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第17話

 息を荒げていたバンビちゃんは、暫らくすると穏やかな寝息を漏らし始めた。私の胸の中で眠るバンビちゃんは、ペットなんかじゃなく自分の弟なのではないかと錯覚してしまいそうなほど愛おしかった。

 何故バンビちゃんに対してここまで入れ込んでしまうのか。

 恐らくそれは、私には弟がいたと聞かされたからではないか。会ったことはない。実際顔を見たことも写真で見たことすらない。声を聞いたこともなければ、どんな性格かなんて解るはずもなかった。

 ただ私には弟が。バンビちゃんと同じ年の弟がいたと聞かされたのだ。

 それだって酔った母親がぽろりと言葉に出したに過ぎない。酔っぱらいの戯言だったのかもしれない。現に素面の母親に尋ねたが、そんなものはいないと知らをきられてしまったのだから。けれど私は、それが真実だと思った。いや、思いたかった。どこかに私の弟が存在しているということが、私の希望の一つだったからだ。いつか、会いたいと。私のような姉が現れても弟にとっては迷惑かもしれない。自分が誰かを明かさずにただ、一目見るだけでもいい。

 その願いはもう二度と叶うことはない。

 だから、同い年のバンビちゃんを弟の代わりに愛しているのかもしれない。

 私の胸の中で微笑を浮かべて幸せそうに眠るバンビちゃんの頭を、何度も何度も撫でた。


 あれからハウエルが戻ってくることはなかった。

 私にバンビちゃんと過ごす一日をくれたのだろう。

「……結月さん」

「起きた? のど乾いてない? お水いる?」

 むくりと起き上がったバンビちゃんを解放し、飲み物を用意しようと立ち上がろうとした。これでも私はバンビちゃんの侍女でもあるのだ。碌な仕事はしていないが……。

「結月さんっ。もう少しここにいてください」

 バンビちゃんに腕を掴まれ、上げようとした腰を再び下ろした。

「どうしたの、バンビちゃん。寂しい夢でも見た?」

 不安げなバンビちゃんの顔を覗きこんで尋ねた。バンビちゃんは俯いているのでよくは見えない。だが、泣いているような空気が感じられる。

 ああ、涙は落としてはダメ。私が全部舐めとるんだから。

 こんな時いつもなら制止に入るハウエルが今日はいない。止められるのは自分自身なのだ。

 バンビちゃんの頬に一筋涙の跡が走った。私はそれを複雑な思いで見つめていた。

「違います。起きたら結月さんがいて、結月さんの温かさを感じて、すごく嬉しかったんです」

 もうダメだ。可愛すぎっ。

 私にはもはや迷いなどなかった。バンビちゃんの目じりに溜まった涙をぺろりと掬い取った。

「バンビちゃんが悪いんだよ。こんな可愛い涙を流すから……」

 完全なる責任転嫁でしかない。それは解っている、解ってはいるけれど。

「結月さん」

 顔を上げたバンビちゃんは、いつもとは違う表情をしていた。いつもの頼りない――それがまた可愛いのだけれど――表情ではない。ハウエルが私を求める時と同じ顔をしていた。それは、欲情の色を濃く出している表情だった。

 それに私は少なからず驚いていた。

 バンビちゃんが男の顔をしている。

 バンビちゃんが男だと理解しているつもりでいたが、そうではなかったのかもしれない。

 私は、その表情に魅了され動くことも声を発することもできずにいた。

 バンビちゃんは、ゆっくりと近づき私の唇を奪って行った。それは、あまりに軽い接触に過ぎなかった。付き合い始めの初々しい学生同士がするような触れるだけの、触れたのか触れていないのかさえ判別できないくらいに小さな小さなキスだった。

 バンビちゃんがはにかんだ笑顔を私に向けている。

 どうしよう……。

 私は、重大な不貞を働いたような気がしてならなかった。

 キスともいえないようなキスだった。家族間の挨拶でさえもっとしっかりとしたものであるのにかかわらず、私はハウエルに対し後ろめたさを感じていた。

「バンビちゃんに唇を奪われてしまったわっ。でも、バンビちゃん。唇にしてもいいのはハウエルだけだぞ。ほっぺならいつでもウェルカムだけどね」

 その空気がこれ以上おかしくならないように、私はまた努めて明るくそう言った。

「解ってます。もう、しません」

 うん。それはそれで大いに残念なんだけどね。ハウエルのことがなければ、もう何回でも受け入れるんだけどね。案外私ってどんな状態であれ恋人を裏切ることを良しとしないんだよね。一応これでも、恋人とそうでない人の線は引いているつもりなのですよ。

 でも、バンビちゃんは特別。本当は、本当はさ、凄く嬉しかったんだよね。もう一度キスしてほしいって思っちゃったんだよね。もっともっと深いキスがしたいって、気持ちよくさせてって思っちゃったんだよね。

「よし、良い子」

 笑顔を作って頭を撫でた。

「のど乾いたでしょ?」

 今度は腕を取られることはなかった。そのことにホッとしているのか、がっかりしているのか私自身よく解らない。

「僕の、あっ、俺の話を聞いてくれませんか結月さん」

「バンビちゃん。バンビちゃんの話を聞く前に一つ言っておくね。レッスンの時以外で、無理に私の前で魔王らしくする必要なんてないんだよ。バンビちゃんは、魔王様だから威厳ある男を装うべきなのかもしれない。国民がそれを望んでいるなら、それに応えてあげるのも王の勤めでもあると思う。だけど、誰しにも公私があるように魔王様にだってあっていいと思うんだ。プライベートまで自分を偽る必要はないんだよ。私の前では、バンビちゃんはバンビちゃんのままでいてもいいんだよ。ね?」

 それが上手くできるようになったら、バンビちゃんはいい魔王になれると思うんだ。公の場だけ、魔王らしく振舞うことさえ出来れば、それが嘘でもみんな納得してくれるのではないか。ごく親しい人の前だけ、自分をさらけ出すのだ。バンビちゃんは演技をすればいい。

 完全無敵な偉大なる魔王様の演技を。




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