セッション55 羽化
蛇王ヨルムンガンド。
悪神ロキの息子。海原を一周して、なお自分の尾を嚙める程に長大な肉体を持つ。毒蛇であり、吐いた毒液は神をも殺すとされる。
◇
気が付いたらどこかの部屋の中にいた。
「うっ……!」
頬や前身に硬いものを感じる。少し時間を要してから、床だと判明した。うつ伏せになって倒れていたのだ。
窓外の景色から察するに、どうやらここは二階の様だ。何故二階にいるのか……と疑問に思い、『有翼』で飛んできたのだろうと推察した。僕の背中に翼が出しっ放しだ。恐らくはハクの吐息から逃れる為に咄嗟に飛翔し、そのまま勢い余って二階に突っ込んで、どこかの一室に入り込んだのだろう。近くの壁に人一人通れる程度の穴が空いている。
「痛っつ……」
全身から激痛を感じる。眉間に力が入るものの、どうにか身を起こす。
ステファや三護はどうなったのだろうか。他の冒険者や傭兵達は無事だろうか。生きていると信じたいが、あの『紫竜の吐息』を前に気休めは口に出来ない。
「いっけない、いけない。パパに言われていたんだっけ。『古堅藍兎を殺すと女神が出てくるから殺すな』って」
廊下からヘルの声が聞こえた。
直後、壁の穴を更に壊してガルムが突っ込んできた。突然のガルムに対応出来ず、逃げ遅れる。ガルムは僕の首根っこを掴むとそのまま持ち上げた。
「ああ、良かった。生きてたわ」
「ヘル……!」
僕が身動きが取れなくなった所で、ヘルが悠々と扉を開けて姿を現した。
「ふふ、即死しない方が困るだなんて、奇妙な人ね、貴女」
「困ってねーよ。死なずに済むんならそれに越した事はねー」
「でも、戦況的には不利じゃないの、貴女」
ヘルが嘲笑を浮かべて僕の顔を覗き込む。
「貴女の自動蘇生スキルは確かに強力だけど……無敵でも最強でもないわよね。どうやっても殺し切れないのは凄いけど、別に殺すだけが戦いじゃないし。拘束するとか催眠術を使うとか、無力化する方法は幾らでもあるものね」
あの悪趣味な『膨れ女』なら手足を切り落として達磨にして飼い殺すのでしょうけど、とヘルは物騒な想像を付け加える。
「安心しなさい、私に猟奇趣味はないから。美しく氷像にしてあげるわ」
ヘルの手から強烈な冷気が放たれる。ガルムが僕を手放し、代わりに冷気が僕の四肢を包み込む。冷気は氷となり、拘束具を形成した。冷たさが刺す様な痛みとなって僕の四肢を苛む。
「おっと、呼吸は出来る様に顔は出しておかないとね。窒息死されたらたまったものじゃないわ」
氷の形成が僕の顎の所で止まる。呼吸は確かに問題ないが、先程ガルムに拘束された時よりも身動きが取れない。
「さて、この後はどうしようかしら。とりあえずお父様の所に行こうかしらね。ガルム、彼を持っていきなさい!」
「ワン!」
ガルムが左肩に僕を、右肩にヘルを担ぐ。氷漬けの僕は為すがまま彼に運ばれた。
◇
階下ではステファが蹲っていた。
「くっ……うう、うぁあああああっ!」
ステファの嘆く声が崩れかけたホールに響く。
彼女の背後には傭兵達が死屍累々となっていた。盾の直近にいた上に『弱体回復聖術』を習得していた事でステファはどうにか生き残れたが、彼らはそうはいかなかった。盾に陰に入れなかった者は竜の吐息の威力で死に、盾に守られた者であっても毒を浴びて死んだ。聖術を習得しているステファしか――聖術の管理者を信仰していたステファだけしか助からなかった。
「救えなかった……守れなかった……!」
悲しみと悔しさが混同した声を絞り出すステファ。だが、どんなに嘆いた所で死人が蘇らない。そんな特権は僕しか持っていない。
「ハクさん……どうして……!?」
ステファが若干の非難を込めてハクを見上げる。が、ハクが動じる筈もない。当然だ。今の彼女はヨルムンガンドだ。神話に登場する蛇の怪物なのだ。誰かを殺す事に躊躇する所以はない。
「あらあら、今日はなんて日なのかしら。ヨルムンガンドの吐息を受けて二人も生きているなんて」
階段を降りながらヘルがステファを見下して嗤う。彼の後にガルムと僕も続く。僕はガルムに担がれているだけだが。
「藍兎さん! 貴様、藍兎さんを放せ!」
「それは出来ない相談ね。放して欲しかったら奪ってみせないな。ただし……」
ステファに影が被さる。ハクがその身を起こしたのだ。巨体を動かして、ステファを爪牙が届く間合いに入れたのだ。
「ヨルムンガンドが黙っていないでしょうけど」
「…………っ!」
ハクが唸り、今にもステファに飛び掛からんとする。一方のステファは生き残りはしたものの竜の吐息のダメージは大きい。全身が軋み、戦うどころではない。ハクの接近に歯噛みする事しか出来ない。
とその時、ホールの隅の瓦礫が動いた。
「…………? 三護?」
そちらを見ると、三護がいた。今まで瓦礫の下敷きになっていた様だ。三護は聖術を習得していなかった筈だが、ゴーレムの肉体に耐毒機能でも仕込んでいたのだろうか。ミ=ゴの技術力ならそれもありえる。しかし、何か問題でもあったのか、身を起こした後も三護は俯いたままだった。
「あら? ドクター・三護も? なんて事、三人目の生存者なんて! しかも、悉くイタチ一派の人間だなんて。これはイタチに見る目があった――……」
ヘルが言葉を区切る。三護からただならぬ空気を感じた為だ。皆の視線が三護へと集まり、一時の沈黙が下りる。
「ゴ、アァァ……ミ……MMMGGG――――!」
最中、三護の上着が唐突に千切れ飛んだ。
否、上着だけではない。血肉も弾けて宙に舞っていた。胸部を裂きながら三護の背中より展開したのは甲殻類の脚だ。薄赤色の八本脚であり、節で分かれている。その足先は上一対が鋏、下三対が鉤爪となっていた。
脚だけではない。膜状の一対の翼と胴体、そして頭部らしきものも三護の背中より出てきていた。「頭部らしき」と言葉を濁したのは、それには目も鼻も口も耳もなかったからだ。非常に短い触手が生えた渦巻状の楕円形。それが頭部の位置にあった。
全体として蟹――否、ザリガニを連想させる容貌だ。全長は一・五メートル程度で三護の身長よりも大きかった。そんな異形が三護の体内から現出していた。
一連の挙動は羽化する様に似ていた。




