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1.濡羽色(le Noir)

「ほほう、無粋ぶすいがトレードマークの君でも、さすがに気にかかるのかな?」

 カウンターから不意を突いて声を掛けてきたのが、洗いたてカップの水滴を白ナプキンで拭っているこの店のマスターである。

 本名、羽出はで純男すみお。今年で四十の大台を越えたマスターは、去年はじめに晴れてこの店をオープンさせたのが、ようやく最近になって固定客も増えてきて、商売が徐々に繁盛しつつある。たしかその前は、とあるベンチャー企業のサラリーマンとして働いていたらしいが、ある日突然その会社がばったりと倒産して、散々路頭に迷った挙句、当時近所からお化け屋敷と恐れられ、誰しも寄り付かなかっていた廃墟を、破格の安値で買い取って、たった一人で改装工事と格闘した末に、ついには、瀟洒しょうしゃな紅茶喫茶店までに仕立て上げたそうである。ちなみに、いまだ独り身だ。

 さて、ここまでの武勇伝エピソードを耳にされた読者は、マスターのことを、さぞかし勇猛果敢ゆうもうかかんで、徳高望重とくこうぼうじゅうなる人物であろう、とご想像をされたかもしれないが、実態はその真逆で、マスターはさしずめ軽挙妄動けいきょもうどうで、変幻自在へんげんじざいな人物にほかならないのである。その証拠に、かつてのマスターに僕はある質問をしてみたのだが、その返答たるや、かくのごとしであった。

「どうして紅茶喫茶にしたかだって?」

 少しも表情を変えることなく、しごく当たり前のごとく、マスターは動機を語り始めた。

「そうだなあ。ありきたりの無難な珈琲屋にしようと考えたことは、たしかにあったよ。でもそうするとさ、ゆくゆくは腰のひん曲がった近所の爺さん婆さんたちのいこいの場と化してしまうのが目に見えている。ところが、おしゃれな紅茶喫茶にしてみたらどうだ。今度はぴちぴちギャルや美人マダムたちがこぞって店を埋め尽くすこと大請け合いさ。こっちのモチベーションだって全然変わってくるってものじゃないか」

と、まあこんな調子だ。


 僕が何者かって? そうだなあ。いったいどこから話せばいいのか。とりあえず、名前は平野ひらの尋人ひろと。近所の某私立大学へ通う、親が付けてくれた実名のごとく、極めて平々凡々たる学生で、とりわけ才能というものに関して他人よりも突出せしものは何ら持ち合わせてはいない。部活とかサークルとかの集団協力系活動は根っから性に合わず、ゆえに、授業が終わればさっさと帰宅するよう心掛けている。都会にあこがれ、はるばる地方から上京をし、一人暮らしのアパート住まいをしているが、通学に要する時間は片道たかが二十分。それゆえ、あまりにもすることがなくなって、閑暇かんかとの戦いに打ちひしがれた末に、ついにはこの店でバイトをするようになって、かれこれもう半年が過ぎようとしている。今では仕事の要領もしっかりと板に付いてきて、接客にもそつがなくなったと、ささやかなる自己満足にひたりつつある今日この頃だ。まあ、自分で言うのもなんだが、容姿だけはそれなりの基準を克服クリアしているから、実際のところ、僕に会うのを目当てにこの店へいそしく足運ぶご年配の婦人(マダム)たちが少なからず存在することを、はばかりながらもここに一筆加えておく。


 話がそれてしまったようだが、そもそものことの始まりは……、そうそう、カップを拭いていたマスターがさりげなく声を掛けてきたことからだった。

「また来ているな。それに、ほら……。前回と同じく、玉座ぎょくざの間にお座りあそばせているぜ」

 マスターが店の奥をあごで示した。

「僕は初めて拝見しますけど、以前にも来たことがあるのですか?」

「彼女は二週間前から顔を出してきて、今日で三度目かな。きっと、ラ・グルナードが気に入ったのだろうね」

 ラ・グルナード(la Grenade)とは、この店の名前である。たしか、とある果物を意味するフランス語だそうだが、肝心のその果物の名前を僕はすっかり忘れてしまった。

「それにしても、きれいな人ですね……。あっ、失礼しました」

 思わず口からこぼれた言葉に、僕は自ら赤面をさせられる羽目となり、しかもその一部始終をマスターにしっかりと見られてしまった。

「はははっ、気にする必要なんかないさ。悲しむべきことに、我々男性諸氏は、大なり小なり、麗しき女性に絶えず興味と欲望を抱き、同時に常時振り回され続けることとなる。されど、それこそが、人生における最大の宿命であり至高の享楽でもあるのさ。しかも、相手が稀代きだいまれに見る淑女レディとなれば、なおさらだよね」

 僕たちの視線は玉座の間とおそれ多い名前が付けられた一番奥のテーブルに座っている一人の人物へと向けられた。ほかのテーブルと違ってこのテーブルだけが、建物の構造上のやむを得ぬ事情のために、コの字型にへこんだ壁にくっつけてセッティングされていて、一つだけポツンと取り残されていた。椅子は壁のくぼみにすっぽりと収まっていて、一人だけならかろうじて座れるものの、左右の壁に挟まれて身動きすらしづらい窮屈な席であり、ほかのテーブルが空いていれば、誰も好き好んでこんな席に座ろうとする客などいようはずがないし、そもそもこの店が満員客で埋まるようなことはまず実現不能であり、すなわち、この玉座の間が使用されることは理論上あり得ないことなのであるが、今この席に座っている女性は、マスターの話によれば、なぜかいつも自ら進んでここに陣を取るそうである。

 玉座の間は、僕たちがいるカウンターからはちょうど真正面に当たるので、着座した人物の顔を僕たち店員たちはたやすく眺めることができるのだが、ほかのテーブルに座る客たちからはへこんだくぼみの壁が邪魔をして素顔が見えにくくなっているのが特徴だ。

 そう、その話題の種となっている彼女こそが、何を隠そう、絶世の美女なのである。

 絶世の美女――。この使い古されたありきたりの言葉を僕があえて用いたのは、ほかに適切な言葉が思いつかなかったからだ。僕だって若輩ながら二十年余りの人生を生きて来たけれど、テレビに映る女優も含めて、いまだかつてこれほどの美人を見たことがなかった。背中まで伸びたさらさらストレートの黒髪。たまご型の小さな顔。メイクはごく控えめに施されているに過ぎないが、その必要性を全面否定するかのような染み一つない白い陶器のような地肌。傍にいる異性たちの気持ちを片っ端からとりこにしてしまうサキュパスのような美貌。美人といっても、目鼻立ちにこれといって際立った特徴があるわけではないが、あえて挙げれば、鼻と上唇の間隔が若干狭いくらいで、どちらかといえば、長所がここだというよりも、短所が何も見つからない、といった感じの、すべてのパーツが未完成な幼児を彷彿とさせる純真無垢な雰囲気オーラで、彼女は埋め尽くされていた。背丈は平均的な女性と比べればやや高めのようだが、姿勢や仕草は上品この上なく、まるでモデルのごとしであった。モノトーンのロングスカートワンピースを着ているため、ボディラインがはっきりと確認できないのが残念至極だが、しなやかな身動きの際にわずかに身体にまとわりついた布の形状から、彼女のスタイルが見事なまでの細身スレンダーであることは、もはや疑う余地がなかった。


 ナッツミルクティーのスコーンセットを注文した彼女は、最初は何もいれない紅茶を一口すすってから、物思いにふけるようにふっとため息を吐いた。それから優雅な手付きで砂糖とミルクをこの順番でカップに少しずつ溶かし込んでいった。しばらくして、持参したバックからおもむろに文庫本を取り出すと、それに静かに目を通しながら小一時間ほどをかけてゆっくりとお茶を嗜んで、やがて静かに席から立ち上がり、無言のまま現金で会計を済ませて、軽く会釈をしてから、店をあとにした。

「美しい人でしたねえ。また来ますかねえ」

 彼女がいなくなると、僕はマスターに声をかけた。

「うん、大人の色気をむんむん放出しまくっていたね。年はまあ三十前後といったところかな」

「ええっ、まさか? あの幼顔ですよ。もしかしたら彼女は僕より年下かもしれませんよ」

「はははっ、それはないよ。君より年下ってことは高校生ってことじゃないか。はばかりながら、女性に関して百戦錬磨のこの僕でさえも幻惑されたあの色気は、そんじょそこらのティーンエイジャーに出せっこないさ。あれはまごうことなく数人の男性経験を済ませた女性だからこそ発せられる大人の色気だよ」

「そんなものですかねえ」

 マスターの力説を全面的には納得できなかったが、とりあえずここは引き下がっておく方が賢明だ。

「まあ、二十歳はたちの君にはまだ難しすぎる話だろうけどね」

 得意げになったマスターはさらなる追い打ちをかけてきた。実は、僕は先月に二十二になっているのだが、この件に関しても口答えは差し控えておいた。

「ところで、彼女の素性はどんな人だと思う?」

 突然、マスターの目がきらりと輝いた。

「そんなこと分かるわけがないじゃないですか。今、はじめて姿を拝見しただけですから」

「ちっちっ、相変わらずぬるま湯にかったカエルだね、君は……。今後の人生において、かくも美しき乙女と再度巡り合えるなど、たとえ地球が三角になろうとも、期待することなかれ。いいかい、今は千載一遇、空前絶後の好機チャンスが到来しているのだよ。しがない店マスターと行きずり客のささやかな関係でかまわない。彼女と知り合えたら、どんなに人生が楽しくなるだろうか……。それに、三十分もかけて一人の人物を観察すれば、色々と情報も得られるってものさ。どうだい、これから彼女がどんな女性なのか、僕たちのたぐいまれなる頭脳を駆使して、当ててみようじゃないか」

 マスターの相変わらずの気まぐれな提案であるが、今回はさほど悪い気はしなかった。

「まずは君からだ。君の推理を述べて見たまえ」

「ずるいですねえ。言い出しっぺじゃないのですか。じゃあ……、そうですね。

 とりあえず、マスターの意見が正しくて、彼女は一見若そうに見えるけど、実は三十前後アラサーだったと仮定しましょう。だとすれば、彼女の正体はセレブのご婦人――で決まりですね。理由は、ひとつひとつの仕草に品があったし、あれだけきれいな女性ですから、有名芸能人やベンチャー企業の社長みたいな御曹司が、絶対に放っておくはずがありませんからね」

「美人、イコール、セレブという発想は、いささか短絡的であり、なおかつ無味乾燥的なきらいがあるな。じゃあ、ひとつ要点を言わせてもらおう。

 彼女に近づくと、きれいな黒髪から突如いい香りがふっと漂ってきたけど、それは強制的な匂いを発する香水によるものではなかったね。彼女は実際に香水を付けてはいなかったんだ。香水を付ける必要に迫られていない女性――、つまり、彼女はタバコを吸わない女性なのさ」

「なるほど」

「それにあの肌の白さを見たかい。出身地は間違いなく秋田か津軽といったところだろうね。日照時間が圧倒的に少ない土地の女性って、みんな肌が白くてきめ細やかなんだよ。とどのつまり、彼女は生粋の東京都民ではなく、地方出身のはずだ。ところが、わずかに口にした彼女の言葉からは、少しも訛りらしきものが感じ取れなかった。ゆえに、彼女が東京へやって来てから随分と時が経っていることになる。地方の訛りが完全に抜けるまでとなると、少なくとも十年といったところだろうか。これも、彼女が見た目以上に年齢を重ねている可能性を強く示唆している。

 ところで、君が彼女を見たのは今日が初めてだと言ったね?」

「ええ、初めてです」

「そうかい、じゃあ、もう一つ貴重な情報を提供してやろうか。

 いいかい、彼女がこの店へ姿を現わしたのは今日で三回目。最初に顔を見せたのが、二週間前の土曜日の午前、二回目が先週の土曜日の午前、そして、今日が三回目で日曜日の午前だ」

「なるほど、最近土曜日は午後しか顔を出していませんでしたから、彼女に会うことができなかったというわけですね」

「そういうこと。彼女の訪問は週末の休日の午前に限定されている。さあ、ここからなにか新しい情報がつかめないだろうか」

「逆に見れば、彼女は休日にしか来店できない境遇に置かれた人物だと断定できます」

「その通りだ。では、休日にしか顔を出せない境遇とはいったいどんなものだろうか?」

「それは……、さて、どういう境遇なんでしょうかね?」

 急に振られても、とっさに気の利いた解答は思い浮かばなかった。

「例えば、彼女はOLだ。土日以外の日には会社へ出勤しなければならなくて、しかもその会社のある場所がこの界隈ではない。だから、会社が休みとなる土日限定でここへ顔を出すというわけだ」

「極めて自然で通俗的な解答ですね」

「ふん、ならば君には何か面白い答えがあるとでもいうのかい?」

「そうですね。彼女は高級住宅街に住む富豪の令嬢。父親のしつけが厳しくて、普段は家から出ることすら許されていない。しかし、土日になると、父親がゴルフへ出かけてしまうから、こっそりと目を盗んで家から抜け出すことが可能となる。そのしばしの間に、この店で一時いっときのリラックスを楽しんでいるというのはどうでしょうか」

「なるほどね、なかなか面白い解答じゃないか。ただ、温室育ちのご令嬢にしては、お色気がちょっと過剰な気がするけどね。それに財閥のご令嬢なら、こんな路地裏のちっぽけなカフェにお供も連れずに一人でやって来るだろうか」

 今時、そこまで純粋培養で育てられたお嬢さまがいるのなら、ぜひお目にかかりたいですねと、くだらない反論をしたくなった自分を、僕はかろうじて抑えることができた。

「それなら、彼女は夜の街で売れっ子のホステスで、平日の昼間は家で寝ているけど、仕事がない休日の昼間にこの店へやって来た、というのはどうでしょう」

「却下だ。彼女から発せられる上品なオーラは、夜の街のホステスという印象をこれっぽっちも感じさせないよ」

 腕組みをしながら、マスターが首を横に振った。

「結局、彼女の色気って、ホステスには足りなし、令嬢にはあり余し、ってことですか……」

 マスターの身勝手な意見に対して、僕はため息を吐いた。

「仕方がないなあ。じゃあ、いよいよ僕の本命の解答をご披露しようかな……」

 満を持した様子で、マスターが切り出してきた。

「彼女は、年齢が三十前後で、しかも独身だ。OLなど、なにかしら自立した職業に就いている。仕事に関しては有能でかなりのやり手だ。その根拠はなにかって、それはね、あれだけの美貌を持ちながらいまだ独身であるという事実だ。いい換えればそれは、彼女が仕事に縛られて、私生活まで十分にゆとりが回せないことを意味している。したがって、日々の生活において彼女は何かとストレスが溜めている。だから土日の休日になると、癒しを求めてこの店へ顔を出すのだよ。これまでに交際した男性の数はずばり三人。セックス経験はありだ。でも、今は彼氏がいなくて恋愛フリー状態。恋愛はもうごめんだと自問自答を繰り返しつつも、実は無意識に新たなる出会いを求めている。それでふらふらとこの店へ舞い込んできた、というのが真相だろうね」

 マスターは自信ありげに自己主張を展開した。結局、マスターの意見って、彼女に対してこうあって欲しいという自身の願望に過ぎないのだと、ここへ来て僕はようやく確信を得たわけだが、それをあえて口にするのも、僕の強靭な意思を駆使して、どうにか踏みとどまることができた。


 翌週、彼女が再度顔を見せたのは、水曜日の午後三時を過ぎた頃だった。たまたま僕は、その時、大学の授業が臨時休校となり、午後が完全に空いてしまったので、ラ・グルナードにやってきて仕事をしていた。想定外の週日来店に、僕とマスターはそろって目を丸くした。

「それじゃあ、美人との会話を楽しんでくるか。ああ、今回は僕が行くから、君はここで待機していてくれたまえ」

 マスターは僕を押しのけて、そそくさとカウンターをあとにすると、注文を受けたトレーを片手に、玉座の間に座る彼女へと近づいていった。

「お待たせいたしました。本日のティーセットでございます。紅茶はアールグレイ、それに、こちらが手作りのアプリコットジャムを添えたスコーンでございます」

 彼女は無言で軽く頭を下げた。

「ああ、それから、これもどうぞ」

 マスターがテーブルに置いたのは、スペシャルメニュー時にだけ提供されるティラミスプリンだった。

「あの、わたし、これは注文していませんけど……」

 不安そうな小声で、愛らしい口が静かに動いた。ちょっと高めのトーンの、比較的落ち着いた声だった。店には客がほかにいないうえに、僕もしっかりと聞き耳をたてているから、ここからでも彼女とマスターが交わす会話が手に取るように聞き取ることができた。

「ああ、それですか。それは美人のお姉さんへ、私からの心ばかりのサービスです。たしか、この前もうちへいらっしゃいましたね。今後とも当店をよろしくお引き立てお願いいたします」

 普段らしからぬ言葉を返したマスターは、ホストを思わせる丁重さで、彼女に頭を下げた。

「そういうことですか。ありがとうございます」

 ほっとしたように彼女は口元を緩めると、マスターに目を向けることなくぺこりと頭を下げた。すると、長い黒髪が耳元から前方へさらりとこぼれ落ちた。

「あっ、そうそう。お近づきのしるしにこちらをどうぞ」

 さりげなく自然な流れを保持しながら、マスターは巧妙に彼女に名刺を手渡すという試練クエストを達成した。彼女はもらった名刺を手に取り、少しの間じっと見つめていた。

「デワさん……?」

「いえ、デハではなく、羽出はでと申します」

「ああ、ハデさんですね。失礼いたしました。なるほど、お名前どおりの……」

 彼女は何かを言おうとして、口ごもった。おそらく、マスターの身体の随所に装着された金属アクセサリーを見て、お名前のとおり派手な方ですね、と言おうとしたのを思いとどまったのであろう。

「そうです。名前の通り、本当に純朴な男でしてね。僕は……」

 ちなみに、マスターの本名は羽出純男だ。

「さすがはお客さま。実に見る目がお高い」

 追い打ちをかけるように、マスターが彼女を褒めたたえた。

「ああ、そうですか……」

 そう答えると、細長い指先で口元を軽く覆いながら、彼女はほほ笑んだ。


 カウンターに戻ってきたマスターは、鼻の下をデレデレに伸ばしていた。

「いやあ、可愛い子だね。あの小さな頭をなでなでしてあげたかったなあ……」

 彼女に聞かれたら完全アウトのセクハラ発言である。

「たしかに落ち着きがありますけど、僕にはどうしても彼女が三十前後アラサーには見えませんけどね」

 率直な意見を、僕はマスターへぶちまけた。

「いやいや。彼女が持っているあの高級バッグを見たまえ。正面に『C』のマークが付いている。あれはクロエというフランスの有名ブランド品だ。学生にはまず手が出せないしろものさ」

「なるほど」

 僕は感心して仕事へ戻った。玉座の間の彼女は、それからいつものルーティーン通りに小一時間ほどくつろいでから、会計を済ませにカウンターへやって来た。

「入り口の貼り紙に学生の割引サービスがあると書いてありましたけど……」

 か細い声で、彼女が言った。

「ええ、最近は学生さんのお客も多くなってきましたからねえ」

 レジ前の僕を押しのけて、マスターが横やりを入れてきた。

「では、学生の割引サービスをお願いします」

「学生さんですか?」

 マスターの口がポカンと開いた。

「はい、学生証を出しましょうか?」

「ど、どうして水曜日なのに、ここへ来たのですか?」

 想定外の展開に、マスターは完全にうろたえている。

「今日は授業がお休みになったので、それにここの紅茶は美味しいから、来ました」

「でも、その高級ポーチは……?」

 なおもしつこくマスターが食い下がった。

「高級ポーチ? ああ、これはクロエの模造品コピーです。しかも、質の悪い偽物イミテーションですね。合成皮革フェイクレザーで肌触りがごわごわだし、色も少し赤みが強くて、本物と比べて品がないのです。もっとも、私はそこが可愛くて気に入ってますけどね。それにロゴマークの『C』だって、ほら、見てください。おかしいくらいに大き過ぎでしょう」

 そういって、彼女は右手を口元にかざしながらくすくすと笑った。

「精巧に造られた模造品を購入してしまうと、オリジナルのブランド会社に迷惑がかかりますけど、誰が見ても一目で偽物と分かるこのバックなら、さすがに迷惑を掛けるレベルではありませんから、私はこれを愛用しています。もっとも、本物のクロエだったら私たち学生にはまず手が出せませんけどね」

 彼女が差し出した学生証を見て、僕は驚いた。それは僕が通うJ大学の学生証だった。とっさに僕はそこに書かれた個人情報を、驚異的な集中力を駆使して、一瞬で読み取った。

 彼女の誕生日は八月八日。年齢は僕と同じであるが、僕は早生まれなので、彼女の学年は僕より一つ下であることになる。そして、名前の欄には、西野にしの摩耶まや、と書かれていた。

「これからも当店をよろしくお願いいたします」

 支払いを済ませた彼女に、放心状態のマスターがか細い声であいさつを告げた。さすがに、四十歳ふわくの男が二十歳はたちの女子大生と恋愛を成就させることは、極めて難しかろうと推測される。

「また立ち寄らせていただきますわ」

 マスターの想いを察することなく、彼女はそう言葉を残して、小さくお辞儀をした。すると、濡羽色ぬればいろをしたつややかな彼女の長い髪が、ふたたび、耳元からさらりとこぼれ落ちた――。

 日常ミステリ―を各章完結形式で書いていきたいと思ってます。どうぞよろしく。

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[一言] 楽しみに読ませて頂きます
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