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頭の中が整理される感覚を、嵐は何度も味わった。
わかっている。
何も感じないようにしているが、自分の底に何かが淀んで溜まって噴き出しそうになるたびに、本能がそれを先に片付けていることを。
これはただ単に、忘れることができぬ記憶が暴発せぬよう、丁寧に大人しくさせているに他ならない。感情が吹き出して身体に沁みる前に、押し潰すのだ。
まるで訓練のように。
そうして、ひたすら繰り返して積み重ねていくと、段々と整理する必要も少なくなっていった。
失ったのか、得たのか、嵐にはわからない。
けれど今の平穏は、その訓練の成果であることは確かだった。
シュナの部屋の扉がゆっくりと開く。
出てきたのはシュナで、嵐が出窓に座っているのを見ると、穏やかな目で何も言わずに上へ向かった。
彼女の足音は心地が良い。
水輝の足音に、よく似ている。
嵐は目を閉じる。ゆっくりと蓋をする。
幸福な記憶は、誰かにとっては悲劇の記憶かもしれない。
カルラの。
あの悲しい人の。
強い感情で視覚という名の感覚が繋がってしまうのならば、思い起こす幸せな記憶は、カルラが潰した幸せだろう。
カルラ自身は何もしていないが、そういうふうに開き直れる人ではない。
「……」
ふう、と息を吐く。
頭の中の何かが──瞳から流れる何かが、思考を柔らかく溶かすのを食い止めるように、嵐は目を開いた。
視界に入ったその姿に、表情が自然と柔らかくなる。
出窓に腰を下ろす美しい横顔を、嵐はじっと見つめた。
「飛雨」
「……奴らは」
「出ていったよ」
飛雨は嵐と向き合うように座ると、立てた膝に腕を置き、嵐が抱く剣を指さした。
「使ったか」
曖昧に頷き、答える。
「オオギに。ノヴァには使ってない──不思議だよね。一度殺そうとした人なのに、わたし、もうノヴァには何も思えない。ごめん」
刺した。
殺そうとした。
八つの自分はまだ怒っているが、今の自分にはそれがない。あの時吹き出した感情が、尽きたかのように湧いてこない。
「……それ、俺のせいだよ」
飛雨が呟く。
「嵐があの時久しぶりに感情を出したのに、俺がそれを許さなかったからだ。なのに、俺自身がまだあいつを許せない」
その瞳はどこまでも黒いが、震えるほどの憎しみは片付けられているように見えた。
嵐は剣を胸に預け、手を伸ばす。
飛雨はそっと嵐の指先に中指を絡ませた。
あたたかい。
生きている。
そう互いが思っていることが、指先からじんわりと伝わってくる。
嵐は、ふ、と笑った。
「飛雨」
「ん」
「……それ、わたしのせいだよ」
「? 何がだ」
「ノヴァを許せないのは、わたしのせい」
飛雨が黙る。
嵐はその瞳をじっと見つめた。
「わたしが恨まないように、飛雨が代わりに恨んでるの」
嵐は、飛雨の濡れたような黒い瞳を離さずに続ける。
「わたしの為に怒ってるんだよ。わたしがまた殺そうとしないように。飛雨が怒れば、わたしは止める立場になれるから──だって、わたしたちは知ってる。誰も悪くない。何も悪くない。そう思わないと、耐えられないって」
「嵐」
言葉を遮ろうとする飛雨に向かって、嵐は優しく笑う。
「それでも、わたしのために怒ってくれてる。だから、わたしが飛雨を止めるんだよ」
二度目に会ったときだった。
飛雨は飛び出して、ノヴァを殴り飛ばした。
船から落ちたノヴァが、風を呼ぶ。水輝の瞳で風を呼ぶ。飛雨の苦しげな顔を見て、ノヴァも苦しげに眉を寄せた。嵐はただ見ていた。二人が同じ表情で、互いに言葉にならない感情を共有している瞬間を。
それは、恨み合うよりも、ずっと救いようのないものだった。
気象空挺団が近づくと、水輝は飛雨を呼ぶ。
幻聴なのか、それとも本当に彼女の瞳が弟に会いたくて呼んでいるのか、わからない。
ただ、飛雨がノヴァに会ってはいけないことはわかる。
飛雨の心がちぎれてしまいそうなほどに痛むのが、嵐には伝わってくる。
あいつを許してはならない、とその黒い瞳が染まる。
だから、嵐がノヴァの前に立つのだ。
そうやって、あいつにリシマのことを忘れされない──あいつが大切な誰かの瞳を持ってくるまで、嵐が立ち続ける。飛雨は絶対に会わない。そういう約束だった。
効果は覿面だった。
ノヴァは嵐を見るとほんの少し動揺を見せる。それが徐々に収まって、彼の心が凍てつくまで、九年。
時間は人を変える。
時間は痛みを変える。
無情なほどに。
「ノヴァは、いつか大切な人ができるのかな」
嵐の独り言に、飛雨は何も言わないまま、窓の外をじっと見ていた。
二人の指は絡んだままだ。




