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第50話 誰かさんみたいだったから(1)

 他の人には言わないように、としっかりしっかり釘を刺し、解放されるまでおよそ一時間を要した。


 二人の尋問は一生止みそうになく彼女がうちによく通っているところは無理に吐かされてしまったが、契約のことだけは秘密として断固死守した。くるみが話したくないかもしれないからだ。もし彼女がそこも含めて話しておきたいと言うのであれば、また後日説明すれば良い。


 喫茶を出ればすでに陽は大きく傾き、視界がオレンジに染まる。日没まで猶予がないことは足下に伸びる影の長さが教えてくれた。


「くるみさん怒ってるかなあ……」


 彼女は余程のことがないと怒らない。というか寛容かつ相手を認める努力すら欠かさない彼女のあれは怒った振りみたいなものであり、負の感情を昂らせる姿は見たことすらない。拗ねたり小さく叱ったりくらいはあるが、どれも可愛いものだ。


 今回は事故のようなものなのできっと何だかんだお咎めなしなんだろうと思いつつ、今度お詫びにHARBSのケーキでも買って帰ろうと画策しながら、万一のためにデイパックの底に仕舞って持ち歩いていた合鍵でエントランスを抜ける。


 玄関を開けると、小さなバレエシューズがちょこんと並べられていた。くるみはまだ帰らず家の中にいるらしい。

 制服のネクタイを解きながらそっとリビングの扉を開き、


「ただい、ま——」


 しかし帰宅の挨拶は尻すぼみになって空気に溶けた。


 温かな午後の光の下で、ロッキングチェアに体を預けて眠っている、美しい少女の姿が目に飛び込んだからだ。

 すぅすぅと小さな寝息に合わせて、椅子はかすかに揺りかごのように揺れる。クッションを抱えながら眠る少女の長い睫毛が、まっすぐに垂れた長い亜麻色の絹束が、冬の清らかな日差しを受けてきらきらと光った。


 いつもとは違う隙だらけの無警戒さと可愛らしさに碧は思わず見入った後、気の抜けた第一声。


「……えっと、くるみさん?」


 返事はなかった。


 どう考えたって、何もない部屋で一時間も待たせてしまったせいだ。碧が合鍵を持っているかも分からず連絡も危険だったので、ここにいるしかなかったらしい。


 鞄をソファの上に放り投げ、揺り椅子に近づきまじまじと眺める。誰もが認める日本人離れした清楚な美しさを誇る彼女だが、椅子に座って瞳を閉じていると余計に等身大の西洋人形(ビスクドール)のようだし、普段よりずっとあどけなく見える。それはきっと、起きている間はしっかり者の優等生として振る舞っているからだろう。いつものような完璧であらんとする気高さや凛々しさはどこかへお出かけして行ってるようだった。


 その代わりにあるのはただひたすら、小さな子猫のように守ってあげたいと思わせる清廉な可愛らしさ。毛を逆立てて警戒なんてあったものではないが。


「……はっ!」


 かたん、という年代物な揺り椅子の小さな鳴き声で、碧は我に返る。


 もちろん動揺した。


 咄嗟に湊斗に電話してしまいそうになるくらいには動揺した。


 碧だって男だ。目の前に愛くるしく少なからず好意を抱いている少女が眠っていれば、悪戯(いたずら)のひとつやふたつくらい仕掛けてしまいたくなってしまうのは仕方がない。そもそも男の家でうっかり眠るなんてあまりにも警戒心がなさすぎるのではないか……いや、違う。いつもは完璧に隙をなくしているくるみが碧の家で隙だらけということは、碧にだけ特別に気を許しているということなのだ。


 となれば悪戯で写真を一枚頂くのにも、妙な罪悪感がつきまといそうである。


 ——さて、どうしようか。


 彼女は碧の狼狽や若干不埒な腹の内なんて知る由もなく、穏やかに眠りについている。それを見ているうちに不思議と、碧も徐々に気持ちが静まってきた。


「……くるみさん本当に寝てる? ふりじゃない?」


 もう一度話しかけるものの返事はない。ただ、きゅうっと言葉に満たないような甘美な掠れ声として、喉を僅かに鳴らしたくらいだ。クッションを抱く腕に若干力が込められ、僅かに身じろぎした拍子に華奢な肩口から、さら——と亜麻色の絹糸が零れ落ちた。


 ——可愛いなあ……


 天からの、あるいは雪からの贈り物か。目を離すのが惜しくなるほどだが、それだけいつもは常に周りに気を遣っているということなのだろう。


 そう思うと無理に起こさず、この静謐で穏やかな冬の昼下がりに時計の針を停滞させて、ゆっくり休ませてあげたい気持ちになった。


 もとはと言えば一時間も待たせたこっちのせいだし、と自分に言い訳しつつ、ソファの方に行こうとして……しかし足は言うことを聞かなかった。どころか名残惜しさで振り返り、端正な目鼻立ちに再び見入ってしまう。


「……」


 そして碧自身も我知らずなまま椅子の前に(ひざまず)き、思わず右手を伸ばして——柔らかそうな頬に指をすべらせていた。


 ミルクのような白磁の頬は見た目以上に柔らかく、ふにふに、とゆびさきに(たえ)なる心地を伝えてくる。絹布のようになめらかで白玉のようにもちもちとしたそれは思わず耽溺してしまいそうになるほど気持ちがよく、碧はもはや夢中になりながら人差し指でくるみの輪郭をゆっくり縁取るように動かしていく。


 癖になりそうだった。更にもう一度、ぷにっと優しく(つつ)いたところで、しかし碧ははたと手を止める。


 ——いや何やってるんだ僕。さすがにやばいでしょ。


 今後二度と出会(でくわ)さないであろう珍事を本当はもっと堪能したかったが、悪戯はこの辺にしておかないと万一起きれば嫌われかねない。だからこれで最後と決めたひと撫でをしたところで、

「んぅ……」


 くるみが甘い掠れ声を鳴らし、ゆっくり焦らすように目蓋を持ち上げた。


 とろん、とまだ夢の尻尾に引き摺られているように潤んだヘーゼルの瞳がぼんやりと開かれ、そのままぽーっと虚空を見つめる。普段の妖精姫(スノーホワイト)の神々しさなど欠片もなく、あるのは先ほどの寝顔に引き続き、ただ幼い印象のみ。まだ半分は眠っているようで、水鏡のような瞳に碧の姿を写してはいない。


「あ……」


 事なかれ主義でさっさと退散しておけばいいものを。碧の最大の過ちは、差し伸べた右手を戻さないままその場に固まり尽くしたことだった。


 くるみは寝ぼけたままの焦点が合わない視界に、耳のあたりにそえられた碧の大きな掌を捉えると——なぜかそこにぽてんと頬を預けてきたのだ。


「っ——」


 まるで人に懐いた子猫が甘える頬擦りにも似た仕草に、ばくばくと鼓動が(うるさ)く高鳴った。

 碧が虚を衝かれている間もくるみは終始ぼんやり。掌全体に伝わってくるのは、くるみの頬のひんやりした体温と瑞々しさ。垂れた細い横髪が碧の掌と頬の間で弛み、さらりと指に絡みつく。温かな吐息が手首に掛かり、くらくらする。


「くるみさん!!」


 さすがにこれは(まず)かろうと碧が名前を呼ぶも虚しく、手入れの行き届いた柔らかな栗毛が碧を焦らすようにさよさよと掌をくすぐった。ぽやぽやと半分だけ開かれた瞳は何を映しているのだろうか。しかし見つめあう暇もなく、甘さだけを秘めたまま再び閉じられ、掌に体重をかけて微睡(まどろ)む。


 正直心拍が限界を迎えすぎて、目眩を起こしそうだ。身動きが取れないが、かと言って振り払うという発想はまずありえないし、どうしようかと過去一悩む碧。しかし幸か不幸か、覚醒の時はすぐに訪れる。


「うぅ……ん」


 先ほどより幾分かはっきりした甘い呻きの後。


 くるみがゆっくりと、それでいて今度は最後まで睫毛の傘を持ち上げる。それに伴い、差し込んだ冬の日差しが瞳孔に宿り始める。


 まだ眠気の残滓があるものの、現れたヘーゼルの瞳にしっかり碧の姿を映し——


 二十センチの距離で、ふたりの視線がぱちりと交錯した。


「っ!! ゃ……」


 いくらなんでも寝起きどっきりが過ぎたようだ。驚くあまり後ろに大きく仰け反り、ロッキングチェアがぐらっと大きく後ろに傾く。


「!!」


 考えるより早く碧が咄嗟に一歩踏み出し、くるみの肩の後ろに瞬時に腕を回すことで事なきを得た。


 ただ、まるで密着して抱きしめる一歩手前みたいな体勢になってしまっているが。互いの体に空いた五センチの隙間は、碧のなけなしの温情と咄嗟の判断によるものだ。


 助かったと理解した瞬間、遅れて激しく鼓動が刻み始める。鋭く呑んだ息を大声にしなかった代わりに、深いため息にして吐き出した。


「……危ないなぁもう」


「え、あっ……あの……?」


 今腕の中にあるのは、無理に力を込めれば折れてしまいそうなほどに華奢な体。


 見た目からして分かっていた筈だが、こうすると本当に細さが伝わる。

 碧の腕にこうしてすっぽりと収まってしまうほどに繊細な体は、碧にはお小言を言いつつ彼女自身きちんと食事しているか心配になるくらいだ。硝子(ガラス)や壊れ物みたいに丁寧に扱わないと、怪我をさせてしまいそうで怖い。


 何事もなかったように離れると、くるみはすっかり眠気が飛んだらしく、瞳をまんまるにしてぽかんとこちらを眺めている。


「おはようございます」


「お……おはよう。ご、ごめんなさい私勝手に……うたた寝だなんて……」


 寝ぼけた(あやま)ちのあれこれは言わないほうがいいだろうな、と判断して碧がしれっと挨拶すると、くるみはたった今の出来事の他に寝落ち前の途切れた記憶を手繰り寄せたようで——それと同時に見る見るうちに可愛らしく頬を染めた。


「いや僕が帰るのが遅くなったせいだし、気にしないで」


「気にするっ! だって私今……夢か本当かわからないけど……」


「その記憶多分封印したほうがいいんじゃないですか?」


 碧が真剣な表情で返すと現実だと分かってしまったようで、くるみの染め上げられた頬がさらに二段回ほど上気した。ここまでいくともう街角のポストもかくやといった様相である。


 ぷるぷると羞恥に悶えるくるみを見て碧は苦笑。


 このままじゃ双方居た堪れないだろうしちょっと外出るか、と立ち上がる。


「僕すぐそこまでコーヒーでも買って……って、くるみさんそれ何」


 見ると、きゅいと制服のブレザーの袖が彼女の細い指に掴まれていた。


 碧が目線でくるみの掴んだ手を示すと、彼女もまたそれを見てから、慌てて裾を離した。どうやら我知らずの行動だったらしい。


「……ご、ごめんなさい。何でも、ないの」


 困ったように否定しつつ、言葉にいつもの凛と通る響きがない。


 安堵を求めるようにクッションを強く抱きしめたくるみを見下ろすと、いつもはびしっと定規のような姿勢もへなりと萎れているように見える。心細げに揺れ、伏せられたヘーゼルの瞳にもどこか怯えの爪痕が見つかったような気がして、思わず尋ねた。


「もしかして、悪い夢でも見ていた?」


 くるみははっと息を呑み一瞬ためらいを見せてから、烟る睫毛の傘を寝かせる。


「うん、ちょっと……()()の夢を見てて」


「大丈夫?」


 そう、声をかけてから後悔した。


 落ち込んだ相手にかける言葉としては、明らかに下の下だろう。


 予想通りくるみは風前の灯のように儚げな気配や何かを乞うような眼差しのまま、泣き笑いにも見える淡い表情を浮かべ、それでも鈴のような声で気丈に答える。


「……最後の方は誰かさんのおかげで大丈夫」


 当たり前に、そう返ってくる。


 僕が言わせてしまった、と思う。


 だから埋め合わせをするように、あるいは目の前の少女の不安を取り払い労わりたいという碧のただの願望かもしれないが——


 気づけば己の掌で、彼女の頭をわしわしと大雑把に撫でていた。


 おもむろに手を退ければ、そこには驚きに見開かれた大粒の瞳。


 眠気の残滓も吹っ飛んだ様子でこっちを見上げてくる彼女に、碧はひとつ申し出を落とした。


「しばらく休んでていいよ。無理しないでゆっくりしてて。僕はどこにもいかないから」


 しかし、くるみはまだ驚いたままぱちりと瞬きを繰り返している。


 何だか放っておけず思わず撫でてしまったが、よく考えればしっかり他人との線引きをする彼女はそういう馴れ馴れしい行為が苦手なのかもしれない。折角綺麗に整えた髪もぼさぼさだ。所作にもっと気をつけなさいみたいなことを前に言われた気もする。


「……ごめん。今の、嫌だったらもうしないから」


「べ、別に嫌って訳じゃないけど……」


「じゃあ、いいの?」


 馬鹿正直に聞き返すと、くるみもその馬鹿正直には手を焼いたようで、たじたじと困ったようにうつむき、クッションで口許を隠す。表情を覗き込むつもりで彼女の前に(ひざまず)くも、くるみは瞳をついと彷徨わせてしまった。


 二週間前をふと思い出す。


 出国前、碧はくるみと仲良くなりたいと言った。


 その手段は一緒にいる時間を積み重ねるだけじゃなく、きっと言葉のやり取りで相手の受け入れる気持ちを測り、確かめることでもいいはずだ。


「僕、海外暮らしだったからこういうところでも違うところでも嫌な思いさせちゃうかもしれない。もし嫌なことあったら教えてくれる? 駄目ならもうしないから」


 碧がそう尋ねると、くるみの彷徨っていた視線がぴたりと静止した。


 それから数秒に渡り沈黙の紗幕が降りる。


 何か(まず)いことでも言ったかなと思っていると、くるみは何かを迷うように花の唇を震わせた後、意を決したように目を合わせ、


「……嫌なことは、ない」


 はっきりと可憐な声が紡がれた。


 にわかには信じ難い言葉に碧は虚を衝かれるものの、くるみは尚も続けた。


「碧くんなら……大丈夫です」


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