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6.東雲色(le Beige)【出題編2】

 それから一週間が経過した次の土曜日の午前のことである。西野さんが、ラ・グルナードへひょっこり姿を現わした。

「ああ、摩耶ちゃん、久しぶりだね」

 マスターが毎週連発しているお決まりの台詞だけど、今日に限っては、僕も乙女さんも、西野さんの顔が見られてほっとした、と言ったところだ。心配していた赤ん坊も、西野さんが押す乳母車の中で、すやすやと眠っていた。

「摩太郎の性格がだいぶ読めてきました。もう、彼が何を要求しているのか、だいたい分かります」

 僕たちの心配をよそに、西野さんは嬉しそうにしゃべり始めた。

「大学の授業を受けながら、赤ん坊の世話をして、大変じゃなかったですか」

 僕は笑いながら西野さんに訊ねた。

「大学の授業は受けていません」

「えっ……」

「だって、授業と摩太郎とどっちが大事なのかって問われれば、答えは明らかじゃないですか」

 西野さんはまるでよそ事のようにケロリと答えた。

「ということは、摩耶ちゃん、ここ一週間、ずっとこの赤ん坊と二人きりで……」

 マスターがびっくり顔で訊ねた。

「ええ、そうです」


 ちょうどその時、店の電話が鳴り響いたので、ああ、僕が出るよ、と一言告げて、マスターが電話に応対した。

「はい、紅茶喫茶ラ・グルナードです。

 ああ、そうですか。ふむふむ。それは良かった。ちょうど今ですけど偶然に……。はい、このお店まで来てもらえれば……」

 電話を切ったマスターは、開口一番、大きな声で叫んだ。

「摩耶ちゃん、良かったよ。その赤ん坊のお母さんが見つかったんだ! 間もなく、ここへやって来るってさ……」

「えっ……?」


 それから、西野さんは一言もしゃべらなくなった。ずっと赤ん坊をふところにぎゅっと抱きかかえたまま、ムスッとしている。

 電話が鳴ってから三十分とかからなかっただろう。店にやってきたのは、警察官が一人と、若い女性に、それと、その女性の両親と思われる五十くらいの男女二人であった。

 若い女性は雰囲気から、年齢は僕と同じくらいであろうと想像できるが、髪の毛は派手な色に染めているし、着ている服にも無駄な飾りアクセサリーが付いていて、ちょっと精神的にまだ子供っぽい未熟な印象を受けた。父親と思われる人物は、眼鏡を掛けており、短い髪を黒く染めていて、きちんと固めている。どちらかと言えば、お堅い公務員風の雰囲気を有した人物だ。母親らしき人物は、少しぽっちゃりとしており、いかにもおとなしくて従順そうな、どこにでもいそうなおばさんだった。

 警察官が前へ出た。

「紅茶喫茶ラ・グルナードさんですね。麹町こうじまち警察署の日吉ひよし巡査と申します。こちらの女性は木内きのうち花梨かりんさんとおっしゃいまして、それから、そちらのお二人が花梨さんのご両親です。

 一週間前に花梨さんの一人息子の木内陽翔はると君が、花梨さんがちょっと目を離したほんのわずかな隙に、行方不明となってしまいました。ご家族は必死になってお子さんを探されたそうですが、残念ながら見つかりませんでした。ところが、そのお子さんがこちらのお店で無事に保護されている、との情報をお電話でいただきまして、早々にお伺いした次第です」

 そうか。この前、西野さんの帰りがけにマスターが赤ん坊の写真を撮っていたけど、その後、マスターはこっそり警察へ通報をしていたんだ。

「はいはい、赤ちゃんはこちらにいますよ。ここにみえるお嬢さんが、ずっとそばについてくれて、大切にお世話してくれましたからねえ。ほうら、元気いっぱいです。

 摩耶ちゃん、本当のお母さんが来たってさ。よかったねえ」

 いつになくマスターは上機嫌だ。肩の荷が下りてほっとしたと言った感じか。ところが何を思ったのか、西野さんが首を振ってわめき始めたのだ。

「うそです。その人は摩太郎を、ちょっと目を離したのではなく、見捨てたんです!

 乳母車の中には、どうかこの子の世話をしてあげてください、と書かれた手紙が置いてありました。今になって、きれいごとなんか言わないでください!」

 西野さんの痛烈な非難に対して、なにも口答えできないのか、木内花梨は苦しそうに黙ってうつむいていた。父親の方も何をしたらよいのか分からないみたいで、じっと固まっている。

 すると、しびれを切らしたのか、うしろに立っていた花梨の母親が、一歩前へ歩み出た。

「このたび、娘が気苦労のあまり軽率な行動を取ってしまったことに関しては、私がお詫びいたします。ですから、お願いです。どうか、私たちの可愛い陽翔を返してください」

「あなたに聞いているのではありません。私はそちらの方に伺っているのです」

 西野さんは、母親の言葉には耳を貸さずに、木内花梨をにらみつけた。ちょっとの間を要したが、木内花梨は、覚悟を決めたかのように顔をあげると、今にも泣き出しそうな表情で、たどたどしく答えた。

「わたしは……。お願いします。陽翔はるとを返してください。今はもう十分に反省をしました」

 ところが、西野さんからの返事は、先ほどのよりもさらに辛辣になっていた。

「反省をしましたですって。あなた、いったいなにをいつ、どう反省したというのですか。そんなきれい事、口で言うだけならいくらでも言えます」

「まあまあ、摩耶ちゃん。なんだかんだで、子供を育てるのに産んだ母親以上の存在はないと思うよ」

 想定外の展開に、マスターはおろおろしている。すると、状況がのみ込めてきて、ちょっと顔が蒼ざめ気味の花梨の母親が、どうにか西野さんを説得しようと、懇願を試みた。

「本当にこの一週間、お嬢さんにはご迷惑をおかけいたしました。後日、このお礼は十分にさせていただきます。たしかに娘が取った行為は、陽翔を無責任にも他人に託す、という軽率なものであり、それ自体はいまさら隠しようもない事実です。

 でも、これだけは知っておいてください。花梨は精神的に極限まで追い込まれていたのです。陽翔の父親と思われる男ですが、ひどい人物でして、陽翔のことを最後まで認知することなく、しまいには花梨を捨てて、逃げてしまいました。それでも、花梨はシングルマザーとなるという重荷を覚悟したうえで、陽翔を産むことを決意したんです。

 ただ、生まれた後になって、一人きりでこの子の世話をしているうちに、いろんな苦労が積み重なって、それに耐え切れなくなってしまって……」

 そう言って、花梨の母親は両手で顔を覆った。

「そのお、悪いのは私たち夫婦のほうなんです。私たちは、花梨がした身勝手な不純行為を許すことができずに、陽翔が生まれた後になっても、花梨の助けをなにもしてやらなかったのです。だから、花梨は行き場がなくなって、疲れ果ててしまい……」

 泣きながら、母親は必死にいいわけをした。それに続いて、木内花梨も重い口を開いた。

「私があの日に陽翔を連れて公園にやって来た時、きれいな女性がブランコに乗っていました。公園にはほかに人はいなかったし、ブランコの女性はこちらを向いていなかったので、私と陽翔がいることは気付かれなかったみたいでした。

 私はベンチに腰を下ろして、陽翔の顔を眺めているうちに、思い出したくもない過去のいやな出来事が、突発的に私の頭の中を駆けずり回ったんです。やがて、考えるのに疲れ果ててしまった私は、不意に、陽翔はこのきれいな女性に預けられたほうが、もしかしたら幸せになれるのかなあと、とんでもない考えを思い付き、ついつい軽はずみな行動を取ってしまいました。

 でも、どうか信じてください。ほんの一瞬のあいだだけだったんです、魔が差したのは――。

 あなたが乳母車を見つけてくれて、お家へ帰ろうとされていた時も、私はずっと陰から見守っていたのです。大切な陽翔のことが、最後まで心配だったから……」

 木内花梨は両手を腰の前で組みながら、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。

「まあ、実の保護者が責任を持って引き取ると言っておりますからねえ。法的にも、保護者に引き取ってもらうのが筋かと思います。お嬢さん、そろそろあきらめて、陽翔君をお返し願えないでしょうか」

 警察官が事を収めるようと、穏やかな口調で西野さんに迫った。それにもかかわらず、西野さんは大きくかぶりを振った。

「全然違います。こうなってはもはや、この子をお返しなどできません。だって、摩太郎は、私が育てたほうが幸せなんですから!」

 まるで駄々をこねているとしか思えない摩耶ちゃんの言動ですけど、何か彼女なりに突っぱねる根拠があるのでしょうか? 皆さんもその理由を考えてみてください。

 以上で『東雲色(le Beige)』の出題編は終わりです。次章は解決編となります。


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