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アダマスの船旗の黒い旗がようやく空に映える頃、嵐はいつの間にか眠っていたベッドから身を起こした。
ブランケットを掛けてくれたのはリストだろう。
それを丁寧に畳み、ぐしゃぐしゃな頭のままで部屋から出て甲板に上がる。
風はない。
シュナも起きたらしい、とわかると、船の真横を流れる雲を見て目を閉じ、天を仰いだ。
瞼に透き通る晴天。
真上の太陽が、嵐の白い髪をさらに白く輝かせる。
胸いっぱい乾いた空気を吸い込み、吐き出す。
「……」
ゆっくりと目を開けた嵐は、鳥居の上の船旗を見た。
胸を張る黒い旗。
何にも屈しない、色。
嵐の表情がわずかにやわらぐ。
毎日同じことをしているが、毎日思う。
今日も生きている、と。
「ランちゃーん、おはよーう!」
鳥居の向こうの操舵室から、明るい声が嵐を呼んだ。
窓から顔出したシュナは、持っていたガラスポットを上げる。 どうやら全員揃っているらしい。
「おはよう、シュナ。すぐ行く」
嵐が返すと、彼女は優しく笑った。
「ゆっくりおいでー!」
飛雨の姉に似た寛容さと包容力を持つ、かわいい人。
無機質だった操舵室を植物で緑豊かにしてくれた、愛に溢れた人。
嵐は彼女の笑顔が好きだった。まるで太陽のようで、失ったなにかが柔らかく照らされるような気がする。
こうしていつも、足を動かすきっかけを与えてくれるのだ。
操舵室、とは名ばかりのその建物は、二つの正方形が上から八角形に見えるように積まれている。
一階も二階も窓が広々ととられており、どこからでも周囲を見渡せるようになっているが、中は生活感に溢れていた。
窓下の作り付けの本棚。あふれる観葉植物。
一階には六人が囲める大きな丸テーブルが置かれ、シュナのお気に入りの繊細な細工のデスクや、いつもアレンが座るやたら優美なゆったりとした籠の椅子、リストが寛ぐ二階から吊るされたハンモックに、飛雨の聖域であるキッチンがある。
吹き抜けになった開放的な二階は、幾何学模様の美しい絨毯の上にカルラのごろ寝ソファと、みんなが持ち寄ったいくつものクッション。丸い天窓を見ながらぼんやりするためだ。
みんな同じだった。
カルラのそばは、落ち着く。
「……あっ! 昨日も髪ほどかないで寝たでしょー!」
入ってきた嵐に気づいたシュナがガラスポットをテーブルに置くと、本を読んでいたたリストが自分のカップにお茶を注ぎ、アレンはしれっと自分のカップをリストのカップの横にすべらせ、自分の分も注いでもらう。
いつもの光景だ。
「もう。せっかくきれいな髪なのに。ほら、こっちきて」
「このままでいいよ」
「絶対良くない。ほら。ランちゃんの椅子に座って!」
ただの木の椅子だが、街に降りた嵐が珍しく「これ、いくらかな」と値段を気にした椅子で、シュナとカルラがすぐさま店主に持っていき、購入したものだった。
シュナがブラシを持ち、椅子に嵐を座らせる。
「ほどくよ。少し痛いけど」
「我慢する」
嵐の返事を、アレンが「ふ」と笑う。
毎日見ている光景を、毎日微笑ましそうに見るのだ。
髪を梳く細い指が、優しく頭にふれていく。
シュナの優しさを浴びながら、嵐は目を閉じた。
ぺら、と髪をめくる音はリスト。
カップを持ち上げるかすかな音はアレン。
奥のキッチンでは、飛雨がみんなの食事を用意している音がする。
ことこととルス麦と乾燥豆を煮る、ほんのり甘い香りが漂ってくる。
「ヒュー、食料って、どうです?」
カルラが二階から降りてくる規則正しい音も、嵐の耳に届く。
「あと一週間はもつ」
「わかりました。港に寄りましょう」
即決したカルラに、誰もが笑う。
飛雨の「もつ」は、自分は食べない想定のときに出てくる言葉だからだ。
船が、ゆっくりと進路を右に変える。カルラの風による緻密な運航は異様なほど丁寧で、シュナの観葉植物も本も落としたことがない。
「カルラさん、港って、もしかしてエトライの港?」
「はい。できればシュナも降りて荷物持ちをしていただけると助かります」
「わかった。じゃあランちゃん、今日は三つ編みを後ろでまとめていい?」
「うん。ありがと」
「どういたしまして!」
なつかしいなあ、とシュナが呟く。
無意識で出てきたであろうその言葉に、誰も反応しない。
リストは本を読んでいるし、アレンは「オレはおりない」と宣言し、カルラは「降りてください」と交渉して、飛雨はルス麦と豆のスープの味付けをしている。
嵐は、ご機嫌なシュナの指先の優しさに目をそっと瞑る。
生きている。
みんなが、今日も。
アダマス。
黒い船旗を掲げる、天恵を天に帰すことを目的とした、逃亡船。
乗船員が皆死んだことになっているこの船の中には、午後の日差しのように穏やかな空気に満ちながら──船は、空を飛ぶ。




