21
「嵐」
カルラがすれ違いざまに飛雨の肩を叩いて行くが、それでは彼の怒りは鎮められなかったらしい。
いつもの無表情が懐かしく感じるほど、その顔は冷たい。
「呼んだな?」
「……」
「なぜ呼んだ」
「……」
嵐は居心地悪そうに視線を外そうとした。が、顎を掴まれてしっかり視線を合わさてしまう。
「俺との約束は」
「……守る気はある」
「家族のみんなとの約束は」
「……」
守る気は、ある。
それでも、カルラに言われたように「遠雷のせいにしてはならない」と思った嵐は口をつぐむしかない。
察したように、飛雨は顎から手を離した。しかし、その手は頬に当てられたままだ。
「嵐の子であるお前が、天恵である青嵐を呼び出せることが知れたらどうなるか、わからないわけじゃないだろ」
「殺されるね」
「物騒なことを言うな」
飛雨の親指が頬を撫でる。
「もう呼ぶな」
「……」
「嵐」
「約束できない。みんなとの約束も、飛雨との約束も、守りたい。でも、守れないかもしれない」
嵐が視線をそらして足元を見てぽつぽつと言うと、飛雨は黙り込んだ。
「……飛雨」
「ん」
「怒ってる?」
「怒ってる」
怒ってるか、と嵐は繰り返す。
青嵐の名前を口にしたのは七つのあの日が初めてだったが、こうして呼ぶのは四度目だ。
リストを連れ去ったときと──赤船を沈没寸前まで追い詰めたとき。
それぞれ仕方なく呼んだが、そのときは叱られなかったことを思えば、今回呼んだのはただの苛立ちであると見抜かれているからだろう。
「もう呼ばないでくれ」
自分の感情で、力を振るわないでくれ。
そう飛雨が言っているのが、痛いほど伝わってくる。
後悔するならいい。しかし、後悔しなければ、際限なく限界を超え続けてしまう。それがどれほど恐ろしいことなのか、飛雨はわかっているのだ。
シトリアの醜さを、彼は怒りを通り越して憐れんでいる。
整理された頭のなかで、瞳を独占したあの国を憐憫に満ちた目で見ているのだ。
その黒い瞳で。
「嵐のことが知れ渡ったときには、俺はこの国に雨を降らせ続けるよ」
「それはだめ」
嵐が睨みあげる。
それでも、飛雨の目は本気だった。その左目の下の傷が疼いているように見える。
本当にやる。
飛雨は、この広大なシトリア国の全域に雨を降らせて沈める。
そんな未来が嵐にはっきりと見えるほど、黒く染まる瞳は本気だった。
「だめ」
そんなことはだめだ。
絶対に駄目。
リシマの血脈が絶えて数年がたった今〝天恵の子〟という概念は薄れつつある。
もし、まだ存在すると知られたら──なにもわかっていない〝常闇の瞳〟のことを知られたら──
「そんなこと、絶対にしないで」
「だったら、嵐もするな」
「……脅してる?」
「嵐が、俺をな」
飛雨は一歩も惹かない。〝嵐の子〟が存在することは、この船以外は誰も知らない。
目をつけられて困るのは、嵐も同じだった。息を吐きながら、観念したように視線を落とす。
「苛々して呼ぶことは、もう絶対にしない」
「……」
「死ぬほど危ないときにしか、呼ばない」
「嵐」
「呼ばない」
「よし」
頬にあった手がようやく離され、手が嵐の目の前に差し出された。小指だけを立てた飛雨が「ん」と懐かしい〝約束〟を促してくる。
嵐は面食らったようにその指をまじまじと見た。
「……するの?」
「しろ」
幼い頃にしたっきりそのそれを、飛雨は本気でやろうとしているらしい。そういえば、初めてした約束も「青嵐を呼ばない」だった気がする。代わりに呼ぶのは「飛雨」だと、そう約束した。
「代わりに呼べ。いいな」
「……ふ」
「言っておくが、説教はまだあるぞ」
「うん」
飛雨の小指に、自分の小指を絡ませる。
昔はあまり変わらなかったはずの手が、ずいぶん大きくなった。ゴツゴツとしていて、妙な感じだ。
嵐は無表情の中にもやや複雑そうな目をして、飛雨を見上げた。
「大きくなったね」
「俺は子どもか」
「カルラともさっき話したんだけど、リストってもう十四才なんだって。大きくなったよね」
「……ふうん」
指がパッと離される。
嵐は不思議そうに首を傾げて、そのまま尋ねてみた。
「飛雨。この船、好き?」
「……は?」
「いや、カルラが、飛雨に嫌われてるって思ってるから、そんなことないって言ったんだけど……カルラのこと、好き?」




