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嵐はゆっくりと立ち上がると、飛雨を振り返った。
紺碧の光が、霧雨に濡れる嵐を足元から淡く照らす。その表情のなかにわずかな変化を感じ取った飛雨は、どこか安堵したように息を吐いた。
『──あれもリシマの民だね』
大蛇、夜雨の頭の上に座る幻影が小さな足をプラプラと揺らす。
嵐は頷きながら、地面においたままだった剣を手にした。しっとりと濡れたそれを、マントの内側で拭う。
『揃いも揃って表情がない。愛らしいね』
ゆっくりとした足取りで近づく飛雨を見ながら、嵐は無言のまま剣を鞘に納めた。
「嵐」
「帰ってくれるみたい。上まで送ってほしいんだって」
「わかった」
『──!』
幻影がひらりと空を飛び、飛雨の顔を覗き込む。
『これは驚いた──この者はリシマの民であるというのに、常闇の瞳を持っているのか』
「え?」
「どうした」
思わず反応した嵐を、飛雨は訝しげに見る。どうしようかと迷ったが、幻影の見えぬ飛雨に何を言えばいいのかわからず、首を横に振った。
「なんでもない」
「そうか」
そう言うと、飛雨は夜雨に向かい、敬意を示すように深く俯く。
「お送りいたします──〝夜雨〟」
飛雨が天に向かって呼ぶと、霧雨がピタリと止まり、代わりに大蛇に向かって一筋の光が降り注いだ。
雨だ。
雨の一粒一粒が夜にふさわしい光をまとって、しとしとと落ちてくる。まるで月の道ができたかのような静謐な雨は、優しさを纏って大蛇を包んだ。
『顔に似合わず優しいやつだね──ありがとう。これの名前は?』
「飛雨」
『そう、飛雨。雨の子、飛雨よ。美しい道をありがとう』
幻影はそう言って飛雨の心臓のあたりをそっと撫でると、姿を淡くほどき、光の粒となって夜雨の中へと戻っていった。
と、その大きな頭がそっと持ち上がる。
飛雨が振らせる雨を見上げると、細く長い帯のような体を左右に波打たせながらすいすいと泳ぐように昇って行った。夜の鱗を持つ大蛇が、月光の雨粒の中を舞う光景は、言葉を発するのが野暮なほどに美しい。
そんな二人の足元の紺碧の光は、夜雨が離れると弾けるように消えていった。すべてが消えた黒い森の中で、それでも二人は見送る。雨はもう、地上には降っていなかった。
「上、大丈夫かな」
真っ暗になり、空を駆ける夜雨が糸のように見え始めた頃、嵐は呟いた。
「大丈夫だろう。カルラがいる。うちの船旗を見て、今まさに天に帰しているところに手を出すとすれば」
「あの馬鹿みたいに真っ赤な船だけだね」
「幸いあいつらは今の時期は海の上だ」
「腹が立つ」
「だから今邪魔しに行ってるんだろ」
飛雨がなだめるように嵐の頭に手を置く。
「悪い。結構濡れたな」
「船に戻ったらカルラに」
そこまで言った嵐は、わずかに機嫌が傾いた飛雨の表情の変化に気づき、小さく笑った。
「船に戻ったら、飛雨、拭いて」
「……カルラに頼め──時間が、あればな」
「そうだね」
二人はその小さな足音を聞き逃さない。張り詰める空気の中、揃って静かに剣を抜く。
森の奥から天恵の残滓を狙う愚か共らを説き伏せなければならない。聞く耳を持っていればの話だ。彼らは対話することもなく斬り掛かってくるのが大半だった。こんな夜更けに森の中に来るのならば、間違いない。残滓を拾って金に変える盗賊だろう。
「いい気分だったのに。最悪」
「嵐、落ち着け。話が通じる奴らかもしれないだろう」
「本気で言ってる?」
「いや、全く」
嵐は笑った。
人数は二十人程度。武器を持つ耳障りな音もする。あの、瓶の不快な音も。忌避の子が作っているという、六角形の瓶。それに詰めて、蓋をして、売って、金を得る。浅ましいことこの上ない。
「あの瓶、全部壊すまでここ退かないから」
「安心しろ。俺もそのつもりだ」
飛雨が剣を突き立てた。
その地面がじわりと濡れ始める。
「警告する」
飛雨が声を張ると、足音がぴたりと止まった。
「こちらはアダマス。これ以上近づくようならば、気象空挺団の許可証を見せろ。見せるものがない奴は──一人残らず対処させてもらう」




