔物がこちらに気付く、ほんの少し前。
一歩、踏み込む。
伸ばされた爪が空を切る。
首が、抵抗もなく斜めに落ちる。
血しぶきが上がる前に、湊は体をひねってその軌道から外れていた。
スキルの表示は出ない。
ただ、体を動かした結果として、敵が死ぬ。
「このくらいなら、まだ平気か」
小さく息を吐く。
心拍は落ち着いている。手も震えてはいない。
それでも油断はしない。
ここはゲームだが、脳はそれを最後まで理解してくれない。
死にかける感覚が続けば、それだけで昔の光景が勝手に蘇る。
「あんまり奥までは行かないでおくか。今日はどんなゲームか見るだけにしよう」
自分に言い聞かせるように呟く。
遠くで、誰かがパーティ募集のチャットを流している。
だが湊は、一切視線を向けない。
この世界でも、誰かと組むつもりはない。
組めば、守らなければならなくなる。
守ろうとすれば、また誰かが死ぬ。
そうなる前に、一人でいる方が良い。
草原の端まで来たところで、湊は足を止めた。
空を見上げる。
灰色の雲。
光の差さない空。
本物の異世界の空に比べれば、よく出来てはいるが、どこか薄い。
匂いも、風の重さも、すべてが再現しきれていない。
「……それでも、こっちの方がましだな」
魔物は、決められたとおりに動く。
裏切らない。
予想外の行動で、仲間を殺したりはしない。
湊は、ログアウトのメニューを開いた。
今日はここまでにしよう。
少し体を動かして、頭の中のざわめきが少しでも静かになれば、それで十分だ。
「ログアウト」
視界が、再び暗転する。
◆◇◆◇◆
ゴーグルを外すと、そこにはいつもの天井があった。
狭い六畳一間。
カーテンの向こうの窓は暗くなり、外の通路には誰の気配もない。
さっきまでいた草原も、薄汚れたマントも、刃こぼれした剣も、もうどこにも無い。
湊は、ゆっくりと息を吐いた。
「帰ってきた、か」
現実に戻る時、この言葉が口から漏れることに、自分でも少し違和感がある。
本当に「帰ってきた」のは、もっと前の話だ。
炎に焼かれた城壁。
血に濡れた石畳。
泣き叫ぶ人々と、笑いながら殺す魔族達。
その全てを踏み越え、最後に巨大な魔王を斬り伏せた時。
光に包まれて目を開けた先が、この世界だった。
涙を流して喜ぶ人達。
信じられないほど穏やかな空。
爆音も悲鳴も無い、静かな街並み。
そこが、結城湊の本来の世界だと告げられた。
日付だけが少し飛んでいて。
けれど、両親も、家も、学校も残っていて。
まるで長い夢から覚めたかのように、日常が湊を飲み込んでいった。
「二度目の、帰還者」
自嘲気味に呟く。
結城湊は、かつて本物の異世界で勇者をしていた。
魔王を倒し、この世界に戻ってきた。
平和な世界に。
◆◇◆◇◆
第二話 天音リリィ、今日も配信する
スマホの通知が、机の上で小さく震えた。
時間を確認した星野アリスは、ノートを閉じて大きく伸びをする。
「よし、今日のネタ出しはこんなもんでいいかな」
机の上には、落書きだらけのメモ用紙。
丸で囲まれた文字が並んでいる。
『新作VRゲーム』
『死にゲーっぽいタイトル』
『絶叫配信、クリアできるまで寝ない…は無理』
最後の一行には、ばつ印がついていた。
アリスは立ち上がり、部屋の真ん中に置いたリングライトのスイッチを入れる。
白い光が部屋を満たし、ぬいぐるみだらけのベッドやポスターが浮かび上がった。
その中央に、配信用のパソコンとマイク。
ヘッドセットと、VRゴーグル。
机の上のマイクに指先で触れると、アリスの表情がすっと変わる。
普段ののんびりした顔から、少しだけスイッチが入った笑顔へ。
「さあて、今日もやりますか。天音リリィ、営業モード」
◆◇◆◇◆
配信ソフトを立ち上げ、各種チェックを済ませる。
マイクの音量。ゲーム画面の映り。コメント欄の動作。
準備が整ったところで、アリスは一度だけ深呼吸をした。
「三、二、一……」
カウントを心の中で終えると同時に、配信の開始ボタンを押す。
「こんリリ〜。はい!天音リリィで〜す」
明るい声が、いつもの決まり文句を紡いだ。
画面の向こうでは、待機していた視聴者達のコメントが一気に流れ始める。
『こんリリ』
『待ってた』
『通知飛んできたから来た』
『今日もかわいいな』
「おお、今日もみんな早い。こんリリ、来てくれてありがとう」
アリスは、流れるコメントを目で追いながら笑う。
視聴者の名前をいくつか読み上げ、それぞれに軽い挨拶を返していく。
「さて、今日の配信なんだけど」
画面の端には、今日プレイするゲームのタイトルロゴ。
数日前にサービスを開始したばかりのVRオンラインゲームだ。
『あ、新作のあれだ』
『死にゲーって噂の』
『リリィがやるには難しくないか』
「そう、それ。新作VRで、なんか難しいらしいやつ。
わたし、チュートリアルだけ昨日ちょっとやってみたんだけどさ」
アリスは苦笑いを浮かべる。
「序盤の雑魚で普通に死にかけました」
『それはそう』
『また床ペロ配信か』
『運だけでなんとかする女』
『フラグ立ったな』
「ちょっと。みんなの信頼が薄くない」
口ではそう言いながらも、アリスの声には余裕があった。
こういうやり取りは、もはや日常だ。
自分がゲームが下手なのは分かっている。
だからこそ、上手さではなくリアクションと空気で勝負する。
それでこれまでやってきた。
それで、今も画面の向こうにこれだけの人がいる。
「でもね、今日はちゃんと考えてきたんですよ。企画」
『企画』
『嫌な予感しかしない』
『どうせ無茶する』
「違います。今日は、普通に攻略します。
テーマはこちら」
アリスは手元のメモを持ち上げ、カメラに向かって掲げる。
『新作VRを、ほぼ初見でどこまで進めるか配信』
『ざっくりしてる』
『いつものやつ』
『クリア耐久じゃなくて安心した』
「さすがにクリアするまでとか言ったら、明日学校行けなくなっちゃうからね。
健康第一。学生は睡眠も大事」
『珍しくまともなこと言った』
『えらい』
『でもどうせ気合い入れると寝ない』
「その時はみんなが止めて。コメントでちゃんと『寝ろ』って言うんだよ」
ひとしきり笑いが流れたところで、アリスは椅子の位置を少し調整した。
「じゃあ、そろそろゲーム画面に切り替えますね。
今日の目標は……そうだな。ボスの一体くらいは倒したい」
『目標低いようで高い』
『雑魚で終わる未来が見える』
『床と友達にならないようにがんばれ』
「うるさい。がんばるからね」
そう言いながらも、アリスの目は真剣だった。
今日は新作タイトル。
人も集まりやすい。
ここでそれなりに見せ場を作れれば、クリップにもできる。
おすすめに乗れば、登録者も伸びるかもしれない。
数字のことを考える自分を、少しだけ自嘲する。
けれど、それも含めて「天音リリィ」というキャラクターだ。
「じゃ、ゴーグル付けますね。
声、小さくなったら教えて」
アリスはヘッドセットを装着し、VRゴーグルを手に取った。
◆◇◆◇◆
視界が暗くなり、すぐにゲームのロゴが浮かび上がる。
その下には、昨日見たばかりの注意書きと、ログインメニュー。
「はいはい、ここはサクッと」
意識の中でログインを選ぶ。
白い光が広がり、視界が一度真っ白になったあと――
アリスは、石造りの広場の真ん中に立っていた。
ゲーム内のアバターは、金髪の魔法使い風の少女。
ひらひらしたローブと、つばの広い帽子。
課金で手に入れた、お気に入りの見た目だ。
「よし、映ってるかな。
視聴者のみなさん、画面どうですか」
ゲーム内の声は、配信にもそのまま乗る。
『映ってる』
『相変わらず見た目だけは強そう』
『かわいい』
「見た目だけはって言った人、あとで名前控えとくからね」
アリスは広場をくるりと回り、周囲を見渡した。
石畳の広場には、他のプレイヤー達が行き交っている。
剣士、弓使い、僧侶風のローブ姿。
中には、明らかに重課金の光り輝く装備も見える。
「昨日は、ここから先の雑魚にぼこぼこにされたので」
アリスは広場の端にある門の方を指さした。
「あそこの外に出る前に、ちゃんと作戦会議をしたいと思います」
『珍しく慎重』
『フラグにならないといいが』
『もう外出ろってコメントが多い』
「ちょっと待って。
まずは、自分がどういうキャラか確認します」
アリスはステータス画面を開いた。
そこには、レベル一桁台の数字が並んでいる。
魔法攻撃力だけが少し高く、体力と防御が心もとない。
唯一、運の項目だけが妙に高かった。
「運だけはいいんだよね、うちの子」
『リアル反映』
『回避より運で生き延びるタイプ』
『運だけでラスボスまで行ってほしい』
「それは無理。
でも、運が良いって大事だからね。
私、リアルでもテストの山勘とかよく当たるし」
軽口を叩きながらも、アリスは画面を閉じて深呼吸をする。
「とりあえず今日は、広場の外に出て、どこまで行けるか挑戦してみます。
みんな、ナビとツッコミよろしく」
『任せろ』
『罠があったら全力で見守る』
『ちゃんと教えてあげて』
「見守るじゃなくて教えて。
ほんとに」
アリスは笑いながら、広場の門へと歩き出した。
石畳を抜け、外の荒れた草原が視界に広がる。
風が吹き、草が揺れる。
遠くでは、誰かの戦闘音が微かに聞こえた。
「おお、やっぱりフィールド出ると雰囲気あるね」
その時、視界の端を、ボロ布のようなマントをまとった誰かが横切った。
ひどく地味な装備。
しかし、その足取りは妙に迷いがない。
「……今の人、初期装備かな」
アリスは何気なく呟いたが、すぐに首を振った。
「まあいいや。今は自分のことで精いっぱいだし」
彼女はまだ知らない。
今すれ違ったその背中が、のちに自分の配信人生を大きく変える相手だということを。
「よし、それじゃあ行きますか。新作VR初見チャレンジ。
視聴者のみなさん、死んだら慰めてね」
『先に言うな』
『がんばれ』
『スクショ準備完了』
アリスは杖を握り直し、草原の奥へと一歩踏み出した。
その先で、何が待ち受けているのかも知らないまま。
お読みくださった皆様、★評価、ブクマ、感想くださった方々本当にありがとうございます!
10件程ブックマークが着けば長編も書く予定なので是非お願いします!
メインでこちらの作品毎日更新で執筆させていただいております。
『ショートウェポンマスター』 〜勇者の親友だった俺が、闇から世界を斬り開く〜
https://book1.adouzi.eu.org/n5877lh/
こちらもお楽しみいただけましたら幸いです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
皆様、良い一日を!!




