第3話
まさに、鶴の一声だった。
「見苦しいですわ」
――そのたった一言が、石畳の空気を真っ二つに裂いた。
当事者たちも、やじを飛ばしていた学生も、通行人も。
みな、呼吸すら忘れたように静止していた。
◆
その少し前――。
王都学園。王侯貴族の子弟が集う学び舎。
クラリスももちろん通っていた。
「クラリス様だ」「第二王子殿下と婚約されたんですって……!」
「王太子と婚約破棄されて間もないのに?」
囁きがさざめき、ひれ伏すように空気が揺れる。
クラリスはわずかに顎を上げ、足取りひとつ乱さない。
名家の公爵令嬢、元・王太子妃候補。
その完璧さと性格が、人を近づけさせない。
――だが、それでもなお、彼女を慕う者はいる。
「クラリス様――!」
淡色のドレスを揺らし、令嬢たちが駆け寄る。
淡い光を受けて宝石のように瞬く笑顔が、クラリスを取り囲んだ。
「今日のお召し物、とても素敵ですわ!」
「婚約、本当におめでとうございます!」
クラリスは柔らかな微笑を浮かべる。
「あら、ありがとう」
その一瞬に、令嬢たちは静かに息を呑む。
彼女の“調教”……いや、影響を受けた令嬢たちは知っている。
クラリスが“陰の噂”を何より嫌うことを。
だからこそ、疑問は正面から尋ねる。
「あの……クラリス様。どうして第二王子殿下と……?」
恐る恐る問う声に、クラリスは扇をゆるく開いた。
「“あえてお名前は申しません”けれど、ある方と比べものにならないほど――
聡明で、誠実で、そして……わたくしを深く愛してくださる方だからですわ」
令嬢たちの瞳が揺れ、息が止まる。
「そして、何より……」
扇をぱちりと閉じ、唇がほどける。
「お顔が……とても美しいからですの!」
堂々とした、揺るぎない口調。
だが令嬢たちは揃って困惑した。
(第二王子殿下が……美しい?)
(えっ、どんな方だったかしら?)
(確か、野暮ったい印象が……)
「クラリス様、それは……」
そのとき――。
「アン! アン・ドルトン! 君との婚約を――破棄する!!」
地面が震えたかと思うほどの怒声だった。
瞬時にざわめきが広がり、視線が一点へ集中する。
「メリーを虐めてただろう! 泣いてたんだぞ!!」
メリーはロバートの腕に縋り、
アンは蒼白になって震えている。
「あれ、ロバート男爵家の……?」
「噂、本当だったのか……」
クラリスの胸に、冷たいものが走った。
まるで南海に浮かぶ氷山が、心臓に沈んだように。
(……わたくしの前で“公開婚約破棄”だなんて……
わたくしへの嫌味?)
脳裏に蘇る、あの日の王太子の宣告。
胸の内側が氷の膜で締め上げられる。
「わ、私は……! メリーさんがあなたにあまりにもべったりで……注意しただけで……!」
「なに!? 言い訳するな――!」
ロバートがさらに声を荒げた、その瞬間。
深紅の影がすっと割って入る。
クラリスだった。
深紅の宝石のような瞳が、二人を射抜く。
扇がゆっくりと閉じられる。
「――見苦しいですわ」
その一言で、世界が止まった。
「こ、公爵令嬢……?」
ロバートの声が震える。
クラリスは石畳を滑るように歩み寄り、低く、美しく告げた。
「公衆の面前で、何をお考えなのかしら?
それとも……本当に何もお考えではなかったのかしら?」
静寂が石像のように固まる。
「こ、これは……クラリス様には関係のない――!」
「関係ありますわ」
扇の先が、すっとロバートへ向けられる。
「あなたの“歪んだ正義”が、周囲すべてを不快にしているのですもの」
──それは道徳心からではない。
ただ、自分の前で醜態を晒されることが不愉快だったからだ。
ロバートの顔が引きつる。
「そもそも、個人同士の諍いに殿方が干渉するなんて。
そんな過保護――メリー嬢のためになりませんわ。
社交界では、なおさらね」
メリーの肩がびくりと跳ねる。
アンはただ呆然と、その言葉の切れ味を見つめていた。
「それともあなた、メリー嬢の一生を背負うおつもり……?
ずっとつきっきりで庇って差し上げるの?」
ロバートは言葉を詰まらせた。
(……わたくし、“守られて当然”の顔をする女が……大嫌いですの!)
メリーへ向けた視線は、甘くも冷たい刃だった。
「まあ……それで双方納得なさるなら、それも一興でしょうけれど」
(この二人のために助言をするなんて……わたくし、本当に優しすぎませんこと?)
「――あなたはひとつだけ、良いことをなさいましたわ」
ロバートが顔を上げる。
「ご自身の愚かさを、婚約者にしっかり示されたこと。
これほど分かりやすい教訓もありませんもの」
アンの瞳が揺れる。
胸の奥が、解放と羞恥でごちゃ混ぜに熱くなる。
「アン嬢。
あなたは傷ひとつ付けず、婚約を美しく解消できるのですから――
本当に運がよろしいのよ」
──クラリスにとっては
アンが虐めようが、メリーが泣こうが、本質的にどうでもよかった。
「安心なさいな。あなたに相応しいお相手を……わたくしが見つけてさしあげますわ」
アンは震えた声で呟く。
「く……クラリス様……」
クラリスは扇をそっとロバートとメリーへ向けた。
「あなたたち、お似合いですこと。
どうぞ、互いに依存し合って生きてくださいませ」
ただ“自分がすっきりした”ことが重要なのだ。
◆
「クラリス」
その名を呼ぶ声が、人垣の向こうから響いた。
歩いてきたのは――
クラリスが丹念に仕立て直した、洗練された第二王子ルシアン。
漆黒の髪は陽光を拒むように滑らかで、
静かな灰の瞳は、磨かれた鋼のように冷たく深い、
整いすぎた横顔に光が滑った瞬間――
周囲が息を呑むほどの、美形だった。
「あれが……殿下?」
「まったく別人みたい……」「素敵……」
群衆がざわめき、空気が華やかに揺れる。
「迎えが遅くなった。どうした? 何かあったのか?」
クラリスは扇を伏せ、令嬢らを振り返らず答えた。
「いいえ、なんでもありませんわ」
(それにしても……わたくしもまだまだ未熟ですわね。
所詮、人は“似た高さ”の者にしか結ばれない……そういう摂理なのだと、改めて思い知らされましたわ)
「では、帰ろうか」
「ええ、殿下♡」
差し出された手を取り、クラリスは優雅に歩き出す。
深紅のドレスが霧を裂き、石畳を艶やかに滑る。
人々はその背を見送り――
アンだけがその後ろ姿を茫然と見つめていた。
(……虐めは否定されなかったけど)
クラリスの靴音が小さく遠ざかっていく。
その音に、胸の奥が妙に落ち着くのが分かってしまう。
(……まあ、いいか)
なぜ自分がそう思ったのか、アン自身も理解できなかった。
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