表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アダマスの船旗  作者: 藤谷とう
嵐の子
42/43

42



 頭の中が整理される感覚を、(ラン)は何度も味わった。


 わかっている。

 何も感じないようにしているが、自分の底に何かが淀んで溜まって噴き出しそうになるたびに、本能がそれを先に片付けていることを。


 これはただ単に、忘れることができぬ記憶が暴発せぬよう、丁寧に大人しくさせているに他ならない。感情が吹き出して身体に沁みる前に、押し潰すのだ。


 まるで訓練のように。

 そうして、ひたすら繰り返して積み重ねていくと、段々と整理する必要も少なくなっていった。


 失ったのか、得たのか、嵐にはわからない。

 けれど今の平穏は、その訓練の成果であることは確かだった。




 シュナの部屋の扉がゆっくりと開く。

 出てきたのはシュナで、嵐が出窓に座っているのを見ると、穏やかな目で何も言わずに上へ向かった。

 彼女の足音は心地が良い。

 水輝(みずき)の足音に、よく似ている。


 嵐は目を閉じる。ゆっくりと蓋をする。

 幸福な記憶は、誰かにとっては悲劇の記憶かもしれない。

 カルラの。

 あの悲しい人の。

 強い感情で視覚という名の感覚が繋がってしまうのならば、思い起こす幸せな記憶は、カルラが潰した幸せだろう。

 カルラ自身は何もしていないが、そういうふうに開き直れる人ではない。


「……」


 ふう、と息を吐く。

 頭の中の何かが──瞳から流れる何かが、思考を柔らかく溶かすのを食い止めるように、嵐は目を開いた。

 視界に入ったその姿に、表情が自然と柔らかくなる。

 出窓に腰を下ろす美しい横顔を、嵐はじっと見つめた。


「飛雨」

「……奴らは」

「出ていったよ」


 飛雨は嵐と向き合うように座ると、立てた膝に腕を置き、嵐が抱く剣を指さした。


「使ったか」


 曖昧に頷き、答える。


「オオギに。ノヴァには使ってない──不思議だよね。一度殺そうとした人なのに、わたし、もうノヴァには何も思えない。ごめん」


 刺した。

 殺そうとした。

 八つの自分はまだ怒っているが、今の自分にはそれがない。あの時吹き出した感情が、尽きたかのように湧いてこない。


「……それ、俺のせいだよ」


 飛雨が呟く。


「嵐があの時久しぶりに感情を出したのに、俺がそれを許さなかったからだ。なのに、俺自身がまだあいつを許せない」


 その瞳はどこまでも黒いが、震えるほどの憎しみは片付けられているように見えた。

 嵐は剣を胸に預け、手を伸ばす。

 飛雨はそっと嵐の指先に中指を絡ませた。


 あたたかい。

 生きている。

 

 そう互いが思っていることが、指先からじんわりと伝わってくる。


 嵐は、ふ、と笑った。


「飛雨」

「ん」

「……それ、わたしのせいだよ」

「? 何がだ」

「ノヴァを許せないのは、わたしのせい」


 飛雨が黙る。

 嵐はその瞳をじっと見つめた。 


「わたしが恨まないように、飛雨が代わりに恨んでるの」


 嵐は、飛雨の濡れたような黒い瞳を離さずに続ける。


「わたしの為に怒ってるんだよ。わたしがまた殺そうとしないように。飛雨が怒れば、わたしは止める立場になれるから──だって、わたしたちは知ってる。誰も悪くない。何も悪くない。そう思わないと、耐えられないって」

「嵐」


 言葉を遮ろうとする飛雨に向かって、嵐は優しく笑う。


「それでも、わたしのために怒ってくれてる。だから、わたしが飛雨を止めるんだよ」


 二度目に会ったときだった。

 飛雨は飛び出して、ノヴァを殴り飛ばした。

 船から落ちたノヴァが、風を呼ぶ。水輝の瞳で風を呼ぶ。飛雨の苦しげな顔を見て、ノヴァも苦しげに眉を寄せた。嵐はただ見ていた。二人が同じ表情で、互いに言葉にならない感情を共有している瞬間を。



 それは、恨み合うよりも、ずっと救いようのないものだった。




 気象空挺団が近づくと、水輝は飛雨を呼ぶ。

 幻聴なのか、それとも本当に彼女の瞳が弟に会いたくて呼んでいるのか、わからない。

 ただ、飛雨がノヴァに会ってはいけないことはわかる。

 飛雨の心がちぎれてしまいそうなほどに痛むのが、嵐には伝わってくる。

 あいつを許してはならない、とその黒い瞳が染まる。


 

 だから、嵐がノヴァの前に立つのだ。

 そうやって、あいつにリシマのことを忘れされない──あいつが大切な誰かの瞳を持ってくるまで、嵐が立ち続ける。飛雨は絶対に会わない。そういう約束だった。


 効果は覿面だった。

 ノヴァは嵐を見るとほんの少し動揺を見せる。それが徐々に収まって、彼の心が凍てつくまで、九年。

 時間は人を変える。

 時間は痛みを変える。


 無情なほどに。



「ノヴァは、いつか大切な人ができるのかな」



 嵐の独り言に、飛雨は何も言わないまま、窓の外をじっと見ていた。


 二人の指は絡んだままだ。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ