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幼い子どもの目に〝瞬きの瞳〟はなかった。
リシマの民であった母親は、その目を見て病んだそうだ。
リシマの民はシトリアと長く交流があった。
王都の祭事に呼ばれ、天恵の力を借りて軽い雨を降らせるのだ。
着飾った大人たちが迎えの船に乗っていくのを、嵐も飛雨も誇らしい気持ちで見送る中、船が海を渡る。
当時、そこで見初められた若者たちが、シトリアの貴族の家に入ることも多かった。
三百はいた島民は、嵐が生まれた頃は百まで減る。
リシマはみんなが家族だった。誰も島を出ていく者を責めなかったし、喜ばしく見送った。
そうして見送られた一人が、嫁ぎ先で子を宿した。
王家に連なる貴族の家だったという。
彼女が産んだ子が〝瞬きの瞳〟を持つと信じて疑わない家族から厚遇され、期待され、彼女自身の心に変化をもたらした。リシマで素朴に育った彼女が、尊敬の目を、敬愛の目を、畏怖の目を快感のように体内に蓄え続けたのだ。肥大した自尊心が膨らむ中で腕に抱いた子の瞳が、ただの白緑色だったときの絶望は、どんなものだったのだろう。
彼女は病み、子供ほ姿を見るのも嫌がった。
ところが、彼が三歳──話せるようになった頃。
彼は大人の目を盗み、庭を横切る母親を追いかけた。
必死に自分を呼ぶ拙い声に、彼女が冷たく言い放つ。
──天恵も呼べないのに、私に近づかないで。
そう言うと、彼女はガゼボの中で、自分の力を示すように呼んだ。
──お応えください〝新雪〟
ガゼボの上だけに、チラチラと雪が降り、積もる。
リシマから離れて数年。
徐々に降る範囲も、雪の量も少なくなっていることに薄々気づきながらも、彼女は毎日呼んでいた。それが彼女をこの世に立たせていた。
子どもがにこにこと空を見上げ、母親の降らせた雪に喜んでも、彼女は自分の雪しか見ない。
だから彼は真似たのだ。
純粋な心で。
しかし間違って呼んだ。
──〝しゅんせつ〟
どっと、雪が降る。
屋敷一体を白く染める春雪が、ぼとぼとと音がしそうなほどに、天から勢いよく降ってくる。
彼女は理解できなかった。
四季の天恵を呼べるのはお社の家の者だけだというのに、彼女の息子は軽々と呼び、そして天はそれに応えたのだ。
彼女はよろよろとガゼボを出た。
生まれてきた息子を初めて見たときのような感動を茶色の〝瞬きの瞳〟に灯しながら、愛おしい気持ちが都合よく溢れる。
真っ白な景色に膝をつき、彼女は息子を抱きしめた。
そうして言ったのだ。
──もっと呼んでちょうだい。もっと。もっとよ!
彼は呼べた。
雨も風も雪も。嵐だけは呼べなかったが、それでも母親は褒めた。抱きしめて、彼を愛おしそうに呼んだ。
ああ、小さな私の天恵、と。
嵐は夜明けの窓を見つめながら、最後まで自分の名前を読んでもらえなかったリストを想った。
彼の無邪気な呼びかけが王都を未曾有の災害で包み込んだとカルラから聞いたときと同じように、想う。
言葉にならない、ただ案じるような気持ち。生きていてくれるだろうか。そんな、同志のような、気持ち。
彼の母親は、カルラが〝遠見の瞳〟でも探し当てたときに彼をきつく抱きしめながら言ったそうだ。
──この子を欲しがるリシマの民が、王都を襲っているのです。瞳を持たずに天恵を呼べる特別な子を、彼らが自分の島に取り戻したがっている。彼らの仕業よ。彼らは王都を滅ぼそうとしているのよ。
その絶叫は、至る所に届いてしまった。
それから一年で、リシマは滅ぼされる。
瞳を持たなかったリシマの民の子孫が天恵を呼べると知った王が、隠れていた全員をかき集め、船に乗せ、決行されたのだ。
民を守るために怒りとともに上から降ってくる天恵を、リシマを離れて生まれてきた〝瞬きの瞳〟を持たない彼らが迎え撃つ。準備された一年の成果を存分に発揮するように。
雨は雷に、雷は風に、風は雪に。
落とされる天恵。
潰されるリシマの民。
瞳を奪っていったのは、船に立つ母親に抱かれ、ただ言葉を繰り返したリストの一声だったそうだ。
──いのちなきもののひとみを、おかえしします。
ぽろぽろと落ちる瞳。拾いまわる兵士。
嵐が見なかったはずの光景が、頭の中に流れる。
何も悪くない。
誰も悪くない。
そう思わなければ、耐えられない。
嵐の瞳には、朝焼けのやわらかな光が差し込んでいる。




