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ひどく絶望的な気持ちだった。
自分の瞳を狙ってきたのだ、と。
そう思うと嵐は駆け出していた。焦る中、自分の左目を手で包み、震える声で唱える。おとなに教えられたように、丁寧に。
──この瞳をお返しします。
嵐の小さな手の隙間から、光が漏れる。眩しい視界に我慢できずにまばたきをすれば、ころんとした蜂蜜色の宝石が手の中に落ちてきた。もう左目は開かない。
それを手に、嵐は男の足元に転がるように跪いた。
──この瞳をわたしますから、どうか、飛雨だけはたすけてください
飛雨が嵐の名前を叫びながら出てくる中、男は、悲しそうな灰色の目で二人を見ていた。
甲板に風が吹き込み始める。
嵐の白い髪が巻き上げられ、カルラの灰色の髪もバサバサと揺れる中、二人は顔を見合わせてほっとしたように鳥居の下を見た。
この船の守りである、シュナがようやく眠りにつけたのだ。
「……ですね」
「え?」
「シュナが……で」
風の中、話ができなくなったことに気づいた二人は小さく笑い合い、カルラは鳥居の下の船室に戻るように指を指す。
嵐がカルラを指差せば、カルラは二本の帆柱の奥にある操舵室を指さした。四角い二つの箱を互い違いに積み上げたのような、上からは八角形に見える建物だ。
今日は寝ずに海に向かうらしい。
嵐は頷くと、カルラに背を向けた。
いつも思う。
この瞬間、彼に背を向けるこの瞬間、彼はどんな顔で自分を見ているのだろう、と。
まだ、あの頃のように可哀想な子どもを見るような目で見ているのだろうか。
嵐が瞳を差し出すと、男は悲しそうに言った。
──なんてことを。一度取り出してしまえば、もう自分には戻せないというのに。
飛雨は男に掴みかかろうとしたが、できなかった。
男は自分の右頬を手で覆って言ったのだ。
──この瞳を、お返しいたします。
飛雨も嵐も驚いたように目を見張る中、男は悲しそうな表情のままで、手をそっと取った。閉じられた左目と、手の中の、灰色の宝石。
〝瞬きの瞳〟ではない者が瞳を取り出せるはずがない──立ち尽くす嵐と飛雨の前に、男はそっと腰を折り、片膝で跪いた。
──天恵に愛されしリシマの民よ。シトリアの王族として、謝罪いたします。瞳を失ったあなたに、私の瞳を捧げさせてください。
男の声には、痛みが滲んでいた。
どうしてだろう。
その祈り方は、リシマの民が天恵を前にしたときにする格好と寸分違わなかった。失ったものが再び目の前に現れたような、心を殴りつけるほどの感情が二人を襲う。
嵐は呆然と男を見つめ、飛雨は激しく怒った。自分の左目にナイフを突き立てる。嵐に瞳を渡すのは自分だと、そう言う彼を見て、必死に止めた。手から血が滴り、ようやく飛雨が諦めてくれた中で、嵐は突然頭の中が整理された感覚に陥った。
すべての感情を手放してしまえば、ここでするべき最善の選択だけを選べたのだ。
極限状態の心が、臨界点を超えた瞬間だった。
嵐は、右手から血を滴らせながら、いまだ跪いている男の前に立つ。
自分の中に、あの真っ白な狼が棲んでいるようだった。嵐の生まれた日に必ず祈りの池に現れる天恵、青嵐が、じっと心の奥から世界を見ているような気がした。見ている。広い世界を。手の届かない世界を見ている。明日は続いていくのだと、それは永遠にも等しい時間なのだと、嵐に見せてくる。おまえはどうやって生きていくのかと、問うてくる。
生きていくための手段を、選ぶ。
──たすけて。
嵐は言う。
──おねがい。飛雨をたすけて。
最後の懇願だった。
自分の瞳だったそれを彼に握らせ、彼の瞳だったそれを手に握る。
覚悟はできていた。
瞳を交換するということが、どれほど神聖なことか、幼いながらに嵐はわかっていた。
許されることではない禁忌であるということも。
それでも、手は震えてはいなかった。
ころりと転がるは灰色の宝石を、そっと手で包み、閉じられた左目へ押し付ける。
──あなたの瞳をうけいれる。あなたも、わたしの瞳をうけいれて。
男が顔を上げた。
やっぱり悲しそうな目が、嵐を見る。嵐の残った右目は、それを無表情で見下ろした。
──名前を教えて。
もう、怖いものなどない。




