31
震える飛雨の手を、嵐は強く掴んだ。
「シュナ、飛雨をお願い」
「……あ」
弾かれたようにシュナがそばに来るが、飛雨の足は動かない。
嵐は手を離すと、飛雨の顔を両手で掴んだ。
凍るような黒い目が憎しみに染まる前に、強く呼びかける。
「飛雨。シュナの部屋へ行って。出てこないで。絶対に」
「……」
「わたしとの約束を守って」
「……」
頬まで冷たくなってくるその顔を、嵐は必死に睨んだ。
「守って。じゃないと、わたしまた投降するから」
「だめだ」
飛雨を守るためなら何を差し出しても投降する。
その意志が伝わったらしく、飛雨の目に激しい怒りが灯った。
「だめだ」
「なら早く行って」
「……」
「言ったよね。わたし、嘘はつかないよ」
頬から手を離した嵐は、その手で飛雨の胸をどん、と叩く。
それでも動かない飛雨に、嵐は苛立ったように自分の右目に手を伸ばした。
飛雨の目が見開かれる。
「!」
瞬間、強い力で手を捕まれ──蒼白な顔で怒鳴られた。
「やめろ!」
それでも、嵐は一歩も引かない。飛雨を睨みあげる。
飛雨がひどく傷ついていても構わなかった。自分の手を握る手が、怒りではなく恐ろしさから震えていたとしても、その手を冷たく払い除け、再び〝瞬きの瞳〟を隠そうとする。
が、その前に手を止めた。
「部屋に行って」
「……」
「わたしに任せて。シュナと、部屋から絶対に出てこないで」
飛雨は何も言わず、歯を食いしばって操舵室から出ていった。シュナが追いかける。窓から鳥居の下の船室に向かうのをしっかりと見届けた嵐は、ほっと息を吐く。
「……」
「頑張りましたね」
「脅せてた?」
「ええ」
カルラがくすりと笑う。
「あれはヒューにとっては最大の脅しです。よくやりました」
カルラは嵐の背中をトンと叩くと、外へ向かった。
アレンも続き、甲板から全体を見渡して備えている。
「ラン」
残っていたリストは、ランにすっと手を差し出した。
支えはいるか、と聞かれているのだろう。
嵐は首を横に振る。
「大丈夫」
「……わかった。じゃあ、反省が終わっても落ち込んでたら、手、貸すよ」
「うん。ありがとう」
「とりあえずは、ヒューが下に行ったなら気象空挺団とすれ違っても大丈夫だね。まあ、カルラがいるからどうにかはなるし」
「あれで船長だからね」
嵐が言うと、リストが「ふ」と笑い、それから思い出したように「そういえば」と切り出した。
「最近、気象空挺団は赤船から許可証を取り上げるために追ってるらしいよ」
「……そうなの?」
「エトライで聞いた。赤船はそれから逃げてるって」
「なんで」
何があっても赤船の「力」にも頼っていた気象空挺団が、赤船から許可証を取り上げようとし、好戦的な赤船が逃げるなど──珍しいこともある。逃げるほど、本気で追っているということなのだろうか。
リストが、驚いたように嵐を見つめた。
「シトリアの王が代替わりしたって噂、ラン聞かなかったの?」
「代替わりって」
「……死んだらしい」
シトリアの王が、死んだ。
リシマを滅ぼすように先導した男が。リストを「罪深くとも子供の処刑はできぬ。天に任せる」と言って燃え尽きたリシマに置き去りにするように命じた、おぞましいほどに残酷な男が。
死んだ。
あれから十年で。
「冷たい大雨が続いた日の朝、そのまま静かに死んだらしい」
「……」
「恨みだって、そんな馬鹿みたいな噂だった」
「そうだったら良かったのに」
嵐はそう呟くと、リストをそっと抱き寄せた。
同じ背丈になった今、昔のように頭を抱くことはできないが、それでもリストの複雑な感情が少しでもほどけるように、祈るように目を伏せる。
嵐の背中を軽く抱きしめ返したリストは、小さく笑った。
「ランは……自分は支えはいらないって言うくせに、僕をすぐ甘やかすね」
「そう?」
「……僕はここにいるけど……ラン、我慢してよ」
「わかってる」
「……はあ、本当かなあ……」
嵐がリストを離すと、それを待っていたかのようにリストは黒い眼帯を差し出してきた。
「ラン、これ」
「それしてると動きにくい」
「……我慢するんじゃなかったの」
「……」
「後ろ向いて」
強制的に、右目の視力が奪われる。
嵐が眼帯に触れると、すぐにリストの忠告が飛んでくる。
「あのさ。自分で取ろうしたら、シュナがつけてくれた髪飾りが壊れるよ」
「……」
「問題起こさないようにして。ヒューのためにも、だよ」
「リスト、大きくなったね」
「この船は問題児が多いから」
リストは嵐の肩をそっと叩いた。
「気をつけて」




