75 あの日の思い出(5)
最初に彼女を殺そうかどうか迷ったのが、今となっては信じられないくらいだ。
それだけ、アーシャの存在はルキアスの中で大きくなっていたのだ。
(ホーンラビットを飼っている奴らも、こんな気分だったのか……)
ルキアスは自分が同じようにアーシャを飼う想像をしてみた。
さすがに人間相手となると、籠に閉じ込めるのはまずいだろう。
きちんと部屋を用意してやるべきか。
しかし人間の部屋となると、どんなものが好まれるのか中々想像がつかない。
きちんと研究しておくべきだな……と、ルキアスが思索にふけるにつれて、どんどんと夜も更けていく。
……この辺りの夜はとても静かで穏やかだ。
ルキアスはここに来て初めて、獰猛な獣の咆哮や宵闇に紛れてやって来る暗殺者とも無縁の、ひたすらに平穏な夜があるのだと知った。
だが、そんな穏やかな静寂を切り裂くような悲鳴がかすかにルキアスの耳に届いた。
(なんだ……?)
アーシャの声ではなかった。
だが距離からして、この村の近辺から聞こえたのは間違いないだろう。
先ほどまでの凪いだ空気を一変させ、ルキアスはいつでも行動に移れるように警戒し、息を殺す。
徐々に外が騒がしくなり、窓越しにちらちらと松明の灯りも見えてくる。
「大変だ! ――が噛みつかれて、血が……」
「あいつら、ただの獣じゃないぞ!」
「いつもより数が多い! ここも危険だ!!」
「女子どもを集会所へ避難させろ!」
――ただの獣じゃない。
耳に届いたその言葉に、ルキアスははっとした。
……そうだ。ルキアスは魔族の地からこの国へやって来る時に、弱まっていた結界を破ってきた。
その結界が、いまだに修復されていないのだとしたら……。
(ちっ、魔獣の群れが人間の匂いに釣られて入ってきたか……!)
そう気づくやいなや、ルキアスは滑るように小屋の外へ飛び出していた。
外はパニック状態だった。
逃げまどう人々の悲鳴や怒号、むせ返るような血の匂いと獣の匂い。
その中で、ルキアスは感覚を研ぎ澄ませ、たった一人の気配を探す。
(アーシャ……!)
願いが通じたのか、ルキアスはここ数日でお馴染みとなったアーシャの気配を探り当てることができた。
それも、どんどんとこちらへ近づいてくる。
「おにーさん! 生きてる!? 村が大変なの!」
耳に届くのは、いつもとは違う必死な声。
夜目の効く視界の中、たった一人で必死にこちらへ駆けてくるアーシャの姿が見えた。
(アーシャ……!)
彼女の無事な姿に、一瞬だけ気が緩んでしまう。
それが、いけなかった。
「村に怖い獣がたくさん……きゃあ!」
急に、アーシャの体が宙に浮いた。
まるで物のように彼女の細い首を掴んで持ち上げたのは……間違いなく、魔族の男だった。
「よぉ、ルキアス。こんなところにいやがったのか」
……見たことのない相手だが、向こうはルキアスのことを知っているようだ。
おおかた、人間の国へやって来る前に戦っていた勢力の一人なのかもしれない。
ルキアスは己の迂闊さを呪った。間違いなく目の前の魔族は、ルキアスを探しに魔族の地からここへやってきたのだから。
「次期魔王の最有力候補と言われているあんたがドブネズミみたいに逃げたかと思えば、人間の国へ隠れてやがったとは! 笑わせるよなぁ!」
魔族の男が愉快そうに笑うたびに、首を掴まれたアーシャが苦しそうに表情を歪める。
(くそっ……!)
今すぐあの男を叩き潰してやりたいが、万が一アーシャを盾にされたら……と考えると迂闊に行動には移せない。
……こんな風に、躊躇するのは初めてのことだった。
ルキアスは気を落ち着けるように息を吸い、不敵な笑みを浮かべてみせる。
「こんなところまで俺を追いかけてきたのか? ご苦労なことだな」
「あんたの首を持ち帰れば次の魔王も夢じゃねぇからなぁ!」
「それならば、正々堂々とかかってくるがいい。そんな荷物をぶら下げて俺に勝てるつもりでいるのか?」
奴がアーシャを離しさえすれば、すぐにでも決着はつく。
挑発するようにルキアスがそう告げると、相手の魔族はにやりと笑った。
「そうだなぁ、こんなガキ持ってても邪魔なだけだ。……なら、景気づけに喰ってやるか」
「ひっ……!」
魔族の男がアーシャの柔らかな頬に舌を這わせる。
その瞬間、ルキアスの中で何かが千切れる音がした。
一瞬で怒りが許容量を超え、ルキアスは相手の心臓を突き殺そうと一気に距離を詰めた。
だが……。
「おっと」
魔族の男はいともたやすく、アーシャを盾にしようとしたのだ。




