18
船が浮かぶ。
空に、浮かぶ。
ゆっくりと、しかしカルラにしては焦った速度で上昇していく。
船首にリストと立つ嵐は、再び閉じる羽と活気づくエトライの港の様子を見下ろした。
何も知らぬ人々の頭と露天のテントが小さくなり、港町が一枚のくすんだ布のように見える。
「──〝烈風〟」
カルラの声が、無音のなかで響く。
耳の閉塞感は、その風の苛烈さを示しているようだった。
ここまで強い風を使うのは珍しいが、球体は毎秒少しずつ膨らみながら落ちてきている。この風でも海際まで連れて行くのが限界だろう。雷に風を当ててしまっては、リシマと同じ事が起きる。外殻が割れ、彼らが落ち、何もかもを潰す。
一見変わり映えしない雲の上では、吹き荒れる風が丁寧に天恵の軌道を変えるために吹いていた。
「上、どう?」
リストが繋いだ手に力を込める。
「海には出られそう」
「わかった」
リストは落ち着き払っていた。自分の感情を飲み込んだあとの泰然とした姿は、寛いでいるようにすら見える。
嵐は無表情を少しだけゆるめた。
「きっと喜ぶだろうね」
「なにが?」
「遠雷」
「なにそれ」
「リストの呼ぶ雷はいつもきれいだから。雷はみんな気難しいのに」
ただ思ったことを言葉にした、という軽さに、リストは小さく笑った。
「ランって変わらないね」
「?」
「初めて会った八年前と、全く変わらない」
「そうかな?」
「僕を恨む目、してない」
リストも、思ったことを口にした、という軽さだった。
嵐は優しく目を細める。
「恨んでないからじゃない?」
「だろうね。でも、最初は怖かった。ランの右目に気づいたときは、息が止まるかと思ったよ。それなのに、本当に僕のことを心配しているからさ」
「それはごめん」
「今ならわかるよ」
リストが無風の船の上でまっすぐに海に視線を向けた。
「わかる」
天恵が、雲を突き破って落ちてくる。
海の向こうに。
間に合った。
アダマスが一番に遠雷のもとへ駆けつけた。
海の上数メートルで静止する大きな丸いガラスのようなそれの中は、青白い光で満ちている。
いつヒビが入ってもおかしくないそれを前にして、アダマスの船もまた、同じ高度で静止する。
「周辺の船への警戒は全員がしています。シュナは自室に。私も邪魔が入らないように見ていますので──二人でお願いします」
カルラはそう言うと、操舵室の方へと足早に戻って行った。
信頼されている。
その安堵の思いが、リストの手から伝わってくる。
海の上に睨み合うように浮かぶ二つ。
先に動いたのは、天恵だった。弾けるような閃光が外殻にヒビを入れる。
パリ、と。
ヒビが入って一瞬で、弾けるように内側から何かが生まれた。
海の上に、外殻の残骸が鋭く刺さるように落ちていく。雷雲がぼとりと海に落ち、周辺がパチパチと音を響かせた。
嵐はリストの手を離し、前へ出る。
氈鹿。
雷の天恵は、大きな氈鹿となって浮いていた。
ずんぐりむっくりとした体が船首に向かい、黄金色の瞳の中にある長方形の瞳孔が、嵐をじっと見ている。
ピンと立つ三角形の耳の間の黒い短い角からは、苛立ちのような静電気がほとばしる。首元からふわりと膨らむ遠雷独特の青紫色の毛も、同じように逆だっていた。
嵐は静かに剣を抜くと剣先を自分に向けて置き、片膝をつく。
「天恵──遠雷、天へお帰りください」
深く俯く。
これからが根比べの始まりのはずだった。
しかし、すぐに声が返ってくる。
『帰らぬ』
硬質な声に、嵐はそっと顔を上げた。
目の前に皺だらけ厳しい顔があるが、嵐は驚くことなく繰り返す。
「お帰りください」
『帰らぬ』
「遠雷」
『あの街に我々の仲間の肉が売られておる。滅ぼすまで帰らぬ』
「なりません」
嵐は静かに返した。
薄く発光する白い老人から目を離さない。
「このままではあなたも肉塊となります。引いてください」
『おまえたちが私を殺すのか?』
「いいえ。リシマの瞳を持つものがあなたを討ちに来ます」
『ありえぬ』
「遠雷、あなたを前にして、嘘は申しません」
嵐はじっと見つめ返す。
左目の灰色を見た彼は、枯れた手をそっと伸ばしてきた。右顔を隠す髪をそっと拭うように触れる。
『ああ……この目は』
感嘆の息を漏らすような呟きだった。遠い何かを懐かしむ、久しく会えていなかった家族を思うような悲しみのこもった声。
『リシマの民よ……』
「お帰りください、遠雷」
『……おまえの言葉を聞いてやりたいが、できぬ』
「怒りをお収めください」
『あれを捨てさせねば許せぬ!』
「わたしがやる」
嵐の言葉に、遠雷の目に迸る稲妻が一瞬消える。
氈鹿の静電気を帯びた体毛がふっと落ち着いたその隙に、嵐は口を開いた。
「──〝青嵐〟」




