3.山吹色(le Jaune)【解決編】
「どうやら西野さんは事件の真相にたどり着けたみたいですね」
いつもの決め台詞を宣言した西野さんに、僕は速攻で訊ねた。
「ええ、まあ……」
「ぜひ、今から真相を語ってください。僕には何もかもちんぷんかんぷんなのです」
突然の催促に、西野さんは少したじろいだ様子だった。
「ええと、大学へ行けば、今回の事件はおそらく解決すると思います」
と、西野さんが小声で答えた。
「大学? 上智大学へですか?」
「ええ……」
「じゃあ、すぐに行きましょう」
「今は駄目です。今日は日曜日ですから……」
「日曜日じゃあ駄目なのですか?」
「ええ、まあ……」
困惑している西野さんの姿もなかなか可愛らしいが、いったい大学へ行くとどう事件が解決するというのか?
「それじゃあ、途中まででかまいませんから、西野さんの推理を僕に聞かせてください」
「ここでですか?」
西野さんが瞬時にジト目となった。そう言えば、僕たちは教授の家からさほど離れていない道端で立ち止まっている状態であった。
「そうですね。じゃあ、景色が良さそうなところでも探しますか」
そう言って、僕はとぼとぼと歩き始めた。
「ちょっと、そっちは坂を上っていく方向ですよ」
僕の進む方向を確認した西野さんが、慌てて声をかけてきた。
「ええ。高い場所のほうが、景色が良いところがありそうじゃないですか」
「それはそうですけど、やみくもに歩いたところで、風光明媚な場所などそんなにやたらめったらとあるものではありませんし、アドニス君のしようとしている行為は、徒労に終わる危険性がかなり大であると言わざるを得ません」
「まあいいじゃないですか。その時は、その時ですよ」
そういって、僕は西野さんのうしろへ回って、半ば強引に背中を押してやった。
「その時は、その時って……。ちょ、ちょっと、待ってくださーい……」
背中を押された西野さんは、両手をあげて拒絶の意思を示しつつも坂を上り始めた。
やはり思ったとおりだった。その坂はわりとすぐにてっぺんへたどり着けて、しかもそこはブランコとすべり台が設置された小さくて閑静な公園となっていた。そして、公園の東側が広大な百八十度の視界が切り開かれていて、フェンス越しに見事な大展望が眼下で展開されていた。
「ほら、西野さん。ありましたよ。すばらしい景色じゃないですか」
見つけた自分がびっくりするほどに、それは壮大な絶景であった。
「ええ、まあ……、そうですね」
さっきまで文句を唱えていた西野さんも、思わず口をつぐんでいる。
手前に、深緑色の皇居の森が広がり、その奥には、うっそうとした東京駅周辺のビル群落がところせましと立ち並んでいる。さらに、その合間を縫うようにJRの高架線路が走っていた。こう見えて、僕はけっこう鉄道好きである。そして一番奥に規格外の大きさを有するスカイツリーが威風堂々とそびえていた。
「じゃあ、事件の真相を語ってください」
僕は西野さんに再度催促をした。
「分かりました。では、いま分かっていることを、順を追って話しましょう。
昨晩、私たち二人が監視していたにもかかわらず、人形は一人で動き出して消えてしまいました。動いたと簡単に言いましたが、棚の上から下へ落ちたとかではなく、居間から玄関までを真横に移動しています。そんなの、もちろん自然現象であるはずがありません。明らかに、人間の手によって引き起こされた出来事です」
「それはそうですね」
「それでは、人形が動かせた人物には、いったい誰がいたのでしょう。一階の鍵はぜんぶ閉まっていましたから、外部から人物が侵入した可能性はまず考えられません。必然的に、人形を動かした人物は、私かアドニス君か、教授の三人のうちの誰か、ということになります。
まず私ですが、自分のことですからはっきりと断言しますけど、私ではありません」
当然、西野さんのはずがないから、異議なしである。
「次にアドニス君ですが、実はそれもあり得ないのです」
「西野さんはともかく、どうして僕が人形を動かしてはいないと断定できるのですか」
もちろん僕はやってはいないけど、いちおう、西野さんの推理を聞いておきたかった。
「それは、私がアドニス君に目印を付けておいたからです。
昨晩は数回にわたって私はアドニス君の居眠りを起こしましたが、やがてその努力がむなしく感じられてきた頃、今度は私自身も強い睡魔に襲われてきまして、このままでは二人とも眠ってしまうことが必至と悟り、やむを得ず、テーブルに突っ伏して寝ているアドニス君の頭の上に小さく切ったティッシュペーパーを乗せておきました。私が寝てしまった後でも、アドニス君が起き上がって勝手に動き出そうものなら、ティッシュペーパーが落ちて、それが分かるという仕掛けです。
でも私が起きた時には、ティッシュペーパーはまだアドニス君の頭の上にばっちり残っていましたから、アドニス君は勝手な行動を取らなかったと私は確信しました」
二階へ上がろうと立ち上がった時、目の前をひらひら落ちてきたあのティッシュがその目印だったのか……。
「つまり、消去法で、犯人は教授ということになります!」
「教授ですって?」
「はい」
陣内教授が人形を動かすなんて、僕には理由がさっぱり分からない。
「動機はなんですか。悪戯ですか?」
「いえ、教授に悪戯をする気持ちがあるのなら、ラ・グルナードを出る際に、一度家へ人形を見に来たらどうだい、となんとか言って、私たちを誘ったはずです。でも、教授は黙って帰りました。つまり、教授に悪戯をするつもりなど最初からなかったことになります」
そう言って、西野さんはすーっと深呼吸をした。
「おそらく、教授はアルツハイマー型認知症患者なのでしょう」
「認知症ですって? だって、あのマスターをやり込めてしまうほどの頭脳明晰な人物ですよ、教授は……」
僕はすぐさま反論した。あれだけ理路整然と振舞った教授が認知症だなんて、断じて受け入れられることではない。
「私は専門家ではありませんが、アルツハイマー型認知症患者は、論理的な思考をすることができなくなっているわけではなく、その人の中では合理的な論理展開がなされているにもかかわらず、新しく入って来る情報をしっかりと記憶にとどめていられなくて、それがためにその後の対応でトラブルを招いてしまうのだと思います。
昨日の夕方、教授の家へ出向いた私たちにした教授の発言を思い出してください。その時教授は、
『ああ。たしか、『明暗』と『行人』がお好きな美人のお嬢さんでしたね。思い出しましたよ……』
と言いました。でも、これっておかしくないですか。普通は『思い出しましたよ』ではなくて、『覚えていますよ』と言うでしょう」
「それはたんなる言葉遣いの綾じゃないですか。教授は西野さんが取り上げた『行人』など一般市民が知らないような難しい小説をそらですらすらと解説しました。とても認知症だとは思えませんね」
「教授の専門分野は近代文学史であり、それらの知識は教授が若い頃に頭脳に刻まれたことです。ずっと以前に刻まれたなつかしい思い出やうれしい記憶だったら、たとえ認知症になっても忘れずに覚えていられるのではないでしょうか」
たしかにそうかもしれない。同じ言葉を何度も繰り返す認知症患者がいたとして、見方を換えれば、その患者は言葉の意味を理解しているからこそ、何度も同じ主張を繰り返すことができるわけだ。
「教授が話したうんちくは、よくよく調べてみると、全部昭和時代のものです。『ビートルズ』は一九六〇年代に活躍したグループですから、昭和に直すと三十五年から四十五年までの話題ですし、ふと口にした、『巨人、大鵬、卵焼き』という言葉がはやったのは、大鵬という横綱が活躍したのが昭和三十五年から四十六年で、巨人という野球チームが日本一というタイトルを連続して取り続けたのが昭和四十年から四十八年の九年間だそうです。つまり、教授のうんちくは、昭和四十年から四十五年頃までの思い出が基礎となっているのです」
西野さんは手帳を取り出して、調べた年度の一つ一つを確認しながら説明を続けた。
「ちょっと待ってください。ビートルズのことなら、マスターだって教授に負けないくらいの深い知識とうんちくを持っていましたけど」
「マスターはアラフォーですから、彼はビートルズの生演奏を聴いた世代のファンではありません。実は、ビートルズの発表曲は1987年にデジタルリマスタリングがなされて、アナログのLP盤からデジタルのCD盤へ全ユーザーが移行する過渡期があったそうです。きっとマスターはその第二次ビートルズブームの時に新しくファンになったのだと思います。
言い換えれば、教授はタイムリーに純正なビートルズファンで、マスターは似非ビートルズファンということになります」
「LP盤って、何ですか?」
「さあ、分かりません。おそらく当時の音楽データを記憶するメディア媒体の一種ではないかと推測されます」
ネットから得た情報なので、西野さんにも詳細は分からないようである。
「とはいえ、明治文学に関する痛烈な解説なんかを聞いていると、やはり教授が認知症だなんて思えませんけど」
「年よりに限らず誰でも、脳裏に深く刻まれた昔の出来事は鮮明に覚えているものです。でもそれが印象の薄い最近の出来事となると、ところどころで飛んでしまうことがありますよね。例をあげれば、三日前に食べた晩ご飯をアドニス君は思い出せますか」
三日くらい前のことだったら、ええと、思い出せないなあ。
「たしかに、関心のない日常的なことって、案外覚えていないものですね」
「認知症になれば、きっとその度合いが大きくなるのだと推測されます。昼間に一緒に話をしたアドニス君のことを、その日の夕方になるともう忘れてしまっている。まあ、私が認知症ではありませんから、この仮説はあくまでも推測の域を出ませんが」
西野さんは認知症に関する自己の見解を具体的に説明した。要約すれば、認知症とは、必ずしも論理的な思考ができなくなっているわけではなく、論理的な思考はできるけど、少し前に起こったささいな出来事を記憶することができないために、結果として非論理的な行動を取ってしまう、ということだ。なるほど、一理あるかもしれない。陣内教授は、僕のことは完全に忘れてしまったけど、西野さんは可愛くて印象が強かったから、顔を見た瞬間に昼間のことを思い出した。それを、『ああ、思い出しましたよ』と素直に答えたわけだ……。
「決め手となったのは、証言の食い違いです。教授の発言では、教授の奥さんが亡くなられたのが去年でしたけど、おとなりに住んでいる婦人の話では、姿を見なくなったのが五年前、ということでしたよね」
「でもそれは、教授の奥さんが実際に四年の長期にわたって病院に入院していたとすれば、いちおうの説明が付きますよ」
納得ができなかったので、僕は反論した。
「教授の奥さんの病気は脳梗塞です。そして脳梗塞は、たいていの場合、長期療養を要する病気にはなりません」
西野さんがきっぱりと断言した。
「さらに付け足すと、教授の発言では、教授が退官したのと奥さんが亡くなったのがともに去年ということでしたから、実際に教授が退官されたのは、奥さんが亡くなった時と同じく五年前であった可能性が極めて高いです。教授は退官されて直後に奥さんを亡くします。ですから、その二つの出来事は関連付けられて、教授の脳裏に深く刻まれますが、それがいつのことだったのかということに関しては、記憶があいまいだということです」
「ちょっと待ってください。もし教授の退官が五年前だとしたら、さすがに勘の鋭いマスターがその事実に気付かないわけがないでしょう。少なくともマスターは、教授がJ大学に勤めていた事実は知っていたのですからね」
「ラ・グルナードが開店したのはいつでしたっけ。たしか去年ですよね。つまり、マスター自身も去年より昔の教授のことは何も知らないのです」
「でも、その証拠は?」
「それを確かめるために、大学へ行くのです。陣内教授が退官した年を職員から聞けば良いのです。もし、教授の退官が五年前だとすれば、教授の発言に矛盾が数多く含まれていることになり、教授が認知症患者である可能性が肯定されます。そうなればこの事件は解決です」
だから、日曜日の今日に大学へ行っても駄目だということか……。
「教授が退官してから五年が経過しているとすれば、教授の年齢は六十五歳くらいです。教授の記憶が鮮明な昭和四十年は、今から五十年も昔ですから、逆算すれば、その時の教授は中学生か高校生だったことになります。
教授は奥さんと学生結婚をされたということでした。そして、生まれた娘さんが亡くなったのが七歳です。これらの証言はすべて過去の出来事ですから、教授の話とはいえ、内容は十分に信頼がおけます。となると、娘さんが亡くなったのは教授が結婚してから十年後くらいでしょうから、おそらく教授の年齢が三十五歳くらいの頃。つまり、娘さんが亡くなったのは今からおよそ三十年前と考えるのが妥当です」
「そうですね。娘さんが亡くなったのは、間違いなく、相当に昔のことになりますね。でも、それがどうかしましたか」
「人形を思い出してください。あざやかな山吹色の振袖を着ていましたけど、あの美しい振袖が三十年の月日が経過した品物だとはとても想像ができません。三十年も経てば、紫外線で布は黄ばんで色あせてしまうものです」
「それは、娘さんが亡くなったあとで、奥さんが着物を新調したからですよ。教授もそう言っていたではありませんか」
「そのとおりです。すなわち、あの山吹色の着物は娘さんが生きていた時に人形が着ていた着物ではなかったことになります。
一方で、人形の帯には指のあとが付けられてありました。ちょっと乱暴な持ち方をして付けられたような指のあとでしたけど、気付きましたか」
「ええ、まあ……」
確かに人形の帯には強い力で押さえ込んだような指のあとがはっきりと付いていた。
「指のあとは、必然的に、娘さんが付けたものではないことになります」
「たしかに、そうなりますね。じゃあ、いったい誰が」
「教授です――」
「分かりませんね。娘さんと奥さんの形見である大事な人形を、どうして教授が乱暴につかんだりするのですか」
「思い出してください。私たちが教授宅を訪問した時、最初に人形を棚の上からおろして私たちの前に置きましたよね。その時には、教授は人形をとても大事に取り扱っていました。教授の頭の中では、やはり人形は大切な形見の品物なのです。
それと同時に、人形を乱暴につかんだ人物がいるとすれば、それも教授しかあり得ません。しかし、この教授の行動の二面性は、教授が認知症であることで一気に説明が付きます。
教授は人形を動かすという行動が、懐かしい過去の思い出として脳裏にインプットされているのだと思います。一人になってさみしくなると、教授は昔の楽しい時期を思い出します。すると、可愛い娘さんの姿が目に浮かんでくるのです。そして、娘さんとたわむれているうちに、教授はお気に入りの人形を娘さんから隠してやろうと不意に悪戯心を引き起こし、人形のあった場所を移動させるのですが、そのあとになってから、その行動自体を忘れてしまうのです。そして、人形だけがいなくなったと勝手に決め込んで、一人で錯乱していた、というのが真相だと思います」
「それでは昨晩も、教授は一階へ下りてきて、僕らが眠っていることを確認して、人形をテーブルの上から玄関まで動かしたというのですか」
「私たちが眠っていることを確認したかどうかは分かりません。おそらく、教授の頭の中には娘さんとご自分の姿しか浮かんでいなかったことでしょう。私たちは背景に過ぎないのです」
「人形を動かしたあと、教授は再び二階へ上がって……」
「翌朝私たちが二階へ上がった時には、昨晩人形を動かした行為自体を忘れてしまっていた……」
「でも、夜がかなり更けてから行動したことに、何か理由があるのですか。まるで、僕たちが寝静まるのを待っていたかのごときタイミングですよね」
「これは単なる憶測に過ぎませんが、私は二階へ上がった時に、二階にトイレがないことに気付きました。教授のご自宅にはトイレが一階にしかなかったのです。教授は夜更けに目が覚めて、トイレを済ますために一階へ下りてきた。ところが、一階にいる間に娘さんのことを急に思い出して、にわかに人形が動かしたくなったのだと思います」
僕はしばらく声が出せなかった。教授の悲しい現状を突きつけられて、なにもしゃべれなかったのだ。
「認知症は生活環境に注意すれば進行を遅らせることもできると思います。ラ・グルナードに教授が現れた時には、いろいろおしゃべりをしてあげることが良いかと思います」
西野さんは最後にそう締めくくった。
涼しいそよ風が吹いてきて、僕の顔をそっとなでていった。風がやって来た方を振り向くと、はるか遠くのビルのすき間を、山吹色をした新幹線が横浜方面へ向かってゆっくり移動していく雄姿が見えた。
「西野さん、ドクターイエローですよ!」
新幹線の線路の状態を点検するために造られた黄色い新幹線車両は、通称ドクターイエローと呼ばれている。走行時間が非公開であるために、まさに神出鬼没な新幹線と言えるだろう。
「ドクターイエロー? 精神科のお医者さんのことですか?」
鉄道にはまったく興味がないのか、西野さんからは素っ気ない言葉が返ってきた。
「違いますよ。ほら、あそこ……。めったに見られないんですから。ほら、……」
これにて山吹色の章は完結です。いかがでしたでしょうか。




