7.柘榴色(le Rouge)【出題前編2】
紅茶喫茶店『ラ・グルナード』、僕のバイト先だ。まずは、店のマスターの羽出純男氏に、僕は麒麟丸との話を告げることにした。もっともその理由であるが、決して彼の推理力に期待しているわけではなく、常連客の西野さんが来店した際に、彼女へ今回の謎解きを持ち掛ければ、当然のごとく、近くにいるべくマスターの耳にも会話の内容が届いてしまい、彼がしゃしゃり出て来ることは目に見えていたからだ。
「平野君、さっきしてくれた君の親友の興味深き話だけどさあ。仮に個々の数字がひらがなの一文字ずつを表しているとすると、それって全部で19文字の単語ってことだよね。ちょっと長過ぎないかなあ」
さすがは不惑を超えたマスターだ。指摘されてみれば、たしかに適当な場所を表す単語で19文字にも及ぶものなんて、そう簡単には思いつかない。
「まだ一つの数字が一つのひらがなを表すと決まったわけではありませんよ。かといって、ほかにアイディアがあるわけではないですが……」
いつものごとく、マスターに対しては反論するでもなく、僕は軽くお茶を濁しておいた。
「うーん、それにさあ、こいつらがひらがなを表しているとすればまだしも、フランス語や中国語なんかが表されているとなると、もはやお手上げだね。はははっ」
マスターが調子に乗って独自の見解を述べ始めた。遺産相続の謎解きにフランス語なんか使うわけなかろうと、僕は単純に思った。
「仮に英語のアルファベットだとしても、僕にはまったく分かりませんけどね」
「まあそんなところだね。こんなことが得意そうな人物と言えば、摩耶ちゃんってことになるけど、彼女は今日来ないのかなあ……」
西野さんの話題となると、マスターの顔がふっと緩む。もっとも、僕にそれを悟られている事実にマスターが気付いているのかどうかはあやしいけど、そうこうしていると、まるで事前に打ち合わせでもしていたかのように、ドアに取り付けられた鈴の音が突如成り響き、それと同時に、黒髪ロングの聖女、西野摩耶さんが姿を現わした。
「こんばんは……」
いつものように小声で挨拶を済ませ、西野さんはそそくさと奥にある玉座の間へ向かい、ことりとも音をたてることもなく、細身の腰を椅子の中へ滑り込ませた。玉座の間とは名ばかりで、壁に囲まれた狭いスペースに問答無用で設置された、誰もが寄り付かなさそうなテーブル席であるが、なぜかここが西野さんお気に入りなのだ。
いつものように、ロイヤルミルクティーを注文した西野さんは、おもむろにバックから文庫本を取り出すと、それを開いて静かに読み始めた。背筋をピンと伸ばして本を読む姿は、ルノアールが描いた美少女イレーヌ嬢を彷彿させる清楚な雰囲気を漂わせている。
そこそこの時間が経過し、落ち着いた頃合いを見計らって、マスターは西野さんへこっそり近づき、声をかけた。
「摩耶ちゃーん、解けないなぞなぞがあってね、さっきからずっと困っているんだ。ちょっとカウンターへおいでよ」
呼ばれた瞬間、西野さんは子猫のようにビクッと反応して、胡散臭そうに開いた文庫本の向こうに小さな顔を隠してしまうと、警戒心のこもったジト目をこちらへ向けてきた。まあ言ってしまえば、これはマスターと西野さんとの間で交わされるいつもの社交辞令、いや、やり取りに過ぎないのだが。
「平野君の友人が困っていてね、いやその……、暗号文の謎を解かないと遺産がもらえなくなってしまうらしいんだ」
マスターがしどろもどろに説明した。さいわい、客がいなくなった一瞬のタイミングで声をかけたので、おびえる反応を示した西野さん以外に、店内にたいした混乱は生じなかった。
「遺産相続の謎解きですって……。こほん。そうですね。まあ、少しは興味がありますけど、そもそも部外者に解けるたぐいの問題なのでしょうか」
謎解きが大好物の西野さんは、びっくりさせられたことも忘れて、後ろ手を組みながらカウンターへやってきた。明らかにこの話に興味を示している。
「さあてね、そいつはまだ分からないけど、ここはひとつ、摩耶ちゃんの聡明な頭脳でズバッと解き明かしてよ」
そう言って、マスターは僕に目配せをした。僕は麒麟丸からもらったコピーを西野さんの前へ差し出した。西野さんはしばらく無言でそれを眺めていた。
「ここに書かれた数字の一つ一つは、何かの文字を表していると思われますね。おそらく、ひらがなの一文字を……」
「ほうら、やっぱり、僕と摩耶ちゃんって考えることがいつも一心同体だね」
マスターが嬉しそうにしゃしゃり出た。
「別に、私やマスターでなくても、誰だってそう考えると思いますけど。まあ、それはさておき、仮にこの数字列がひらがなを表しているとすると、ちょっと変ですね」
「えっ、いったい何が変なのですか」
思わず僕は問い返した。
「だって、ここには152とか、214とか、かなり大きな数字が含まれています。だから、単純にひらがなを表現しているようには思えません」
「大きな数字があると、何か問題があるのですか」
僕の問いかけに、代わってマスターが答えた。
「だってね、平野君。たとえば、『ひらの』というひらがな三文字を数字だけで表現しようとしたら、君ならどうするね」
「それは、たとえば、文字が現れる順番ですかね。『あ』が1番で、『い』が2番。となると、『ひ』は27番になり、『ら』は、ええと、39番ですかね。や行が『や』、『ゆ』、『よ』の三文字しかないですからね。そして、『の』は25番となるから、『ひらの』を表す数字の列は、27,39,25です」
「でも、そのやり方だと50以上の数字が現れることはないね。いや、濁音、半濁音のひらがな文字まで含めれば、もう少し増えるけど、それでもせいぜい80文字には及ばない。すなわち、152とか214なんて数字が現れることは決してないのさ」
マスターはやんわりと説明したけど、なにか小馬鹿にされたみたいで、僕はむっとした。
「それなら、母音の『あ、い、う、え、お』で下一桁の数値を表し、十の位の数字が『あ行、か行、さ行』と続く行番号を表しているとすればどうですか。たとえば、『ひ』は、前から6番目の『は行』と2番目の『い段』ですから、62が割り振られます。すると、『ら』が81となり、『の』は55ですね。これなら152だって、『ぱ行』が15番目ですから、『い段』の『ぴ』を表すということで説明が付きます」
「だとすると、下一桁には1から5までの数字しか現れないはずだ。暗号の数字列の最初に現れた67という数字の説明ができなくなってしまうよ」
マスターがあっさり否定をした。
「なるほど、それもそうですね」
打つ手がなくなって黙り込む僕に代わって、今度は西野さんが口を開いた。
「ノーヒントの暗号を解くなんて、そもそも無謀極まりない話ですよね」
「うーん、だったら、なにかヒントはないのかなあ」
マスターが腕組みをした。
「ヒントといったって、このコピー以外に麒麟丸からは何も聞いていませんしね」
僕は半分あきらめかけていた。
「もしも手掛かりがあるのなら、これらの数字たちがそれを物語っているはずなんですが……」
そう言って、西野さんは再び黙り込んでしまった。僕もマスターも追加の意見が見いだせず、客も途絶えているから、店はまるでお通夜のようになっていた。しばらくして、西野さんがすっと立ち上がった。
「マスター、この近くに文房具店はありませんか?」
「ええと、前の通りを大通りまで下れば、そこにコンビニエンスストアがあるけどね」
「分かりました。たぶんそこにありそうな気がします」
そう言って西野さんはハンドバックから財布を取り出すと、椅子の上にバックを放り出したまま、店から飛び出していった。
10分ほどして、キュートな小胸に何かを大事そうにぎゅうっと抱きかかえて、西野さんが戻ってきた。何気に取る西野さんのこういった仕草は、僕たち男性陣にはかなり刺激的なものであるのだが、当の西野さんはそのことにまったく気付いてはいない。
「謎解きの補助アイテムを買ってきました」
西野さんはうれしそうに抱きかかえていた品物をカウンターへ置いた。それは、方眼用紙と、三色ボールペンだった。
「摩耶ちゃん、これでいったい何をしようと言うんだい」
不思議そうにマスターが訊ねた。
「もう少し待ってください。すぐにできますから」
そう言うと、西野さんはふんふんとお得意の意味不明な鼻歌を歌い始めた。
西野さんがコピーに書かれた数字の列を見ながら、方眼紙にボールペンでなにやら書いていく。
「さあ、できました」
10分くらいを要してできあがったものを西野さんが提示した。そこに描かれていたのは、次のような謎の絵であった。
「なんですか、これは」
「ここに書いてある数字たちの分布図です」
西野さんが得意げに答えた。
「分布図だって?」
「ええ。もしかしたら、何らかのヒントを与えてくれるかもしれないです。
たとえば、ほら。全部で19個の数字列の中で、22と80の数字は2回ずつ登場しています。それに、152に至っては3回も現れています。やはりこの暗号の数字列は、ひらがなやアルファベットのように、なんとなく同じものが複数回現れる文字列の置き換えであるような気がします」
「でも、さっき議論したように、アルファベットやひらがなだとすると、最大で232まで現れている数字列は不自然なんだよね」
「そうなんです。もう少し詳しく数字列の分布を見る必要がありそうですね」
「下に書かれてあるのは、箱ひげ図ですか」
「ええ、そうです」
西野さんが再度、得意げに答えた。
「数字列の分布の全体像の特徴を簡潔に確認できる、なかなか優れもののツールです」
箱ひげ図は、大学入試の数学の試験で出題されるため、高校時代に強制的に教えられたから知っているけど、正直、こんなのが暗号を解く手がかりになるとは思えなかった。
箱ひげ図を簡単に説明すると、両端の位置が、データとなる数字列の最大値と最小値を表している。つまり、今回の暗号文では、19個の数字の中で一番小さい数値は4で一番大きな数値が232ということだ。真ん中に『日』の漢字を横に倒したような箱が描かれているが、この箱の中央の線が、データを小さい順に並べた時の、ちょうど真ん中に相当する数値を示している。今回の暗号の数字列では、データが全部で19個あるから、データを小さい順に並べると真ん中に位置するのが10番目のデータということになり、その10番目の数値は68なので、68の位置に縦線が引かれている。
あとの、22と152の位置に書かれた縦線は、小さい順に四分の一の順番に相当する数値と、四分の三の順番に相当する数値とを、それぞれ表している。
「この箱ひげ図から分かることは、値が小さい数字ほど頻度が高く出没しており、値が大きくなるにつれて、数字の頻度が低くなるということです」
「たしかに、箱ひげの位置は小さいほうの左側へ偏っていますね」
「値が大きくなるにつれて登場する頻度が少なくなっていく数字の列と言えば、まっ先に浮かぶのが素数ですが、残念ながらこの数字列の中には素数である67や17が含まれている一方で、素数ではない80や77も入っています。素数関連ということでは説明がつきません」
「数字列には奇数も偶数もどちらも含まれているよね」
横からマスターが口をはさんだ。
「ええ、ごちゃごちゃなんです……」
西野さんが小さくため息を吐いた。
「奇数とか偶数とかが何かヒントになるんですか」
僕は混乱を来して訊ねた。
「いや、なにね。ちょいと倍数が怪しいと思っただけだけど、やっぱり違ったみたいだ。
ほら、数字列の中には、5の倍数である80がある反面、5の倍数ではない67がある。また、7の倍数である77がある一方で、7の倍数でない数も含まれている。やはり特定の数の倍数ばかりを集めた数字列ではなさそうだね」
マスターが悔しそうにぼやいた。
「たとえ、数字列の中にとある数字の倍数ばかりを仕込んだところで、それをもって何らかのメッセージが込められるとは、とうてい思えませんけどね」
皮肉っぽい口調で僕は返した。すると、マスターと僕との会話を小耳にはさんでいたのか、西野さんの肩がビクッと動いて、それとほぼ同時に、西野さんの口から「にゃんっ」とかわいらしい声がこぼれた。どうやら、本人も無意識下の反応だったみたいだが、前から思っていたけど、世の中の美人を犬系美人と猫系美人とに分ければ、西野さんは間違いなく猫系美人に分類されることだろう。
西野さんは別な方眼紙を取り出して、裏側の白紙になにやら数字の計算を書き始めた。
「摩耶ちゃーん、何を始めたのかな」
マスターがのぞき込もうとすると、西野さんは肘を張ってそれを防御した。
「見ないでください。まだ、秘密です!」
そう言って、西野さんは再び計算に没頭する。そのうちに、ふふふんふん、と例の鼻歌が聞こえてきた。明らかに、西野さんは僕とマスターのさっきの会話から何かヒントをつかんだみたいだ。
しばらくして、うーん、とひと声発して、椅子に座ったまま、西野さんが大きく背伸びをしながら、うしろへ反り返った。すると、普段は身体に密着していないワンピースの布地に、彼女の胸元の丸い形状のシルエットが浮かびあがったので、僕もマスターも恥ずかしくなって思わず目を伏せてしまった。
「今日は遅くなりましたから、帰ります」
何やら満ち足りた様子で、西野さんが椅子から立ち上がった。
「そういえば、もう九時を過ぎているね。もしかして、謎が解けたのかな」
間髪を入れずにマスターが応答した。
「まだもうちょっと調べる必要がありますが、おそらくはかなりの核心をついているように思います」
「さすがは摩耶ちゃん。じゃあ、近々教えてくれるってことだね」
「もちろん、解けた時には皆さんに報告します」
そう言って西野さんは帰ろうとしたから、僕は慌てて呼び止めた。
「ちょっと待ってください、西野さん。このままでは生殺しですよ。
お願いですから、西野さんが今気づいていることのヒントの欠片でもいいから、教えてくれませんか?」
僕の必死の嘆願に少しは憐れんでくれたのか、
「ええと、そうですね……。じゃあ訊ねますけど、この数字列の中に、ある数字の倍数が関連している特徴は、本当に見られないでしょうか?」
と、西野さんが逆に問いかけてきた。
「えっ、何かあるとでも……」
西野さんはそれには答えず、別の質問を付け足した。
「さらには、どうしてこの数字列は、30付近で数値が途切れているのでしょう? ほかにも、100前後とか、200のまわりでも同じように数字列の空白地ができています。なぜでしょう?」
「それって、たまたまじゃないですか」
今のが何かのヒントとなるのだろうか。いくら考えてもさっぱり分からない。
「じゃあ、また明日、お邪魔しますね」
西野さんはにっこり微笑むと、来た時と同じようにドアの鈴を鳴らして、ふふふんと鼻歌を口ずさみながら、店から出ていった。




