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第16話

 何故か疲れた表情のエロイーズちゃんは、ぼんやりとしながらもレディらしい挨拶を述べた後ふらふらと退室していった。

「キディちゃん。大丈夫かしら?」

「もしかしなくてもキディちゃんというのは、エロイーズ様のことですね?」

「うん。勿論。バンビちゃんが小鹿ちゃんなら、あの子は子猫ちゃんだとは思わない?」

 まだ、爪を剥き出しにはしていないけれど、キディちゃんにはそういった少し小生意気なところがあるような気がするのだ。まあ、私の憶測にしか過ぎないのだが。

「まぁ、確かにそうかもしれませんね。危うく近付くとひっかかれてしまいそうです」

「ふふっ、でもそんなところが可愛らしいんじゃない? ああいうタイプの女の子はさ、一度懐を開けば完全に気を許してくれるんだよね。どうやって私に滑落させようかなぁ」

 懐かないネコを懐柔するのは楽しいことである。それが手強い相手ならなおさらそう思うのは、私の性分だろうか。

「またあなたは、好からぬことを考えていますね? ……ところで、いつになったら放すおつもりですか?」

「好からぬことなんて考えるわけないじゃないの。失礼ねぇ」

 ハウエルの後半の言葉は聞こえなかったことにする。

 ハウエルのことだ、私がいかなることを考えているかなど容易に想像がつくことだろう。といっても、特に何かをするつもりはないんだけどね。

「放しなさい、いい加減」

「イヤよ。バンビちゃんは嫌がっていないじゃないの。ねぇ、バンビちゃん?」

「ぼ、僕は大丈夫ですけど」

 あん、照れ屋さんなんだからっ。熟した林檎みたいなほっぺが可愛すぎるぞ。

「ほら、ご覧なさいな。バンビちゃんは嫌がっていないんですぅ」

「嫌がっていなくても、あなたにはあなたがすべき仕事があるでしょう。あなたは何のためにここにいるんですか?」

「その言葉そっくりそのままあんたに返すわ。宰相様がいつまでこんなところで油を売ってんのさ」

 ハウエルが仕事をしている姿なんて、未だかつて見たことがない。本当にハウエルって宰相なんだろうか。もしかして偽称しているわけじゃないわよね。

「私の部下は、それはとてもとても優秀なのです。私がいなくても上手く問題を捌いてくれることでしょう。いえ、そうでないとこまります」

 うわっ、今ハウエルの目が怪しく黒く光ったよ。

 ハウエルの部下には、同情を隠せないよ。自分はサボっておいて、人のミスには容赦ないタイプだなこりゃ。


「それじゃ、バンビちゃん。今日は少し喋り方を変えてみようと思うよ。まず、バンビちゃんは自分のこと『僕』っていうよね。さすがに魔王様が『僕』って言うのは格好つかないと思うわけ。だから、『私』か『俺』がいいと思うんだけど……」

「そうですね。その方が威厳がある感じがします。今のままでは、少しばかり頼りなく感じますし」

「私的には、『俺』がいいと思うんだけど、どう?」

「お、俺ですか? なんだか違和感がありますけど、頑張ってみます」

 バンビちゃんは、本当に素直な良い子だ。私の言うことに疑問を持たずに懸命に答えようとしてくれる。

「それからね、声が弱々しいから、もう少しお腹から声を出す感じでやってみよう」

 お腹からですか、と言いながら自分のおなかに手を当てているバンビちゃん。指導係として真面目に取り組まなければならないと思うのだが、煩悩が私を邪魔する。

 私がお腹を擦ってあげるねぇ。

「ハウエル」

 バンビちゃんのおなかへと向かっていた私の手をむんずとハウエルは掴んだ。

「ええ、すみません。邪な何かを感じ取ってしまったものですから」

 私の一睨みなど涼しげな微笑でさらりと流してしまった。

 そりゃぁさ、邪な何かが私の中にあったっていったら嘘になるよ。

 バンビちゃんのおなかを擦って、あわよくば偶然を装いバンビちゃんのにゃ~ん(自己規制)を掴んでみようとかさ。まさか、そんなこと思ってるわけないよ。へ、変態じゃあるまいし……。ハハ、ハハ、ハハ……。

「もうしません。ごめんなさい」

 口ではそう言ったものの私がハウエルに制止されたくらいで諦めるわけがないんだけどね。

「結月さん。俺の話を聞いてください」

「バンビちゃん。とってもいいわ。だけれどね、私なんかよりバンビちゃんの方が身分が上なの。敬語なんて使う必要がないの。いいこと。見ていなさい」

 私はバンビちゃんの目の前に立つと、こう言い放った。

「小娘。俺の話が聞けぬというのか。ふん、まあ、いい。ここから二度と出られると思うな。お前を俺の可愛いペットにしてやる」

 自分で出せる限界の低い声でそう言い放ち、バンビちゃんの頬に手を当て、最後に不気味な笑みを付け加えた。

「って感じにやるのよぉ。解った?」

「さすが結月様。見事な迫力でした。私でしたら、喜んでその提案を受けますが」

「ヤダよ。ハウエルじゃ可愛いペットにはなれないっての」

「あれ、バンビちゃん?」

 バンビちゃんが私を見上げたまま固まってしまっている。

 はて、どうしたというのだろうか?

「あまりの迫力に気を失ってしまったのではないでしょうか?」

「そこまで怖くはなかったでしょうよ」

「わたしでしたら、もっと罵っていただいても大丈夫なのですが、何分陛下は町での暮らしのこともありますから……」

 お茶を濁したハウエル。

 もしかしたら、バンビちゃんのトラウマを私の言葉が引き出してしまったのではないか。魔王様に担ぎ上げられる前のバンビちゃんの生活がほんの少し想像できてしまった。

「ハウエル。お願いがあるの」

「なんでしょうか」

「しばらくバンビちゃんと二人だけにして」

 普段のハウエルであればこの申し出を一蹴するだろう。けれど、私の真剣な眼差しが彼を頷かせたのは間違いないだろう。今の私に邪な感情は少しもなかったのだから。それを感じ取ったのは、さすがというべきだろうか。

 ハウエルは、私に微かな笑みを向けた後、ゆっくりとした足取りで歩き去った。

「大丈夫だよ、バンビちゃん。大丈夫」

 バンビちゃんを今まで以上に注意深く胸に収めると、少し上がった呼吸が落ち着くまで背中を撫で続けた。



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