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アダマスの船首に優しく降ろされると、二人を包む風がふっと消えた。
嵐が礼を言おうと甲板に立つ男を見ると、彼はじっと空を見つめていた。丸い黒眼鏡に、くせ毛をうなじで丸く結った男──黒い格好の長身の男は、その見た目に似合わぬ繊細に編まれた大きなショールを肩にかけている。
腕に絡みついたショールの縁を飾る糸が、はらりと揺れた。
カルラが風を呼ぶ。
「──〝狂風〟」
その声が響くと、いつも周囲は静寂に包まれる。世界が静止しているのかもしれない、と思うほどの無音の中、空を何かが駆けた。
風だ。荒れ狂う激しさを固めたような風が、地上へと向かう。あの男を追い回すらしい。
「見てたの?」
「はい。船員の身を守るのが船長たる私の使命ですから」
「初めて知った」
「本当にな」
飛雨まで頷くと、カルラは後ろを振り返った。
「え? 私いつも言っていますよね?」
背の高い優美な格好をしたアレンが首を傾げる。
ゆるやかにウェーブした長い髪を、美しい爪で掻き上げた。赤みを帯びたブロンドがかすかに輝き、笑みが美しい顔に乗る。
「ごめん、オレ嘘つけないから答えない」
「アレン……あなたって本当に正直ですね」
カルラに「うん」と頷くアレンの後ろから、背の低い少年がひょっこりと現れた。
「なにやってるの」
肩で切り揃えられた髪が揺れ、前髪の下の大きな白緑色の瞳が呆れたものへ変わる。
「天恵は無事に帰せたんだから早く寝なよ……あんたら大人でしょ」
「ごめん、リスト」
「いや、ランには言ってないし。謝らない男三人に言ってるんだよ」
彼は──リストは、この船に乗っている人間の中で、誰よりも聡明だと嵐は思っている。実は三百歳です、と言われても驚かないほど達観しているし、そうある自分を認めている。彼の立場で、それがどれほど難しいことなのか、アダマスの全員が理解していた。
アレンがリストの目をじっと見つめる。
「ごめん」
「いいから寝て」
「ありがと。おやすみ、リスト」
穏やかな低い声で歌うように言ったアレンは、美しく笑って鳥居の下の船室へおりて行った。と、すれ違うように女が出てくる。
優しい瞳に、髪を美しくまとめた彼女は、看板を見るとほっとしたように肩の力を抜いた。
「ああ、よかった。いつまでも下に来ないからどうしたのかと──あら、どうしてリストに怒られてるの?」
あっという間に状況を把握した彼女に、リストは答える。
「シュナも寝て。ここ三日寝てないの知ってるから、昼まで起きてこないで」
「お、お昼かあ……」
「ヒュー、お願い」
リストに呼ばれた飛雨は、謝るシュナの頭をぽんぽんと撫でるお、二人は連れ立って船室へとおりていった。
一度も嵐を振り返らずに。
リストは監視するように二人が部屋に入るのを見届けてから、嵐とカルラを見た。
「じゃあね」
アダマスの甲板は、嵐とカルラだけになる。
「気を使わせましたね。彼は苦労しすぎていて周りを見すぎでは?」
「カルラのせいだと思う」
嵐の身も蓋もない言葉に、カルラはくすくすと笑う。
「そうですね。私のせいです」
「まだ〝狂風〟使ってるの? そろそろやめたら」
「あなたの目を見たのでしょう?」
カルラの声が低くなる。
「次もそんなミスを犯すのなら、船から落ちるのは許しませんよ」
「ごめん」
「……うーん、あなたも素直でしたね」
「あの人を殺すの?」
「ヒューをシュナに渡してよかったんですか? あれはあなたのでしょう?」
どうやら聞かれたくないことだったらしい。話をすり替えられたことも気にせず、嵐はこくんと首を傾げた。
「飛雨はわたしのものじゃないよ」
「そうでしたっけ」
「飛雨は、飛雨のものだから。したいことをしてほしい」
「あなた以外を守っても?」
「飛雨がそうしたいのなら」
「でも……彼は、自分はあなたのものだと思っていますよ」
「それも飛雨の自由だよ」
「あなたは? 誰のものですか?」
嵐はカルラを見上げたが、彼の顔は優しく笑っていた。
一歩近づき、自分の右頬に手を当て、瞳をそっとなぞる。
「わたしは飛雨のものだよ──わたしの、この目は」
カルラはまた笑う。
そうして、長い指で、ゆっくりと黒眼鏡を取った。
「ではこれは、私のもの、ですね」
カルラの瞳が瞬く。
二人は鏡合わせのように、同じ色の瞳を持っていた。
それは、嵐がカルラに捧げた〝瞬きの瞳〟であり──カルラが嵐に捧げた、灰色の瞳だった。




