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カルラがそっと手を伸ばす。
嵐の灰色の左目の下を、人差し指で拭うように優しく撫でた。
「……痛みは?」
「ないよ。これをもらって、もう十年だもの」
「遠くまで、ちゃんと見えます?」
「うん。便利だね」
「集中しすぎないように」
「わかってる。カルラは?」
嵐が尋ねると、カルラはゆるく頷きながら、目をゆっくりと伏せる。
「痛みはないし、疲れてもしないし、呪われてもいません」
「すごいね。その目、カルラを好きになったのかも」
嵐が感心したように言うと、カルラはまた左目の下を撫で、惜しむように手を離した。
黒眼鏡をかける。
「ヒューには、嫌われていますがね。だからこうして、きちんと隠しておきますよ」
「あれは、カルラを嫌ってるんじゃないよ」
少なくとも、嵐が知っている飛雨という人は、カルラを嫌ってなどいない。
もしそうであれば、彼は嵐を連れて出ていくし、嫌いな人間の使う風に安堵した顔などしない。
「飛雨はアダマスが好きだし、カルラのことも、好きだよ」
「うーん」
「ただ、自分の目をくれる気だったから──そこだけ、納得してないんだよ」
飛雨の左目の下の深い傷は、嵐が投降するために瞳を差し出したときに、彼が自らのナイフでつけたものだった。飛雨の手を、嵐は必死に止めた。手にナイフが食い込んでも、決して放さなかった。
「あなたが、叫ぶようにやめてと言ったあの声が、忘れられません。あれ以来、あなたの感情が表に出るのを見たことがない」
「そうかな」
「そうですよ。あなた達はまだ幼かった。だというのに、あんな酷いところに残って──いえ、すみません。そうしたのはこちら側でしたよね」
カルラの声が沈むのを、嵐はぼんやりと見つめた。
十年前。
太陽を信仰するシトリアの東側に位置する孤島、リシマに太陽の旗を掲げた船が攻め入ってきた。
海をおびただしいほどの船が列をなして迫ってくることに一番に気づいたのは、当時七歳の嵐だ。
森の木のてっぺんにに登ったところを、飛雨に「おりろ」と叱られていたときだった。
太陽を手にする旗は、王様の旗。
そう教えられていた嵐は、無邪気に飛雨に伝えた。
王様が来たよ、と。
それまでムウっとした顔で「危ないからおりろ」を連呼していた飛雨は、蒼白な顔で「そこから動くな」と言うと、駆け出してしまった。嵐はわからないままにじっと木の上にいたが、故郷がおぞましい力で制圧されるのを、木にしがみついて身を小さくし、ただ見ていることしかできなかった。
船の上から斜めに迸る雷。
船の上から吹き込む強風。
船の上から豪雪が吹き荒む。
そして、なぜかいくつも落ちてくる球体──天恵。
惨状を目にして戻ってきた飛雨につれられて、山の中の洞窟に隠れた一晩の間、天恵の断末魔が響き──不快な匂いが漂う中、嵐は飛雨に強く抱きしめられていた。震える腕で。
雷も、風も、雨も、聞いたことがないほど凶暴な音が、耳にこびりついて離れなかった。
それから三日、山の中で過ごし、静かになったのを確かめて、山から降りた。
限界だった。
いくつもの天恵の無惨な骸が転がり、その下にリシマの民が押しつぶされている凄惨な光景の中、嵐は自分が安堵していることに気づいた。リシマを象徴する青い屋根の家も、その前にある小さな祈りの池も、島の中心の円状の舞台もお社──飛雨の家も、すべてが天恵の骸に潰されているというのに、ほっとした。轟音からの静けさに頭が狂ってしまいそうだった二人は、目にすることでようやくその恐怖から逃げられたのだ。
飛雨も嵐も、互いの手を繋いだまま、じっと立ち尽くしていた。
理解できなかった。
何があってこんな事になっているのか、わからなかった。
天恵は、リシマの民にとっては祈りを捧げる対象であり、天恵自体を呼び出すものでもなければ、落ちてくるものでもない。
時折、家の前の池の水の上に姿を現してくれるだけの、どこか遠い存在。
親愛を伝えるように名前を呼べば、小さく応えてくれる、そんな存在だったものが、どうしてみんなを押しつぶしているのか。
わからないまま、二人は涙を流していた。
穏やかに暮らしていた人々に何が起きたのかは、さらに一週間後──カルラが〝王様の旗の船〟でやってきたときに、聞かされることとなる。




