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「言ってごらんなさい。アレンを叱ってあげましょう」
にやりと笑う口元に、嵐の手が伸びる。
「!」
ふに、と上唇に人差し指が触れた瞬間、カルラは一瞬だけ強張ったが、すぐにくすりと笑った。
「ん? どうしました?」
「いや。手が勝手に」
「そんな馬鹿な」
「……口を取ろうとしたのかもしれない」
「怖いこと言わないでくださいよ」
カルラが嵐が起き上がるのを助けるように手を差し出す。
その手を無条件に取ろうとした自分の右手を、嵐は思い切り叩いた。止めることに成功し「ふう」と息を吐いて身軽に跳ねるように起き上がると、カルラが腕を組んで観察するように見ていることに気づいたので、首を横に振る。
「なんでもない」
「嘘ですよね?」
「うん」
「……素直ですねえ。アレンに何を言われたんです?」
嵐は頷く。
「恋の話と、愛の話」
「おやまあ」
カルラは、ショールを抱き寄せるようにしてクスクスと笑う。
「大丈夫でした?」
「なにが?」
「いえ、恋の話の方」
「シュナが飛雨を好きなこと?」
「はい」
「? 大丈夫だけど」
なんで? と首を傾げる嵐を、カルラは「そうですか」と黒眼鏡を押し上げる。
「びっくり、しました?」
「うん。全然気づかなかったから」
「だと思いました。気まずくは?」
「ない」
「あなたらしいですね」
カルラは軽やかに頷く。
「愛の話の方は──どうします?」
アレンが自分に何を話したのか察しているらしい。
当たり障りなく聞いてきたので、嵐も同じ温度で答える。
「アレンは、話し合ったほうがいいって言ってた」
「彼は意外とまともなんですよねえ」
「最初からまともだと思うよ」
「そうですか?」
「カルラよりは」
「ふふ。ひどい」
ひどい、とは思ってもいないように優しく笑う。
嵐は顔を見ぬように船首に視線を向けた。
「カルラは変な人。王子様なのに国を捨てて、瞳を捨てて、逃げてるし」
「何も捨てていませんよ」
「わたしが脅したから」
「──飛雨をたすけて、と?」
おねがいだから、と、初めて人にそう言った。
彼の瞳を持ち、受け入れろと脅したことは間違いない。嵐にとってはあれが最初で最後の懇願だった。
それをカルラは受け入れたのだ。
嵐以上の、覚悟を持って。
「……あなたとヒューを連れて船に乗る前に、リシマに火をつけたことを覚えていますか」
どこまでも静かなカルラの声に、嵐は頷く。
三人でも弔うことができないだろう大量の腐敗したそれを前にして、最後にできるのは燃やしてやることだけだった。
カルラは二人に了承を取り、火を放つと、嵐の渡した瞳を使って風を呼んだ。
燃え上がる。
ふくよかな緑に囲まれ、清浄な水が流れる水路が巡らされた美しい島はあっという間に炎に包まれた。
その光景を、嵐と飛雨は手を繋いで見ていた。
王様の旗の船から、じっと見ていた。
「その時に決めたんです。あなたたちを生かす。そのために、生きると。あなたから脅されたからではないし──あれは、脅しにはなっていませんでしたから」
大人だ、と思う。
こういうとき、カルラは間違いなく大人だ。
嵐は船首に向けていた視線を、遠くを見ているカルラに向けた。
「がんばって脅したのに」
「もう少し練習が必要ですね」
「わかった」
嵐は無表情のままこくんと首を縦に振った。
また、彼は大人の顔で笑う。
「カルラは」
「はい」
「わたしを愛しそう?」
「愛していますよ」
他意のない笑みが返される。
「私は、この船の全員を愛しています」
「うん。知ってる」
「ですよね」
「じゃなきゃアレンを迎えに行かないし、リストを助けに行かないし、シュナを迎え入れたりしない」
「はい」
全てが彼の大きすぎる愛だ。
その博愛は、彼の育ったものの環境によるものなのかもしれない。王族として、あるべき教育を施されたのだろう。
民を愛せ、と。
規模が大き過ぎるが、彼の悲しみや愛情は、その深い場所から湧いてきているらしかった。
しかし、きっと知らないのだ。
嵐はそのふざけた黒眼鏡の奥の瞳を捕まえるようにじっと見つめた。
──心を超えて愛し合う。
水輝が言った言葉の意味を、今彼に伝えたとしても理解できないだろう。
飛雨の両親の清らかな愛を、彼は見たことがないのだから。
「そっか。知ってるのはわたしと飛雨だけ、か」
「何がです?」
「ううん。こっちの話」
「……へえ。そうですか」
一瞬声が低くなったカルラが、空を仰ぎ、自嘲する。
「失礼しました」
「? なにが」
「いいえ。なんでもありません」
「そう」
話は終わったとばかりに先に歩き始める嵐を、カルラは呼び止めた。
「ラン」
「?」
「……あなたの、好きなように生きてください」
いつもの言葉を、嵐はくすぐったそうに受け取る。いつもの彼女らしくない、可愛らしい笑みだった。
「それも、知ってる」
カルラは、何も言わなかった。




