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「嵐」
しばらく無言で沈みゆく空を見ていた飛雨が、小さな声で「オオギは?」と呟くように聞いてきた。
どこか笑みを含ん声に、嵐も笑う。
「大丈夫、親指折っただけ──ああ……でも、なんか違うんだって」
「?」
繋いでいた指先が、続きを促すようにクイと引っ張られる。
「何もしてないんだって。赤船」
「は?」
「金貨が必要な時しか、してないって。船長がオオギに変わってから」
「いやそっちじゃなくて、なんで折ったんだ」
「色々あって」
「色々?」
「……ちょっと人質になったふりをしただけ」
嵐が言うと、飛雨は目元をきゅっと細めた。
「一人で船を沈める気だったな?」
「青嵐はわたしが逃げるためなら力を貸してくれるだろうし」
「嵐」
「……カルラに止められたから大丈夫」
「カルラが止めたなら、大丈夫じゃなかったんだろ」
見ていたのかと思うくらいに表情が険しくなる飛雨に、嵐は繋いだ指先の右腕の袖を、そっと捲って見せた。赤船を象徴する腕輪が、嵐の細い手首に揺れるのを見た飛雨が、息を呑む。
「……取り返したのか」
「うん」
「浅海さんの」
「うん」
「……」
そうか、と言う言葉が一瞬震えた。
繋いでいた指先が、ぎゅっと強く握られる。
「よかったな」
その無表情の中に、深い安堵が見えた。
ようやく、嵐の身体から力が抜けていく。尖っていた神経が和らいだような、その青い石を見ていると何かが揺さぶられるような気がして、目を閉じる。
──浅海さーん!
そう遠くから飛雨が呼ぶ声が、記憶の中から聞こえる。
飛雨が笑う。
大きな口で、目を細めて、手を降る。嵐は肩車をしてくれていた叔父の頭をぺんぺんと叩き、おろしてもらうのだ。
そうすると飛雨が駆けてきて、嵐の頭を撫でながら、舞を教えてほしい、と頼み込む。
踊る。
浅海がふわふわと踊る。
そうすると、読んでもいないのに空からぱらぱらと雨が降った。
虹がかかり、嵐はそれを見上げ、くいくいと繋いだ飛雨の手を引く。夢中で舞を見ていた飛雨は、嵐を見て、虹を見て、また嵐を見て──優しく笑った。
目尻がきれいで、嵐の心はぽかぽかと満たされていく。
「嵐」
嵐はゆっくりと目を開けた。
左目の下の傷を視線でなぞり上げ、飛雨と目を合わせる。
「なに?」
「……」
「飛雨?」
「……いや」
飛雨はじっとと嵐を見ていたが、視線をそらし、そっと手を離した。
「上、行くか」
「もう少し」
嵐が被せるように言うと、飛雨はまた嵐を見た。
その視線の温度が嵐に刺さる。
まるで真意を探るような、嵐の考えがわからないと言わんばかりに何かを押さえつけた目で見る飛雨を、嵐はそれでも見つめ返した。
「もう少し、ここにいて」
悲しませたくない。
傷つけたくない。
それがどうして、こんなに難しいのだろう。
嵐はもう一度差し出された飛雨の手を、今度は強く握った。
嵐はじっと出窓の外を見つめる。
日が落ち、水平に泳ぐ雲の中を進んでいるアダマスが、どこに向かっているのかを一人で考える。
少し前に、飛雨は「夕食の準備をする」とだけ言って、先に上がった。
嵐は今度は止めなかったし、飛雨も止められるとは思っていなかったのだろう、最後に頭を撫でて行った。
二人で沈黙を貪って、何も言わず、何も考えない。
その時間が、互いに必要な時がある。
その時間が終えたことも、互いにわかる。
「……」
嵐は剣を抱く。
昔にノヴァを刺したあと──カルラから剣の稽古をつけられるようになった。
剣を持つというのがどういうことなのか、人にそれを向けるのが、どれほど恐ろしいこと何かを叩き込まれた。ただ構え、振る。教えられたのは単調な動きだ。けれど、人を殺さないギリギリの距離感をカルラで学ぶというのは、剣を持つ手の感覚がなくなる心地だったのを覚えている。
踏み込む速度。
自然と慎重になる剣筋。
躊躇おうとするとできる隙。
それを縫って伸びてくる剣を、いなす。
アダマスの甲板で、金属がぶつかり合う耳障りな音が、心臓に細かい破片を落としていくようだった。
意識が凍り、澄んでいく。
視覚が。
手の感覚が、戻ってくる。
足が地についてることを感じる。
眼の前の対象から目を逸らさない。自分が殺そうとする相手を、恐れない。相手の剣も、恐れない。
ひたすらに追い詰めたくなる高揚する自分の心を掴んで頭を押さえつけ、冷静に踏み込むことに集中する。
殺されても本望だ、と言わんばかりのカルラの意思を砕くように、前に出る。
飛雨と、そうやってカルラに鍛えられてきた。
生きるための剣を。
自分の身を、落とさないための剣を。




