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6.東雲色(le Beige)【出題編1】

「そろそろお客さんが多くなる時刻だから、アドニス君、パウンドケーキは焼き上がるわよね」

 土曜日限定でパートの手伝いをしてくれる麦倉乙女むぎくらおとめさんの溌溂はつらつとした声が飛ぶ。ラ・グルナードの土曜日は、午後六時を過ぎてから客足が増えて来るので、それに合わせてデザートを用意するのだ。

「はい。まかせてください」

 僕は平野ひらの尋人ひろと。あだ名はなぜかアドニス君。その名のとおり、人より秀でた才能は何一つ持たないものの、その分、親しみやすいのか、とくに年上の女性からは絶大の人気があるのが唯一の自慢だ。

「そういえば、今日は摩耶ちゃんまだ来ないねえ」

 この店の店主、羽出はで純男すみお。通称はマスター。この忙しくなる時間帯だというのに、肝心のマスターがボーっと腑抜けた様子である。

 摩耶ちゃんとは、僕と同じJ大学に通う女子大生だ。ラ・グルナードが格別気に入ったみたいで、土曜日にはほぼ毎週顔を出す常連さんである。それに、彼女は非の打ちどころのない美人なのだ。背が高く、色白の素肌。スタイルは完璧スリムなのに小顔の童顔。立ち居振る舞いは上品かつ優雅この上なし。比類なき読書家で、さまざまな分野の知識が豊富なことに加えて、頭の回転もすこぶる速い。唯一の欠点と言えば、ツンデレの気まぐれ屋さんだということくらいか。

 でも六時を過ぎているのに、彼女はまだ顔を見せてはいない。今日は来ないということだろうか。

 突然、入り口の鐘がカランカランと鳴った。そこには摩耶ちゃん、いや、西野にしの摩耶まやさんが立っていた。ただ、様子がいつもと違っている。自慢の長いまっすぐな黒髪は、すっかり入り乱れてくしゃくしゃになっていたし、目の下には小さなクマまで出来ている。

 驚いたのはそれだけではなかった。彼女の胸に抱えられていたもの――。それは、ぎゃあぎゃあと泣きわめく赤ん坊だったのである。いつまで経っても泣き止む様子のない赤ん坊を抱えながら、西野さんの表情が徐々にゆがんでいった。

「ふええええん……」


「摩耶ちゃん、その子、どうしたの?」

 まっ先に駆け寄ったのは乙女さんである。すると同時に、背後でドサッと大きな音がした。振り返ると、カウンターでマスターが卒倒していた。どうやら、西野さんが赤ん坊を抱えていたことが、想像を絶するショックを彼に与えてしまったらしい。


 まだ肩が小刻みにひくついているけど、ようやく西野さんのすすり泣きも一段落ついたみたいだ。赤ん坊のほうも、乙女さんと僕とのなりふり構わぬ連係プレーによって、どうにかおとなしくなって、よほど泣き疲れたのか、そのまますやすやと寝込んでしまった。やれやれ、こうやってみると、案外と可愛らしいものである。

 誰からも心配されていなかったマスターも、どうにか意識を回復させたみたいで、入り口の扉へ行って、掛かっているオープンプレートをひっくり返した。

「やれやれ、今日は店を臨時休業にするしかないようだね。幸い、まだお客さまは来ておりませんよっと……。

 さあ、摩耶ちゃん。事情を詳しく話してもらおうか?」

 マスターが西野さんに優しく問いかけた。それに応じて、うつむきながら西野さんが語り始めた。

「それは今日のお昼のことでした。私は公園のブランコに乗って、ラ・グルナードに行こうかどうかを考えていました」

「ブランコに乗って……?」

 マスターが目をぱちくりさせた。

「ええ、天気がいい日だと、私は考え事をする時によくブランコを利用します。適度な重力が感じられて、心地よいのです」

「やっぱり、摩耶ちゃんって、天然、いえ、独特ユニークなのねえ」

 後ろで乙女さんがくすくす笑っている。

「そしたら、赤ちゃんの泣き声がするので振り返ってみると、乳母車が置いてあって、中にこの子がいたんです。置手紙が一緒にあって、どうかこの子の世話をしてあげてください、と書かれてありました。つまり、この子は捨て子ということです」

「すなわち、摩耶ちゃんが産んだ子供ではないということだよね。ああ、よかった」

 マスターが胸をなでおろした。

「よかったなんて、不謹慎な発言をこんな非常時にしないでください!」

 出た。西野さんのマスターへの無意識ツンデレ攻撃カウンターだ。

「そばに誰かいなかったの?」

 乙女さんが場をおさめるように質問をした。

「振り向いた瞬間は乳母車しかありませんでした。公園にも、その時には私しかいなかったですし」

「でも、赤ちゃんを置き去りにした母親は、摩耶ちゃんがブランコに乗っているのを見たから、赤ちゃんを置いていったのよね」

「そうですね。もしかしたら、近くに母親が隠れていた可能性はあります。あの辺りは適当に木立も建物もありますから」

 西野さんは考えながら答えた。

「紙に生年月日が書いてあるわ。ふむふむ。生後三か月と二十日か。性別は男の子よ。でも、名前は書かれていないわね」

 受け取った置手紙を眺めながら、乙女さんが首を傾げた。

「そりゃそうだよ。名前なんか書いてしまえば、逆に捨て親が突き止められちゃうじゃないか」

 すかさず、マスターが付け足した。

「ああ、なるほどね」

 乙女さんが納得した。

「この置手紙だけどさ、ご丁寧にわざわざ文章作成ソフトで打ち込んでから、印刷されているよね。これでは母親の筆跡すら分からずじまいと言ったところか……」

 マスターが手紙に目をやって、意見を述べた。もっとも筆跡が分かったところで、母親を見つける手掛かりになるとは思えないが。

「でも、赤ちゃんの名前が分からないとなると、これからなにかと困るわねえ」

 乙女さんが困ったように付け足した。すると、間髪を入れずに、西野さんが答えた。

「じゃあ、名前は、摩太郎またろうにします」

「えっ、摩耶ちゃん。さすがに、それはちょっと……」

「西野摩太郎。うん、いい名前です。この子は私が責任を持って育てます」

 そういって西野さんは眠っている赤ん坊を嬉しそうに抱きしめた。

「ええと、育てるっていったって、そんな簡単なことじゃないんだよ。まずは警察へ届けないと、まずくないかなあ」

 さすがに四十を超えたマスターは、考え方も冷静で現実的だ。

「問題はありません」

 西野さんがあっさり否定をすると、途端に、目を覚ました赤ん坊がまた泣き始めた。

「ああ、また泣き出しちゃったよ。いったい、どうしたらいいんだろう」

 マスターがうろたえている。常にマイペースたる強者つわもののマスターと言えど、相手が赤ん坊となると、全く無力な存在と化すようである。

「はい。私もさっきから泣く理由が分からなくて……」

 西野さんも余裕がなくなってきて、暴走寸前のご様子である。

「摩耶ちゃん、公園にいたのは何時だっけ?」

 どうやらこの場で一番冷静なのは、乙女さんのようだ。

「ええと、一時頃です」

「もしかしたら、この子、お腹がすいているんじゃないのかしら」

「私もそれは考えましたけど……」

「この子を見つけてから何も口にしていないわけよね。きっとそうよ。もう、五時間以上経過しているのだから、無理もないわ」

「だから、私は一応努力を試みたんです」

「なにを努力したの?」

「この子に私のおっぱいを吸わせてみました。残念ながら何も出ませんでしたけど……」

「ええっ、摩耶ちゃんの生おっぱいを!」

 マスターが絶句した。

「今日ほど我が貧乳を情けないと感じたことはありません……」

 大真面目な顔で、西野さんが愚痴をこぼした。

「だって、摩耶ちゃんはお母さんじゃないんだからさあ、母乳が出ないのは仕方がないことだよ……」

 マスターが笑いながら返したけど、案の定、反撃カウンターの餌食と化すこととなる。

「そんな安易な問題ではないのです! このままではこの子は飢え死にしてしまいます。でも、何を食べさせたらいいのか、私には分からないのです」

 西野さんが悔しそうに吐き捨てた。

「母乳が出ないのなら、ミルクを飲ませるしかないわね。アドニス君、そこのドラッグストアで赤ちゃん用の粉ミルクを買ってきて」

 乙女さんがちらりと僕に目を向けた。

「ええ? 僕がですか……。ええ、もちろんかまいませんけど。ええと、どんな商品の粉ミルクを買えばいいですかね」

「ああ、平野君。定員さんに聞いてみて、一番高いのを買ってきてよ。予算は気にしなくていいからさ」

 やった。マスターの鶴のひと声によって、どうやらお金に関する心配はなくなったみたいだ。

「あのう、粉ミルクってドラッグストアで買えるんですか?」

 西野さんはキョトンとしている。

「摩耶ちゃんって、その辺の日常的な知識には、とことん弱いのね」

 乙女さんがくすっと微笑んだ。


 近所のドラッグストアまでは、走れば10分じゅっぷんとかからない。僕はお店の定員に確認をしてから、生後三か月の赤ちゃん用のちょっと値段が高い粉ミルクを購入した。

「あの、哺乳びんはお持ちでしょうか?」

 頼りない僕の振舞いに気付いた定員さんが、それとなく気をつかって訊ねてくれたから助かった。

「ああ、それも必要ですよね。ええと、ほかに必要なものはないですか」

「計量スプーンはこの商品にはあらかじめ添付されていますから、ほかに必要なものと言えば、煮沸消毒用の容器などはご用意いただいた方が何かと便利かと……」

 単にミルクを飲ませるだけでもこれだけの用品を買わなければならないのか。僕は、唖然としつつも、定員さんからミルクの作り方とか飲ませ方をしっかり聞いて、それから走ってラ・グルナードへ戻った。

「今、帰りました。すぐにミルクを作りますね」

 すると、今度は店の中になんとなくいやな臭いが充満していた。乙女さんも西野さんもあたふたと戸惑っている。考えてみれば、ここにいる四人はいずれも子育て経験値がゼロなのだ。マスターが慌てて僕のそばまでやって来た。

「ああ、平野君、本当に申し訳ないんだけどさあ。もう一回行ってくれないかなあ。今度は紙おむつを買ってきてよ……」


 再度、僕がドラッグストアから戻った時、店内に西野さんと赤ん坊の姿はなかった。

「紙おむつと、厚手のおしりふきと、ふた付きおむつ処理バケツを買ってきました。ところで、西野さんと赤ん坊は?」

 息をぜいぜいと切らせながら、僕は訊ねた。

「摩耶ちゃんが、お店が臭いでくさくなると申し訳ない、と言って、赤ちゃんといっしょにトイレに閉じこもっちゃったのよ。そんなに気を遣わなくてもいいのにねえ」

 乙女さんが答えた。

「ミルクはできているよ。いつでもOKさ」

 マスターがカウンターの向こうから顔をのぞかせた。

「摩耶ちゃん、おむつ買って来たって。出ていらっしゃい」

 乙女さんの呼びかけに応じて、西野さんが赤ん坊と一緒に出てきた。相変わらず赤ん坊はぎゃあぎゃあと泣きわめいているのを、西野さんが半べそをかきながら必死に抱きかかえている。

「まずは、おむつ交換が先ね。じゃあ、アドニス君」

 乙女さんが目で指示を出した。

「えっ、僕がですか?」

「おむつの交換は私がやります」

 西野さんが強く宣言した。

「えっ、そのう、摩耶ちゃん大丈夫なの?」

 想定外の展開に、乙女さんは戸惑っていた。

「もちろんです。摩太郎は現時点で私の乳首をしゃぶったことがある唯一の男性です。彼のためなら、便の始末くらい何ら苦痛ではありません」

「ああ、摩耶ちゃん。正直なのは美徳だけど、そういうことは、思ってもあまり積極的に口に出さない方がいいかもしれないね」

 西野さんのちょっと過激な発言に対して、マスターが助言した。

「それに、私がおむつの交換のやり方を覚えなければ、意味がありません。さあ、やり方を教えて下さい」

 西野さんはマスターの気遣いに気付くことなく、目先の目的に専念していた。

「それもそうね。じゃあ、アドニス君、やり方もちゃんと聞いて来たわよね」

「もちろんです。じゃあ、さっそく始めましょう」


 結局、赤ん坊のおむつは、西野さんがみずから取り替えた。汚れたおむつを処理バケツにおさめて、ようやく店の中に立ち込めていた便の臭いもやわらいできた。

「これで大丈夫。じゃあ、次はミルクを与えるわよ。摩耶ちゃんは急いで手を洗って来て」

「はい」

「ああ、摩耶ちゃん、そこの従業員用の手洗い場を使ってよ。消毒剤もあるからさ」

「ありがとうございます」

 西野さんが手洗い場へ駆け込んでいった。そのあいだ、僕は四方の窓を空けて換気を行った。時刻は八時近くになっていたが、窓を開けてもそんなに寒くはない季節になっているんだなと、その時僕は初めて思った。

 やがて、西野さんが戻ってくると、マスターが準備した哺乳びんを西野さんへ手渡した。温度はマニュアルどおり人肌よりもちょっと熱くなっているように調整してあるらしく、マスターは我ながら完璧だったと、自画自賛していた。

 西野さんが赤ん坊の口元へそろそろと哺乳びんの吸い口を近づけたけど、一瞬興味を示すそぶりを見せたものの、赤ん坊はすぐにプイっと横を向いてしまって、また泣き出した。

「おかしいわねえ、お腹はペコペコのはずなのに」

「なにか病気にかかってしまったのでしょうか。長いことおむつを汚いままにしてしまったから……」

「あはは、それはないよ、摩耶ちゃん」

「でも、どうして飲まないのかなあ……」

 子育て経験のない僕たち四人は、再び思考に沈んだ。

「もしかしたら、この子、母乳で育てられたからじゃないかしら」

 突然、乙女さんが手を叩いた。

「つまり、母乳しか受け付けないと?」

 マスターが聞き返した。

「うーん、それは分からないけど、この子、お乳を飲む時には、いつも抱きかかえられて飲んでいたんじゃないかしら。だから、抱っこされないと飲もうとしないのかもしれないわ」

「なるほど、妙案だ。だったら、摩耶ちゃん、その子を抱きかかえながら、哺乳びんを与えてみたらどうかなあ」

「はい、やってみます」

 西野さんが赤ん坊を抱きかかえた。でもすぐに何かを考え込むように動きを止めてしまった。

「皆さん、ちょっとうしろを向いていてください」

「えっ、どうしてさ」

 マスターがキョトンとした。

「これから私の胸を出して、それから摩太郎に哺乳びんのしゃぶり口を当ててみます」

「ああ、摩耶ちゃん、そこまでしなくても、たぶん抱っこしただけで大丈夫じゃないかなあ」

 マスターが手を挙げて苦笑いをした。

 乙女さんの着想どおり、抱きかかえられた赤ん坊は喜んで哺乳びんを口にした。もちろん西野さんが素肌をさらけ出すことなしに、抱っこされることで授乳を受け入れた感じだった。


 最終的に赤ん坊が満足し切って寝付いたのは、八時半だった。その間、店が開いていると思ってやって来た客に、急きょ店をたたんだ言い訳に奮闘するマスターの姿が、少なくとも三回はあった。

 西野さんはと言えば、さっきからずっと乙女さんと一緒に赤ちゃんの育て方に関するネット検索に夢中だ。ミルクの与え方。便のしまつ。お風呂の入れ方と、夜泣きの対処。もどしたりした時の処置など、乙女さんが次々と調べるのを西野さんが必死にメモを取っていた。

「みなさん、おなかが空いたでしょう。パウンドケーキを食べましょう。なにしろ大量に残っていますからね」

 気を利かせて僕が提案した。どうせ今日処分しなければならない品物だ。

「全部タダでいいよ。みんな、今日は頑張ったからねえ。僕からのおごりさ」

 マスターから、僕が期待した通りの発言が返ってきた。

 パウンドケーキと極上の紅茶を飲み終えると、ようやく気持ちも落ち着いてきた。やはり甘い物って思考には不可欠なものだと、あらためて感じさせられた。

「やれやれ、寝込んじゃえば、なかなか可愛らしい赤ちゃんじゃないか。ところで、摩耶ちゃん、本当にこの子の面倒を見る気でいるの」

「武士に二言はなし。摩太郎は、この私が立派な大人に成長させてみせます」

 マスターの心配の核心にまるで気付いていない様子で、西野さんが答えた。

「そうかい。じゃあ、ちょっとだけ、この可愛い子の寝顔を撮らせてもらってもいいかな」

 マスターがポケットからスマホを取り出した。彼にこんな趣味があったとは……。


 それから小一時間の後に、西野さんは大切そうに赤ん坊を抱きかかえて、店から出ていった。乙女さんが心配をして、最後に携帯の連絡先を西野さんへ手渡したけど、西野さんは、たぶんご迷惑はおかけしません、と軽く返していた。

「大丈夫かなあ、平野君。摩耶ちゃんに子育てなんて、土台無理なんじゃないのかなあ」

 西野さんが去ってからも、マスターはまだ愚痴をこぼしていた。

「ところで、摩耶ちゃんの家族構成って、どうなっているの?」

 乙女さんがなにげなく訊ねてきた。

「ええと、たぶん、一人暮らしじゃないかと」

 僕が答えた。

「なんですって!」

「はい、たしか地元の人ではないと、かつて聞いたことがありますけど……」

 怒ったような乙女さんの言葉を聞いているうちに、僕はしだいに事の重大さが理解できてきた。

「そんな大事なこと、なんで早く言わないのよ!」

「そう言われても……」

 乙女さんが慌てて店を飛び出して、追いかけようとしたけど、その時には、西野さんと赤ん坊の姿は、もうどこにも見えなくなっていた。

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