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アダマスの船旗  作者: 藤谷とう
嵐の子
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 船が浮かぶ。

 空に、浮かぶ。


 ゆっくりと、しかしカルラにしては焦った速度で上昇していく。

 船首にリストと立つ(ラン)は、再び閉じる羽と活気づくエトライの港の様子を見下ろした。

 何も知らぬ人々の頭と露天のテントが小さくなり、港町が一枚のくすんだ布のように見える。



「──〝烈風(れっぷう)〟」



 カルラの声が、無音のなかで響く。

 耳の閉塞感は、その風の苛烈さを示しているようだった。


 ここまで強い風を使うのは珍しいが、球体は毎秒少しずつ膨らみながら落ちてきている。この風でも海際まで連れて行くのが限界だろう。雷に風を当ててしまっては、リシマと同じ事が起きる。外殻が割れ、彼らが落ち、何もかもを潰す。

 一見変わり映えしない雲の上では、吹き荒れる風が丁寧に天恵の軌道を変えるために吹いていた。

 

「上、どう?」


 リストが繋いだ手に力を込める。


「海には出られそう」

「わかった」


 リストは落ち着き払っていた。自分の感情を飲み込んだあとの泰然とした姿は、寛いでいるようにすら見える。

 嵐は無表情を少しだけゆるめた。


「きっと喜ぶだろうね」

「なにが?」

遠雷(えんらい)

「なにそれ」

「リストの呼ぶ雷はいつもきれいだから。雷はみんな気難しいのに」


 ただ思ったことを言葉にした、という軽さに、リストは小さく笑った。


「ランって変わらないね」

「?」

「初めて会った八年前と、全く変わらない」

「そうかな?」

「僕を恨む目、してない」


 リストも、思ったことを口にした、という軽さだった。

 嵐は優しく目を細める。


「恨んでないからじゃない?」

「だろうね。でも、最初は怖かった。ランの右目に気づいたときは、息が止まるかと思ったよ。それなのに、本当に僕のことを心配しているからさ」

「それはごめん」

「今ならわかるよ」

 

 リストが無風の船の上でまっすぐに海に視線を向けた。



「わかる」



 天恵が、雲を突き破って落ちてくる。

 海の向こうに。








 間に合った。

 アダマスが一番に遠雷のもとへ駆けつけた。

 海の上数メートルで静止する大きな丸いガラスのようなそれの中は、青白い光で満ちている。

 いつヒビが入ってもおかしくないそれを前にして、アダマスの船もまた、同じ高度で静止する。



「周辺の船への警戒は全員がしています。シュナは自室に。私も邪魔が入らないように見ていますので──二人でお願いします」



 カルラはそう言うと、操舵室の方へと足早に戻って行った。

 信頼されている。

 その安堵の思いが、リストの手から伝わってくる。


 海の上に睨み合うように浮かぶ二つ。

 先に動いたのは、天恵だった。弾けるような閃光が外殻にヒビを入れる。


 パリ、と。

 ヒビが入って一瞬で、弾けるように内側から何かが生まれた。

 海の上に、外殻の残骸が鋭く刺さるように落ちていく。雷雲がぼとりと海に落ち、周辺がパチパチと音を響かせた。

 嵐はリストの手を離し、前へ出る。



 氈鹿(カモシカ)

 雷の天恵は、大きな氈鹿となって浮いていた。


 ずんぐりむっくりとした体が船首に向かい、黄金色の瞳の中にある長方形の瞳孔が、嵐をじっと見ている。

 ピンと立つ三角形の耳の間の黒い短い角からは、苛立ちのような静電気がほとばしる。首元からふわりと膨らむ遠雷独特の青紫色の毛も、同じように逆だっていた。



 嵐は静かに剣を抜くと剣先を自分に向けて置き、片膝をつく。



「天恵──遠雷(えんらい)、天へお帰りください」



 深く俯く。

 これからが根比べの始まりのはずだった。

 しかし、すぐに声が返ってくる。


『帰らぬ』


 硬質な声に、嵐はそっと顔を上げた。

 目の前に皺だらけ厳しい顔があるが、嵐は驚くことなく繰り返す。


「お帰りください」

『帰らぬ』

「遠雷」

『あの街に我々の仲間の肉が売られておる。滅ぼすまで帰らぬ』

「なりません」


 嵐は静かに返した。

 薄く発光する白い老人から目を離さない。

 

「このままではあなたも肉塊となります。引いてください」

『おまえたちが私を殺すのか?』

「いいえ。リシマの瞳を持つものがあなたを討ちに来ます」

『ありえぬ』

「遠雷、あなたを前にして、嘘は申しません」


 嵐はじっと見つめ返す。

 左目の灰色を見た彼は、枯れた手をそっと伸ばしてきた。右顔を隠す髪をそっと拭うように触れる。


『ああ……この目は』


 感嘆の息を漏らすような呟きだった。遠い何かを懐かしむ、久しく会えていなかった家族を思うような悲しみのこもった声。


『リシマの民よ……』

「お帰りください、遠雷」

『……おまえの言葉を聞いてやりたいが、できぬ』

「怒りをお収めください」

『あれを捨てさせねば許せぬ!』

「わたしがやる」


 嵐の言葉に、遠雷の目に迸る稲妻が一瞬消える。

 氈鹿の静電気を帯びた体毛がふっと落ち着いたその隙に、嵐は口を開いた。




「──〝青嵐(せいらん)〟」






 


 

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