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錆びた階段を軋ませて、私は二階へ向かった。
(あの部屋には怖いお化けが出るんだ)
それがどんなものなのか、結局少年から聞き出すことはできないまま。どうやらかれの目に、私は「お化け」の仲間としか映らないらしく、私との会話を打ち切るよう、しきりに母親を促した。
つまり一〇三号室の少年は、「夏奈未を見た」のだと結論づけてよいかもしれない。そして彼女の姿は、かれに多大な恐怖をもたらした……防犯カメラの映像。彼女の二の腕にしがみついていた、ドレスを着た骸骨人形の姿が、おぞましい力で脳裏によみがえった。
灯りの消えた二〇一号室を素通りし、隣室のドアの前に立つ。一階の女が言ったとおり、その隣は空き部屋らしく、色褪せたちらし広告で、郵便受けが口を塞がれていた。
目の前の、二〇二号室の灯りも消えていた。耳を澄ませると、背後から生暖かい風とともに、駅へ列車が滑り込むときの警笛が響き、私の二の腕を粟立たせた。
どれくらい、そこにじっと立っていただろうか。
ドアスコープの小さなレンズも真っ黒に塗り潰されているが、しだいにそこから見られているような、異様な視線の気配が大きくなってゆく。
「マユミ……」
思わず口にしたのが、なぜ娘ではなく、妻の名だったのだろう。
口にすると同時に、気配が消えた。私は夢中で、ドアに耳を押し当てていた。
きんっ……
きん、
ごくかすかに、あの音が聴こえてきた。
「どなたさま?」
かろうじて、叫び声を抑えた。ドアから飛び退いて、見れば隣の部屋の前に、皺くちゃの老婆が、ぽつんと立っていた。
コンビニエンスストアの袋と、鈴のついた鍵を手に。騒ぎ立てるでもなく、かといって、愛想笑いなど浮かべるわけもなく。
ここの住人の夫だと、とっさに説明していた。彼女は依然、無表情なまま。ただの空洞に見える目鼻が、どうしても髑髏を連想させた。
「それはそれは、お初にお目にかかります」
深々とお辞儀するとき、鍵の鈴が鳴った。白いビニール袋から、牛乳と巻き寿司のパックが覗いた。少し痴呆気味なのかもしれないと考えながら、私は尋ねた。
「妻とは、よく話されるのですか」
「いえいえ、見てのとおりの年寄りでしてね。お若いかたとは、なかなか話が合いませんのです。お隣では毎晩、音を立てておいでだから。私もね、孫がおりますけど、まあ元気いっぱいで手に負えませんので」
「音……ですか。それはどんな?」
こめかみを、汗が伝うのがわかった。
「ずいんぶんと、大声を出されていたようで。いえいえ、いいんですよ。お若いかたのことですから。私にも孫がおりますからね。おかげで、こうして散歩に出るようになりました。お医者さまもね、足が動くうちは歩いたほうがいいと仰いますのでね。それでは、ご機嫌よろしゅう」
再び頭を下げ、部屋へ入る彼女の縮こまった背中を、呆然と見送った。一向に灯りをつけないまま、ごそごそというもの音も、やがて途絶えた。
雨がまた降り出して、下界の闇をばらばらと叩いた。この雨の夜に、私以外は誰も存在しないような、孤独感が胸を締めつけた。
愛して、いたのだろうか?
繭美は、私を……
ドアノブは冷えきっていた。わずかな抵抗を感じたばかりで、外側に開いた。形容しがたい異臭に、覚えず掌で鼻を覆った。
外光を頼りに眺めれば、正面にはダイニングらしい、がらんとした空間が横たわっていた。電灯のスイッチを探しても無駄なことは、粉砕され、コードの垂れ下がったブレーカーを見ればわかる。私はブリーフケースから懐中電灯とキャンプ用のハンマーを取り出し、あとは床に捨てた。
蒼ざめた懐中電灯の光が、部屋の中を舐めてゆく。まるで空き家のように生活感がなく、テーブルも椅子も置かれていない。調理用具も、一枚の皿すらも。何もない流し台はぼこぼこにゆがみ、戸棚の蝶番が、ものすごい力で引きちぎられていた。
私は奥へ進んだ。
靴を履いたまま、少しずつ。
愛して、いたのだろうか?
壊れたターンテーブルのように、一つの疑問を頭の中でループさせながら。




