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アダマスの船旗  作者: 藤谷とう
空を、飛ぶ
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5



 アダマスの船首に優しく降ろされると、二人を包む風がふっと消えた。


 嵐が礼を言おうと甲板に立つ男を見ると、彼はじっと空を見つめていた。丸い黒眼鏡に、くせ毛をうなじで丸く結った男──黒い格好の長身の男は、その見た目に似合わぬ繊細に編まれた大きなショールを肩にかけている。

 腕に絡みついたショールの縁を飾る糸が、はらりと揺れた。

 カルラが風を呼ぶ。

 


「──〝狂風(きょうふう)〟」



 その声が響くと、いつも周囲は静寂に包まれる。世界が静止しているのかもしれない、と思うほどの無音の中、空を何かが駆けた。

 風だ。荒れ狂う激しさを固めたような風が、地上へと向かう。あの男を追い回すらしい。


「見てたの?」

「はい。船員の身を守るのが船長たる私の使命ですから」

「初めて知った」

「本当にな」


 飛雨まで頷くと、カルラは後ろを振り返った。


「え? 私いつも言っていますよね?」


 背の高い優美な格好をしたアレンが首を傾げる。

 ゆるやかにウェーブした長い髪を、美しい爪で掻き上げた。赤みを帯びたブロンドがかすかに輝き、笑みが美しい顔に乗る。


「ごめん、オレ嘘つけないから答えない」

「アレン……あなたって本当に正直ですね」


 カルラに「うん」と頷くアレンの後ろから、背の低い少年がひょっこりと現れた。


「なにやってるの」


 肩で切り揃えられた髪が揺れ、前髪の下の大きな白緑(びゃくりょく)色の瞳が呆れたものへ変わる。


「天恵は無事に帰せたんだから早く寝なよ……あんたら大人でしょ」

「ごめん、リスト」

「いや、ランには言ってないし。謝らない男三人に言ってるんだよ」


 彼は──リストは、この船に乗っている人間の中で、誰よりも聡明だと嵐は思っている。実は三百歳です、と言われても驚かないほど達観しているし、そうある自分を認めている。彼の立場で、それがどれほど難しいことなのか、アダマスの全員が理解していた。

 アレンがリストの目をじっと見つめる。


「ごめん」

「いいから寝て」

「ありがと。おやすみ、リスト」


 穏やかな低い声で歌うように言ったアレンは、美しく笑って鳥居の下の船室へおりて行った。と、すれ違うように女が出てくる。

 優しい瞳に、髪を美しくまとめた彼女は、看板を見るとほっとしたように肩の力を抜いた。


「ああ、よかった。いつまでも下に来ないからどうしたのかと──あら、どうしてリストに怒られてるの?」


 あっという間に状況を把握した彼女に、リストは答える。


「シュナも寝て。ここ三日寝てないの知ってるから、昼まで起きてこないで」

「お、お昼かあ……」

「ヒュー、お願い」


 リストに呼ばれた飛雨は、謝るシュナの頭をぽんぽんと撫でるお、二人は連れ立って船室へとおりていった。

 一度も嵐を振り返らずに。

 リストは監視するように二人が部屋に入るのを見届けてから、嵐とカルラを見た。


「じゃあね」


 アダマスの甲板は、嵐とカルラだけになる。


「気を使わせましたね。彼は苦労しすぎていて周りを見すぎでは?」

「カルラのせいだと思う」

 

 嵐の身も蓋もない言葉に、カルラはくすくすと笑う。


「そうですね。私のせいです」

「まだ〝狂風〟使ってるの? そろそろやめたら」

「あなたの目を見たのでしょう?」


 カルラの声が低くなる。


「次もそんなミスを犯すのなら、船から落ちるのは許しませんよ」

「ごめん」

「……うーん、あなたも素直でしたね」

「あの人を殺すの?」 

「ヒューをシュナに渡してよかったんですか? あれはあなたのでしょう?」


 どうやら聞かれたくないことだったらしい。話をすり替えられたことも気にせず、嵐はこくんと首を傾げた。


「飛雨はわたしのものじゃないよ」

「そうでしたっけ」

「飛雨は、飛雨のものだから。したいことをしてほしい」

「あなた以外を守っても?」

「飛雨がそうしたいのなら」

「でも……彼は、自分はあなたのものだと思っていますよ」

「それも飛雨の自由だよ」

「あなたは? 誰のものですか?」

 

 嵐はカルラを見上げたが、彼の顔は優しく笑っていた。

 一歩近づき、自分の右頬に手を当て、瞳をそっとなぞる。


「わたしは飛雨のものだよ──わたしの、この目は」


 カルラはまた笑う。

 そうして、長い指で、ゆっくりと黒眼鏡を取った。


「ではこれは、私のもの、ですね」


 カルラの瞳が()()


 二人は鏡合わせのように、同じ色の瞳を持っていた。

 それは、嵐がカルラに捧げた〝(またた)きの瞳〟であり──カルラが嵐に捧げた、灰色の瞳だった。





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