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あのときの選択は正しかった。
十年。
それだけの時間を怒りや悲しみに囚われ続けて過ごすなど、相当疲弊しただろう。引き返したいのに引き返せず、やがて互いを責めるようになるに違いない。彼にいつまでも憎悪を燃やさせて生きていくなど、恐ろしくてたまらない。
あの時の決断が正しかった。今までも、ここからの十年もだ。
──青嵐が問うてくる。おまえはどうやって生きていくのかと。
嵐はいつも答える。
飛雨を生かすために生きていく。
あの洞窟の中で支えてくれた命のために、生きていく。
飛雨のための瞳になって、生きていく。
鳥居の下の船室に降りると、嵐は右側のスペースをひょいと覗き込んだ。
壁一面の出窓に身体を収めるようにして剣を抱えた飛雨が、外の景色をじっと見ている。
静かに近づき、出窓に面した部屋の扉を指差すと、飛雨は気づいたようにこくんと頷き、手招きをした。
「……」
「?」
飛雨の囁くような声が聞こえるよう、耳を寄せる。
「……カルラは」
「今日は操舵室だって」
「嵐は?」
「部屋で寝るよ」
ふうん、と言いたげな飛雨に、嵐はもう一度シュナの部屋を指さした。
「飛雨は? 寝ないの?」
「……」
「何?」
「俺はシュナが寝たあとは部屋を出てる。知ってるだろ」
どこか怒りが灯る目に向かって、嵐は目を細める。
それだけで黙り込む飛雨は、嵐からゆっくりと視線を逸らした。
シュナは、心が限界を迎えると眠らなくなる。
眠れなくなるのだ。
感覚が冴えて、過敏になるのだろう。気づかれないようにしているらしいが、いつも健やかで笑顔の絶やさない彼女の些細な変化は、誰もが気づく。辛抱強いこの船の者たちは彼女が自分から身体を休めるのを待つが、彼女自身が気づかぬことのほうが多い。そういうときはリストが飛雨を呼ぶ。シュナはいつも申し訳なさそうに頭を下げるが、飛雨はリストの呼び出しを断ったことはない。飛雨でなければ意味がないことは、飛雨が一番よくわかっていた。
八年前にシュナを処刑から助けたのは、飛雨なのだ。
彼女が眠るために部屋に入った飛雨は、じっと床に座っているらしい。シュナが深く眠るまで、彼女のベッドにもたれるようにして盾になる。 そうして、部屋を出ても、彼女が起きてくるまでは近くを離れない。
その姿は、洞窟の中にいた恐ろしさを噛み殺しながら震える子供ではなかった。
庇護欲と、それ以上の使命感。
飛雨はおとなになったのだ。
憎しみも悲しみも怒りも、手の中に握って砂にして、手からこぼすことを覚えた。そうしなければ耐えられなかった。
目の下から血を流しながら、嵐とカルラが瞳の交換をするのを見ていた飛雨は、その瞬間に嵐と同じように〝頭の中が整理された〟のだろう。その表情を見て嵐は悟った。二人とも限界だった、と。
あの時のカルラが、助けてくれた。
彼から聞かされたリシマ襲撃の顛末を耳にしても、二人は身を寄せ合って手を繋いだまま、なんにも感じなかった。
王族の旗の船でリシマを出ていくことの虚しさも、感じなかった。
生きていく。
選んで、捨てて、縋って、助けて、生きていく。
このアダマスで。
カルラの逃亡船で。
嵐は、まだ不機嫌に外を見ていた飛雨の目を覗き込んだ。
外を見ていた目が、嵐を見る。
嵐の右目を。
「おやすみ、飛雨」
「……ああ」
「また明日」
嵐はそれだけ言うと、気配を殺しながら廊下に戻り、奥の部屋へ向かった。
リストを起こさぬようにそっと開ける。
二段ベッドと二つの机に、壁に埋まった扉付きの本棚。丸窓の外は、もう夜明けが近づいているように地平線が紫色を帯びている。
嵐は靴を脱ぎ、下のベッドに座ると、壁に背を預けた。今日はアレン一人だけの隣の部屋の気配に耳を澄ませる。彼もまた眠れないのか、小さく歌っている声が聞こえた。
アレンの穏やかな歌声が、アダマスを包んでいる。
リストのために歌う歌が。
嵐の耳に、かすかな呻き声が聞こえてきた。
「……さ……」
嵐はベッドの上を見つめる。
無表情な木目の更に上から、苦しそうな声が落ちてきた。
「ごめ……さ……」
「……」
「ごめんな、さい」
最後は泣き出すような声で絞り出し、彼が夢の中で泣いている声を聞きながら、嵐は静かな眼差しで窓の外を見た。
少しだけ祈る。
リストが、悪夢をこれ以上見ないように。
彼がシトリアにいくつも落とした天恵が、リシマの民を滅ぼすきっかけになっただなんて重い過去の痛みを、少しでもやわらぐように。




