第二十九話 数日前
村の上には、今にも落ちて来そうなほど低い曇があった。
旅支度を済ませた俺は小屋の戸に手を掛け、一度中を確認した。
おそらくは彼女も王都に呼ばれ、そして勇者の旅に同行することになるのだから、この小屋を使う者は誰もいなくなる。
出入りする戸は最初からガタついていて、彼女は煩わしそうにしていたが俺が使えないこともないから、と言ってついに修理することはなかった。
囲炉裏を囲んで彼女と話をした。それは剣のことや村のこと、彼女の家族のこと、本で読んだこと、いつか行ってみたい場所のことだった。
壁に取り付けられた棚には、几帳面に整頓されて食器類が収納されている。彼女の性格が良く出ていた。料理は最初こそ俺がやっていたが、暫くすると彼女の独壇場になった。
机上の小さな壺の中に花が活けられていた。普段は物の実用性ばかりを気にする彼女が取って来たもの。森を探索していた時に偶然見つけた花畑で、滅多に見せない微笑みを振り撒いていた彼女を覚えていた。
「…………行くか」
荷物を担ぎ直した俺は、戸をそっと閉めた。
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畑と田んぼに囲まれ堆肥の臭いがする村の道を過ぎ、山を下った。
平地を伸びる街道を通り、最も近い町に着いた時、
「――ん? ねぇ! そこの貴方!」
最初、俺に声を掛けているのだと気付かなかった。
「この前会ったわよね!」
顔を上げて見れば、そこには赤毛の少女が立っていた。
「……ああ、どうしたんだ、エマ。こんなところで」
以前、旅をしていた時に会った勇者を名乗る少女。
茶色の外套に身を包んだ彼女は、一度話をしただけの俺のことを覚えていたようだった。
「ちょっと色々あってね! ……そうねぇ、立ち話もなんだしご飯でもどう?」
彼女は僅かな時間考え込むように腕を組んだ後、近くの酒場を顎で指した。
俺は誰かと食事をするような気分じゃなかった。しかし、
「奢ってあげるわよ!」
「いや、俺は……」
「ちょっとご飯食べるだけよ! 腹が減っては旅は出来ないわ!」
結局エマに押し切られるようにして、二人で飯を食べることになった。
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酒場は混んでいた。カウンター席に並んで座り、厳つい店員に注文をする。
エマが酒を注文した。この世界では普通のことだが……。それを一瞬咎めるか迷った後考え直し、俺自身も酒を頼んだ。
剣神の加護を失った今なら、酔うことが出来るかもしれない。
「でね、聞いてよ」
注文を終えたエマは俺の肩をばしばしと叩いた。
「例の男の子を探して山の上の村に向かうつもりだったんだけど、剣聖が見つかったから王都の教会に戻れって言われたのよ。最悪よね!」
「…………」
「けど、やっと旅が始まるわ。……楽しみね。きっと、とても素晴らしい旅になるわ。勿論、傷つくこともあるでしょう。残酷な仕打ちを目にすることもあるかもしれない。それでも、冒険することに、望む未来を自分の手で掴むことには美しさがあるわ。パパとママのように」
「やめろよ。そんな綺麗なもんじゃないだろう」
夢を語る子供のような目をしたエマに、思わず俺は口を挟んだ。
けれどエマはさして気にした様子もなかった。
「人は何故、勇者の物語に憧れると思う? 彼らが心に従って動いているからよ。だから輝くの」
机に肘を載せて、組んだ手の上で頭を傾けたエマはこちらを見た。
「魔王を倒す冒険なんて、最高じゃないの。心躍らない?」
「……いや、別に」
何となく、この少女とは根本的に分かり合えないのだと思った。
第一、心が躍るかどうかじゃなくて、きちんと頭を使って考えるべきだ。
「じゃあ、頭を使って、貴方の言うところの合理的な判断を下して、それで……その先に何があるっていうの?」
「さぁ。でも、死んじまったらそれを確かめることも出来ない」
「ほんとはこうしたかったのにって、私は後悔したくないの。貴方はそんな生き方をして、後悔したことないの?」
「ない訳ないだろ。けど、人生に、後悔の無い選択なんて無い」
「人生を全部体験した訳じゃないのに?」
「一度はしたさ」
「?」
エマは首を傾げ、会話は一度そこで止まった。
カチャカチャと食器の鳴らす音、他の客の喧騒が耳を満たした。
「ところで、貴方はどうしてここにいるの?」
「旅の途中だよ。……遠くに行こうと思ってさ」
「あの子は? 私と腕相撲をした子!」
エマはきょろきょろと辺りを見渡した。その辺にいると思っているのかもしれない。
「あいつはいないよ」
「何で?」
先に運ばれてきたつまみをもぐもぐと口にしながら、エマは尋ねる。
「ちょっと、な……」
「ふぅん?」
「へいお待ち……っと! 誰かと思えば、この前荷物運ぶの手伝ってくれた嬢ちゃんじゃねぇか! ありがとうな」
料理を運んできた店主らしい強面の男は、エマに笑いかけた。
「勇者としては当然よ!」
エマは胸を張って答え、店主はがははと笑った。
しばらくすると、やがて奥で常連らしき客たちと酒盛りをしていた店主が俺達を呼んだ。
明らかに気遣いだと感じたし、気分でも無かったので俺は遠慮した。
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店を出て暫く歩いたところにあった土手に座り、夜風に当たっていた。
頭がどこかぼんやりとしていた。
無事にアルコールが回っているようだったが、人生で初めて感じる酩酊の感覚は、それほど心地良いものでもなかった。
俺は気を紛らわそうと辺りの音に耳を澄ませた。
町の喧騒は遠く、虫の鳴き声の方が近かった。
「何してるのよ。ご飯はもういいの?」
背後から声が掛かったかと思うと、エマは俺の隣にどっかりと腰を下ろした。
「腹減ってなくてさ。お前こそ、大丈夫なのか?」
「別に良いのよ。もう皆騒いでいるだけだったし。それに、一番大事なものは持って来たわ」
エマは片手に持ったボトルをひらひらと掲げた。
持って来たグラスにそれを注いで俺に渡し、彼女はボトルに直接口を付けた。
強い酒だった。
暫くエマも話さず、二人酒を飲んだ。
「ねぇ、私がもし、お姫様だって言ったらどうする?」
「……どうもしねぇよ」
「えぇ?」
エマは困ったような声を上げた。
打ち明け話のつもりだったようだ。
「さぁ、私の秘密を言ったんだから、今度は貴方の番よ! 何があったのか話しなさい!」
「……ああ」
断っても良かった。強引な流れではあったし。
けれど気付けば、俺はここに至る経緯を話し始めていた。
酒のせいなのかもしれないけれど、それよりも俺はずっと誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
剣神の加護のことを隠す意味のなくなった、今だからこそ出来る身の上話を。
「あれ? あなたが剣神の加護を持っていたってことは、……あなたが、あの時の男の子だったってこと!? 何それ、言ってくれれば良かったのに!」
俺が探していた男の子だと知ったエマはそんな風に頬を膨らませていたが、
「……そして俺は、アリアに加護を渡したんだ」
やがて話が終わる頃には、静かになっていた。
俺が口を止めた後も、しばらくエマは何も話さなかった。
夜の土手には、ただ時折吹く風だけがあった。足元の草がさわさわと音を立てていた。
……俺は凡人なりに、出来ることをしたはずだ。
ただ、エマはそんな俺の話をどんな風に聞いたのだろうと思った。
俺は彼女が口を開くのをじっと待った。
そしてやがて、
「…………貴方はどうして、ここにいるの?」
隣に座る彼女はぽつりと呟いた。
俺はその言葉に返事を返そうとして、詰まる。
質問の意図がよく分からなかった。
「何故アリアに加護を渡したの?」
淡々とした声音からは、やはり彼女が何を思って聞いているのかは読み取れなかったが。
けれど今度の質問には答えることが出来た。
「戦うのが怖かったから」
瞬間、目の前の風景が回転し、視界は星空で埋め尽くされた。
数コンマ遅れて、隣に居た彼女に殴られたのだと気付いた。
「――ふざけんなっ!!」
釣り上がった二つの瞳がこちらを睨んでいた。
燃えるような赤毛をした彼女を、俺は土手に倒れたままただ呆然と見上げた。
「どうしてっ、どうしてっ、そんなことが出来るのっ!! あんたがアリアに剣を教えたのなら、あんたの方がアリアより強いでしょう! どうして守ってあげないの!」
剣の実力だけで言えば、そうかもしれない。けれど、剣神の加護を持っていればいずれはアリアは俺を追い越すだろう。それに、何より重要なのは、
「……アリアの方が、剣聖に向いていると思ったから」
アリアは誰かに手を差し伸べることが出来る。戦う恐怖に打ち勝つ強さがある。
だから俺はアリアに任せたんだ。けれど、
「関係ない!! あんたは、ただ押し付けて逃げたの! それでおいて、この世で自分が一番不幸だと信じて疑わないツラしてる! 何かあったのだと思ったわ! のっぴきならない事情が! 助けなきゃと思って声を掛けたけど、とんだ勘違いだった!」
彼女は俺の胸倉を掴み、そのまま持ち上げた。少女の細い腕は、勇者の異常な力で、俺の身体を宙に浮かせていた。
「一度会っただけの私にも分かったわ。あの子は……アリアは、あんたのことを愛していた! あんたはそれに付け込んで、彼女を見捨てたっ!」
家族になるとまで言ってくれた。それがただ長い間一緒に居たからというだけの洗脳に近い環境がもたらした結果だったとしても、親愛の情を持ってくれていたのは間違いない。
でもそれは俺だって同じだ。アリアのことを大切に想っていなかった訳じゃない。
じゃなきゃ十六年も、彼女に渡すべきかどうかで悩まない。
だからこそ、最後の部分は聞き流せなかった。
「! 見捨てた訳じゃっ……」
「違わないわよ! 師弟としてずっと一緒に居たんでしょ!? そんな子に、ある日突然剣神の加護を押し付けて自分は逃げるだなんて、見捨てるのと何が違うの!?」
反論しようと思った。
けれど、口から言葉は出なかった。
彼女の言葉は鋭く、俺の胸を抉っていた。
「ああ違ったわね。見捨てるのよりもっと酷いわ! だって、恩を着せて縛っているもの!! 善良な人間であればあるほど、逃げられないように、ね!!」
「…………」
揺さぶられ、それでも俺はされるがままだった。
だって、彼女の言っていることは全部真実だったから。
俺がもっとまともな奴だったら、こんなことにはならなかっただろう。
抵抗の意志を見せない俺を、エマは苛立ったように一際強く揺すった。
「――――世界を守れなんて言わない、それでも自分の好きな人くらい、自分で守って見せなさいよ!!」
叫んだ彼女が手を離し、俺は土手に崩れ落ちる。
「……がはっ、ごほっ! ………好きな、人?」
呼吸を整えながら思わず聞き直すと、未だ激情を灯した瞳がこちらをぎろりと睨む。
「違うの?」
問われて、しかし答えは既に己の中で出ていた。
すとん、とつっかえていたものが外れるように、唐突に理解した。
「………………いや、合っているよ」
むせたせいで涙で滲んだ視界の中、一つ思い出すことがあった。
「そうだ。そうだったんだ」
十一年前にアリアと将来について話した時、俺が望んだこと。
――可愛い彼女と一緒に暮らして、色んな所に行って遊んだり、本を読んだり、下らない話をしたり、料理を作ってもらったり、そういう幸せで良いんだ。
それ、俺全部もう叶えたんだ。
その時、夜の町を吹き抜ける風が、目の前に落ちていた若葉を攫った。
葉は宙を舞い、かつては蒼かった夜空へと抜けていく。
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「……ねぇ、笑ってよ」
「…………」
「笑ってくれないと、私も笑えない」
加護の譲渡の為に、寝台の上に背中合わせに腰掛けた。
俺の右腕から、彼女の左腕へと紋様が移動する。
絡んだ腕と、触れ合った上体から彼女の体温と鼓動が直に伝わって来た。背中越しに掛けられた声。
「後悔しないで。私は私で、上手くやるから」
ああ、と唸るような返事しか出来なかった俺に、彼女は呟く。
「貴方はこれまでとは全く違う、私が送るものとも正反対の人生を送るんでしょうけど。……一つだけ、お願い。たまにでいいから、私のこと、思い出してね」
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いつからそうだったのかは分からないが、気づいてしまえば当たり前の話だった。
強い彼女が好きで、努力する彼女が好きで、器用な彼女が好きだった。
弱い彼女が好きで、ふざける彼女が好きで、不器用な彼女が好きだった。
俺は彼女のことがどうしようもなく大切だったのだと、離れて初めて気づいたのだ。
そして腑に落ちた途端、胸の奥から渇望が湧き上がる。
彼女の傍に居たい。その髪に触れていたくて、手を握っていたいと。
「……まだ、間に合うかな」
「分からないわ! でも、何かしなきゃこのまま終わるだけ!」
頭の中の冷静な部分が、何を言うのだと慌てている。
だって、今や剣聖である彼女の傍にいようとすれば、否応なしに魔王との戦いに巻き込まれる。
死にたくないからと剣神の加護を手放したことも、全部無駄になってしまう。今までの十六年は何だったんだと叫んでいる。
でも、もううんざりだった。
臆病で、身勝手で、愚かな自分に嫌気が差していた。
きっといつか後悔すると思った。自分のことだけを考えた選択をして、それなのに自分のことを好きになれないで居るのなら、俺は何のためにアリアと離れたのか分からなくなる。アリアにどうしてあんな顔をさせたのかと悔いてしまう。
それなら、ようやく気付いたアリアへの恋心に従った方がずっといいと思えた。
心躍る、というのは少し違うけれど、アリアのことを想うと、胸がどうしようもなく痛くなる。意味もなく涙が出そうになる。誰かに対してこんな強い感情を抱くのは多分生まれて初めてだった。
「彼女は今頃、王都に向かっている頃合いでしょうね。王都の聖堂で魔王討伐のパーティを組むの」
隣の勇者は星を見上げる。
「本来ならその時点で部外者はもう話すことは出来ないのだけれど、何とか私が会わせてあげるわ。その後のことは二人で決めなさい」
そうだ。ずっと一緒に居た癖に、一人で決めたのが悪かった。
二人の未来の話なのに、俺はアリアに何も聞かずに抱え込んだ。
「話をしなさい、沢山。相手が大切ならなおさらね」
今度こそは上手くやりなさいよ、とエマはにかと笑った。
その言葉を噛み締めながら、俺はふと思った。
……どうして彼女はそうまでしてくれるのだろう。
「これくらいどうってことないわよ。お節介を焼くのは、勇者の得意分野なの」
エマは気取ることもなくそう言ったが、俺にとってそれはどれほど大事なことだっただろう。
彼女が怒鳴ってくれなければ、アリアに対する恋心に向き合うこともなく俺はずるずると生きていただろうに。
あるいは。
この少女はひょっとすると今までにもこうやって与えて来たのかもしれない。
空腹な者にパンを。
故郷を追われた者に居場所を。
臆病者に勇気を。
勇気を与える者――勇者。
だとすれば彼女は確かに、英雄に相応しいと思った。
「ありがとう。恩に着る」
俺は胸の内が伝わるように、出来る限り丁寧に頭を下げた。
エマは腕を組んだ。
「ふん。まぁ、背中を蹴られなきゃ踏ん切りがつかないタイプみたいだものね」
「違いない」
剣神の加護の話を初めてしたのが、エマで良かったと思った。
「そうだ。一つ言っておくわ」
何だろう。
自分の身勝手さや愚かさも今は多少は自覚しているつもりだったが、彼女からの忠告ならばしっかり聞いておこうと俺は身構えた。
「貴方はもう少し自分のしたことを誇った方が良い。過剰な自信は確かに毒だけれど、彼女だけじゃなくて貴方に救われた人だって、少なくないはずなの。そのことに自信を持って」
だから予想外の方向性を持った言葉に、俺はぽかんとしてしまった。
「いきなり言われても、今は難しいかもしれない。けれどきっと必要なことよ」
エマは微笑んだ。
「私だって、貴方に命を助けてもらった一人なんだから!」
――そうして、俺はようやく戦う理由を手に入れた。
命を懸ける理由が、好きな女の子と一緒に居たいから、なんて拍子抜け過ぎて過去の自分に言えば困惑してしまうだろうけど。
でもきっと、最初からこれで良かったのだ。
ちっぽけな俺は結局、世界だとか神だとか知らない誰かの為になんて思えなかったから。
好きな子にかっこつける為、なんて丁度良いじゃないか。




