71 あの日の思い出
そう、あれは……十年ほど前だっただろうか。
あの時と比べて大きく成長した少女を目の前に、ルキアスは感慨深い思いに駆られていた。
彼女がルキアスの生き方を、価値観を……何もかもを変えたのだ。
「はぁ、はぁ……」
森林に身を潜めたルキアスは、燃えるような痛みを訴える脇腹へと手をやった。
ぬるついた不快な感触に、錆のような匂い。
視線をやった手のひらは、べっとりと鮮血に濡れていた。
……さすがに、一人で相手をするには大群だった。
目論見通りに蹴散らしてやったが、さすがにこちらも無傷とはいかなかった。
更にはルキアスの首を獲ろうと敵方の援軍が駆け付け、こうして身を隠さなければならない始末。
常々単独行動を避けろと言われているツケが来てしまったようだ。
「……くだらない」
何もかもがくだらなくて、吐き気がする。
血液が混じった唾を吐き、ルキアスは自嘲した。
先代の魔王が倒れ、次の魔王の座を狙って各勢力が血で血を洗う争いを繰り広げている。
ルキアスは部族の中で一番実力がある者としてリーダーのように扱われているが、ルキアス自身には魔王になる気などさらさらなかった。
ただ、立ち向かってくる者を返り討ちにしていたら、次期魔王の有力候補として次々に更に集中砲火を浴びることとなってしまった。
魔王の座になど興味はないが、やすやすと他者に膝を折る気はない。
かくして今日も単独で、向かってくる者たちを踏みつぶしていたのだが、らしくもなく不覚をとってしまったようだ。
この怪我で大群に囲まれればさすがに不利だろうし、血の匂いをまき散らしながらうろうろしていれば遅かれ早かれ見つかってしまうだろう。
だからといって、おとなしくこの首をくれてやる気もない。
かくなる上は……と考えを巡らせていたルキアスは、ふと違和感に気づいた。
「ここは……」
ルキアスが今いるのは、人間の国との境界付近の山林だ。
人間の国は「聖女」という存在の祈りによって、魔族や魔獣の侵入を防ぐ強固な結界が貼られている。
そのはずなのだが……今、その結界が今までにないほど緩んでいるのをルキアスは感じ取った。
ルキアスほどの実力者であれば、今の結界を破ることなど造作もない。
……これは、千載一遇のチャンスだ。
そう悟ったルキアスは、一も二もなく弱まっていた結界を破り、人間の国へと足を踏み入れたのだった。
……人間の領域に足を踏み入れ、ルキアスは驚いた。
魔族の領域と人間の領域では、まず空気からして違うのだ。
清浄な……とでもいうのだろうか。澄んだ空気が流れ、あちこちから超自然的な存在――精霊の気配を感じる。
辺りの草木や動物すらも、のびのびと生を謳歌しているようだ。
植物すらも戦わなければ生き残れない魔族の地とは違い、この地の生き物からは本能的な闘志を感じない。
(これは……結界がなければ大変なことになっていただろうな)
二つの地を隔てる結界がなければ、この場所などあっという間に血に飢えた者たちに蹂躙されていたことだろう。
……この平和ボケしたような場所に、あまり長居はしない方がいいだろう。
なんとなく居心地の悪さを感じながら、ルキアスは身を休める場所を探して足を進めた。
だが……。
「くっ……」
傷は浅いと思っていたが、思った以上に血を流しすぎてしまったかもしれない。
だんだんと視界がくらみ、手足に力が入らなくなってきた。
早く、何とかしなければ……。
引きずるようにして足を進めていると、やがて鬱蒼と生い茂る木々を抜け視界が開けた。
やっと、森を抜けることができたようだ。
その向こうの光景に、ルキアスは思わず息をのむ。
……美しい光景だった。
魔族の地のように、瘴気に侵されたりはしていない。
ただただ生命力にあふれる草原が広がっており、清浄な小川が流れている。
遠くには人間の集落と思しき建物群も見えた。
……敵の侵入を想定していないのか、なんと脆い防衛網だろうか。
ルキアスなら片手でひねりつぶせる魔獣でも、ここに住む者たちはなすすべもなく蹂躙されてしまうだろう。
……たとえ手負いの状態でも、ルキアスにとってあの集落を滅ぼすことなど容易い。
さっさと壊滅させ、己の糧としてやろうか。
そんな危険な――ある意味魔族としてはまっとうなことを考えながら、ルキアスはゆっくりとぽつぽつと見える建物の方へ歩き始めた。
集落の傍の畑では人為的に作物が育てられており、ルキアスは興味深くその様子を眺めた。
魔族の地ではこのように作物を育てようとする者は少ない。
たとえ実ってもひとたび戦が起これば何もかもが踏みつぶされ、奪いつくされてしまうのだ。
わざわざ長い時間と手間をかけて、徒労に終わる可能性が高い作業に精を出すのは変わり者だけだ。
だが、この地の人間はそんな心配をする必要はないのだろう。
こうして手を掛けた作物は期待を裏切ることなく、時間をかけ大いに実り、恵みを与えてくれるのだ。
……そんな自然の巡りを前に、ルキアスは信じられない思いで立ち尽くしていた。
この集落を襲撃し、目の前の作物共々奪いつくすことは簡単だ。
だが、もう少しだけ……人間の日々の営みを見たくなった。
……少しだけ、体を休めよう。
そう決め、ルキアスはしばらく使われていないだろう物置小屋に滑り込み、壁に背を預けるようにして座り込み、静かに目を閉じた。
「おにーさん、なにしてるの?」
不意に聞こえた声に、ルキアスははっと目を覚ます。
少し体を休めるつもりが、血を流しすぎたせいか意識を失っていたようだ。
果たしてそこにいたのは……まだ幼い人間の少女だった。




