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子どもがいる、という言葉を聞いた途端、飛雨は欄干を飛び越えていた。
嵐が覚えているのは、飛んだあとに見えた飛雨の黒い髪だけだ。
反射的に追いかけようとしたところをカルラに止められた嵐を追い越したのは、豊かな髪だった。
アレンがひらりと飛ぶ。
──着地だけ任せた。おまえたちは、あの子を迎えに行って。はやく!
カルラは風を呼び、彼らを無事に着地させると、スピードを上げてリシマへ向かった。
強風が吹きすさむ中、操舵室に戻るように言われても、嵐はカルラのそばを離れなかった。
恐ろしかった。あれから初めて飛雨と離れて、身体が震えていた。心はなんとも思っていないのに、身体だけがガタガタと震える。
何が恐ろしいのかわからない。
カルラが丁寧に説明してくれたリシマ殲滅の顛末は、すでに幼い九つの身体で受け止めていた。
嵐が考えているのはただ一つ。
カルラが心を寄せて助けたいと願う少年は、生きていてくれるだろうか。
それだけだった。
だというのに、身体は震え続けていた。
「え。そうだったの?」
シュナが驚いたように聞き返すと、アレンが「そうそう」と優しい声で続ける。
「カルラはびっくりするし、ランまで落ちようとするし、とりあえずオレが追いかけて」
「えっ」
「カルラの風で着地したから大丈夫。あいつ丁寧だからね、怪我一つなかったよ」
「そっかあ……」
心底ホッとしたようにシュナが胸を撫で下ろす。
「で、ヒューが自分に雨を降らせてシュナを救出するのを待って、二人を連れて人気のないところまで逃げて、アダマスが戻ってくるのを待機──してる間に、カルラとランはリストを取りに行ってた」
「と、取りに」
「うん。だから実質何もしてないのオレだけ」
アレンの軽い言い方に、シュナはくすくすと笑って「そんなことないと思うよ」と補足した。
「アレンさん、ずっとそばにいて歌ってくれてたじゃない」
「ヒューにはうるさいって言われたけど」
「ううん、あれで落ち着いたと思うなあ。震えてたもの」
「あいつ可愛い所あるよね」
そうだねえ、とシュナが優しく頷く。
シュナの声は、心地良い。
この穏やかさが、可憐な声が──すべてが、強張った何かをほぐしてくれるようなあたたかさがあった。
嵐は手を繋いだまま、日差しを浴びながらやわらかな眠気に身を委ねる。
「ヒューはね、初めて会ったときより、今のほうがずっと可愛い」
「……そっかあ」
「そうそう。あいつランにべったり張り付いて常にカルラを睨むからさあ。オレはあいつの眉間を揉む担当だった」
「お、怒られなかった?」
「怒られた」
「だよねえ……」
「でも、いつの間にかあんな感じ」
あんな、というのは、みんなの世話を焼いていることだろう。
嵐は料理ができなかったし、王子であったカルラは「料理する」という概念がなく、同じくアレンも「お腹が空いたら出てくるもの」と思っていたところがあった。不幸だったのは、その三人が栄養にも味にも無頓着だったことである。嵐は元々野生児だったが、王族のカルラまで「腹に入れば同じ」という食への執着のなさで、踊り子だったアレンは「とりあえず食べておけば問題ない」という投げやりな考えの持ち主だった。
もそもそと食べ続ける干し肉と硬いパン。
あるのに使われないキッチン。
いつだったか、飛雨が「港に寄れ」と怒りに染まった顔で言ってからというもの、飛雨が一手に食事を請け負うようになったのだ。
「だからシュナが来てくれて助かったよ。ほら、オレ壊滅的だから。もう入ると叱られるよ。全力で」
「アレンさんが手伝わないわけがあったんだね……」
「そうそう──ね、ラン」
「……あ、寝てるっぽい……?」
「自由人だなー」
アレンが笑うと、シュナは嵐を気遣うようにそっと手の甲を柔らかい指で撫で、手を放した。
「あのさ、シュナ」
「なあに?」
「眠れなくなったときにヒューを頼るの、全然悪いことじゃないよ」
「……そうかな」
「そうそう。悪いって思ってる方が、ヒューに失礼だね」
「うう、耳が痛い」
「ランはラン。ヒューはヒュー。シュナはシュナ。この船で気遣ったりするのは無駄。何かあればオレに言いな。オレだと平気でしょ。ほら、あんまり聞いてないから」
「……ちゃんと聞いてくれてると思うけどなあ」
心を許しあった朗らかな会話の先に、アレンの微笑みが乗った。
「シュナがヒューを好きなことだって、悪いことじゃないよ」




