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落ちて二秒。
頭から落下する嵐の腕が、ぐいっと引っ張られる。
「!」
飛雨だった。いつもよりも若干機嫌の悪い顔をしたまま、じろりと睨まれる。掴んだ腕を引き寄せられて、頭をぎゅっと抱きすくめられた嵐は、飛雨の肩越しに見えるアダマスの船底を見ていた。
レモンのようなそれは、欠けたお月様のようだ。
船を見つめる嵐の髪が、飛雨の腕の間から空へはためく。
「あったかい」
嵐がぽつりとこぼすと、飛雨の腕の力が強くなる。
「あんな高さから落ちたら寒いの当たり前だ。一人で落ちるな」
一人で落ちるな、という言葉は比喩なのか、それともそのままの「船から落ちるな」なのか、嵐はぼんやりと考えてみたが、わからなかった。
飛雨の背中に手を回し、とんとんとあやすように撫でる。
「わかった。次からも、一緒に、ね」
「……とりあえず、着地は任せた」
「カルラが気づいてくれるといいんだけど」
「本当になあ」
あの無表情でため息を吐いていると思ったらおかしい。嵐は少しだけ笑い、それから手をそっと地面に向けた。
できれば使いたくはない。
それでも、飛雨の頭を割ることだけは避けなければ。
「……──」
「! 待て、嵐」
突風が、二人を包む。
落下するスピードは徐々に落ち、地面に優しく降ろされた。周辺をふわりと風が駆け抜けていく。さわやかで、それでいて透き通った爽やかな風。
「間に合ったか」
飛雨が空を見上げる。小さくなった船に向かって「あいつ〝神渡し〟使ったな」と呆れながらも、その顔には確かに「助かった」という安堵が広がった。
神渡し──カルラが使う、最も神聖な風。
嵐はアダマスを見上げて船長に感謝すると、すぐに周囲を見渡した。
「あった」
森の中に、球体がピタリと静止している。
内側から穏やかな紺碧の光を発し、透明な外殻がキラキラと輝いていた。
「飛雨」
「ああ──こっちも間に合ったようだな。他の馬鹿共が来ないように、展開しておく」
「少なくていいから、無理しないで」
「わかってるよ。〝霧雨〟」
飛雨の声が、ぼわりと周囲に響く。その低い声に呼応するように、天からサラサラと薄い雨が降り出した。
「行って来い、嵐」
とん、と背中を押されて送り出された嵐は、細かい雨の中、球体に向かって静かに歩く。飛雨の雨は、どこか懐かしい匂いがする。土から香るほのかな朽ちたにおい。むせ返る緑のにおい。生命が、雨を求める歓喜のにおい。両手を広げて踊りだしたくなるような、愛に溢れたにおいだ。
飛雨の雨を浴びる球体もまた、喜ぶように震えている。
森の中。
ただ静かな雨の中。
その神々しい球体のそばに、片膝をつく。
内側でぐるぐると回り続けていた薄雲が、ゆっくりとまとまる。黒い粒はそれに吸い込まれ──球体にヒビがぴしりと入った。
パリ、と。
微かな音が、眠る森に響く。
飛び立つ鳥たちが、夜空の向こうへ必死に逃げていく。
球体の外殻が、ほろりと崩れた。溢れた紺碧の光の粒が、地面に広がっていく。嵐は微動だにせず、待っていた。やがて周囲の地面が光で埋め尽くされ、その姿がはっきりと現れるのを。
大蛇、と人は呼ぶ。
しかし、鱗で覆われているその細い体は、奇跡のように美しい。半透明の鱗は夜空色に煌めき、透明な鱗に覆われた神秘的な目は月光を宿している。
嵐は腰の剣をそっと引き抜き、剣の先を自分の身に向かうように置くと、すべてを見通す目を見つめ返した。霧雨が二人の間に散らばる光を優しく跳ね返す。
「──天恵、夜雨お帰りください」
深く俯く。
あとは、ただ待つ。
嵐ができることはこれだけだ。
天から落ちてきてしまった天恵に、大地で暴れる前に帰ってもらうために、礼儀正しく頼み込む。
彼らが暴れてしまえば気象空挺団が制圧にくるし、暴れる前に他の野蛮な船に見つかれば無惨な方法ですべて剥がし奪われてしまう。
どちらにしても天恵は死に、その骸がまだ他の天恵を殺すための力にされる。
早く。
誰にも見つからないうちに、早く。
心を押さえつる嵐を、何かが撫でた。
顔を上げると、大蛇の体の上に、白い服を着た小さな子どもが立っていた。光でできた薄い幻影は飛雨の霧雨に濡れることなく、ててててと体を軽やかに走ってくる。大蛇の口が開き、舌で道を作るように──嵐の右の頬まで伸ばされた。
「……」
子どもの小さなふっくりとした手が、嵐の右目を隠した張り付いた前髪をちょんとつまむ。
足元で紺碧の光が満ちる中、蜂蜜色の瞳の輝きが、呼応するように底から浮かぶように増した。星の瞬きをじいっと見つめた幻影は、にこりと微笑む。
『リシマの民よ──その目を隠して頼んできたおまえに報いよう。送ってくれるかい?』




