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フローリングの床は毛羽立ち、みょうに波打っていた。何度も何度も、なにか硬いものを叩きつけたように。右手のドアはすっかり外れ、バス・トイレに通じるらしい空間が覗いた。懐中電灯で照らすと、その右側に浴室のドアがあり、蝶番が半分外れたまま、引っかかっていた。
小部屋に足を踏み入れ、ドアを大きく開け放った。脱衣所と浴室の間の磨りガラスが、おそらくバットのようなもので、叩き割られていた。
銃をつかむように、懐中電灯を突き出したまま、浴室が見えるところまで進んだ。靴がガラスを踏む音が、痛んだ神経に響いた。シャワーは途中から引きちぎられ、ひび割れたタイルの上に転がっていた。蛇口から水滴がしたたり、生々しい音をたてた。
浴槽いっぱいに、水が張られているのだ。
覗きこんだ瞬間、叫び声が口をついて出た。
錆を溶かしたように濁った水。そこに沈んでいたのは、防犯カメラに映っていた繭美のワンピースに違いなかった。まるで大量の返り血を浴びたように、黒ずんだ染みをべったりと纏いつかせて。
くすくすと、背後で女の子が笑った気がした。
びくりと振り返った。ドアの向こう。ダイニングの床の上に、少女のシルエットが、こちらを向いてじっと立っていた。
裸足のまま、濡れた長い髪を顔に張りつかせ、人形のように微動だにせず。
少女の左腕には、ドレスを着た骸骨人形が、猿のように、逆さにしがみついていた。
「……夏奈未!」
懐中電灯の光を向けたときには、けれど少女の姿はすでになかった。
小部屋を飛び出し、光線をさまよわせたけれど、人影を捉えることはできないまま……ただ、さっきまで確かに閉ざされていた、居間へ通じるドアが開いていることに気づいた。
私は無意識に、ハンマーを握りしめていた。
「いるのか? 夏奈未」
六畳ほどの洋室に、少女の姿はどこにもなかった。ぴったりと閉ざされたカーテンのほかは、やはり机もベッドもないが、ダイニングと違い、荒らされた痕跡はまったく見出せなかった。
ただ、フローリングの床に突き立てられた、血まみれの包丁を除いて。
私は強いて思考を停止させた。何も、考えたくなかった。考えてはいけなかった。ここで行われた出来事について……
きんっ……
耳鳴りと区別がつかないほど、小さな音だった。反射的に私の視線は右側の、両開きのクローゼットに釘付けにされていた。
私の背を超えるほど、ずいぶん大きい。扉は閉ざされているが、内側から圧力がかかっているのか、少しだけ手前に膨らんでいた。
きっ……
骨のきしむ音だ。なぜかそう考えた。私は歩み寄り、飾り気のないクローゼットの前に、ぼんやりと立った。そして、待っていた。
愛して、いたのだろうか?
やがて張りつめた胞子嚢が破れるように、ひとりでにクローゼットが開いた。スローモーションの映像を見るように、いやにゆっくりと開いた。
夏奈未ではなかった。
血まみれのスリップをまとった姿で、繭美がそこに立っていた。濡れて乱れた髪の間から、片方だけ覗く目は、瞳孔が開ききっていた。
死斑の浮いた彼女の肩も、首も、腕も、頬も、紫色に変色した無数の引っ掻き傷で覆い尽くされていた。針金の先で引っ掻いたような。あるいは、小さな骨の指で……ごとりと、ハンマーを床に落とす音が、私の神経を打ち砕いた。
ゆうらりと、妻の体が揺れた。まるで私を抱きしめるように、両腕を広げて倒れかかってきた。氷のように冷たい肌が密着したとき、私は不可解な、狂おしいほどの幸福感に包まれた。
遠くで、少女の笑い声を聴いた気がした。
あとは、語るべきことはほとんどない。
私が妻の遺体を発見したとき、死後、六時間以上が経過していたという。死因は心因性のショック死。全身の引っ掻き傷のほかに外傷はなく、精神のバランスを崩した上での自傷行為ではないかと判断された。
部屋に遺された大量の血痕は、DNA鑑定の結果、夏奈未のものと判明した。
ただし、娘の行方は杳として知れなかった。「死体」を隠す時間など、到底なかった、にもかかわらず。
防犯カメラの映像は、最も鑑識を苦しめたようだ。けっきょく雨の影響で、異常なデータが生じたのだといったところに落ち着いた。けれども、鑑識課の担当者が私に耳打ちしたところによれば、
「こんな商売をしてると、時々ぶつかるんです。科学では決して割りきれない現象に」
私はとっくに会社を辞めた。引っ越すつもりはなかった。洋服が吊り下げられた夏奈未の部屋はそのままにして、ただ待つことに決めた。
彼女が帰ってくるときを。
必ず帰ってくると信じていた。
あの「お人形」とともに、私のもとへ……
愛して、いたのだろうか?
きっとそのときになれば、疑問の答えがわかるだろう。(終)




