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午後十一時をとっくに回っていた。訪問するにはためらわれる時間だが、かと言って、正気のまま一晩を過ごせる自信はなかった。
愛して、いたのだろうか。それほどまでに、夏奈未を?
駐車場の常夜灯は、ガスが燃えるように、闇の中で蒼白くかすんで見えた。疲れきった体を、車のシートに沈めたとき、ふとそんな疑問が湧いたのだ。
話しかけても、ほとんど反応がない。プレゼントのお礼は言うけれど、少しも嬉しそうじゃない。ディズニーランドのパレードや花火を無表情に眺める彼女の歓声は、ジェットコースターや観覧車の上ですら一度も聞けなかった。家族の団らんだとか、心のふれあいだとか、そんなものを、少女はかたくなに拒絶し続けた。
むろん、責任は繭美にあったのであり、引いては私自身にも帰するだろう。それがわかった今だから、私は少女を全力で守ろうとした。守ってやるつもりだった……そしてここで、堂々巡りの疑問が繰り返される。
愛して、いたのだろうか。
自身を奮い立たせるように、乱暴にキーを回した。地図で確かめておいたので、二十分も走れば到着するだろう。助手席に置いたブリーフケースには、出る前に書類を抜いて、幾つかの道具が詰めこまれていた。「いざ」というときのための。
シャッターの下りた郵便局を通り過ぎ、ぽつんとそこだけ灯りがともっている、コンビニエンスストアのある角を曲がった。駅の裏側であるせいか、ずいぶん寂れた印象。ヘッドライトに浮かぶ通行人の姿も、途絶えていた。
コインランドリーの前で車を停めた。目的のアパートは、その向かい側に、防犯カメラの映像そのままの姿で、うずくまっていた。
気持ちを落ち着かせたかったのか、私は煙草に火をつけた。結婚後、なぜか繭美が極端に煙草の臭いを嫌うようになったし、娘が生まれてからは、ほとんど吸わなくなっていたが。それでも、ストレスが爆発寸前まで高じたときは、煙をたっぷりと、肺に入れずにはいられなかった。
かたわらのコインランドリーは、だいぶ前に潰れた様子。洗濯機はすでに撤去され、籠が乱雑に積み上げられていた。ガラスに無数の貼り紙を剥がした痕をみとめたときは、寒気すら覚えた。
防犯カメラの視点は、明らかにこのコインランドリーの中からのものだ。こんなところにカメラが設置されているのか。設置されていたにしても、それが「生きて」いるとは、とても考えられない、にもかかわらず。
煙草を揉み消し、逃れるように車から降りた。車道を横切り、「裏野ハイツ」の前に立つ。六つのドアの横はキッチンの小窓だろう。うち、三つの窓に灯りが映えていた。
一階のどの部屋も表札が出ていない。一〇一号室の灯りは消えており、一〇二号は煌々と光が洩れているものの、ドアの横に積み上げられたガラクタが私を物怖じさせた。何かのエンジンや旧式のだるまストーブ。片方の下駄に、穴だらけの石油缶。裸の「リカちゃん人形」が転がっているのも不気味なので、隣の一〇三号室のチャイムを鳴らした。ここだけが、インターホンに替えられていた。
「はい」怪訝そうな女の声。妻の声ではなかった。
「夜分にすみません。ちょっと急ぐ用事があって、人を探しているのですが」
極力、事情を隠さないことに決めていた。離婚訴訟中であること、妻に虐待の疑いがあること、今日の昼、娘を連れ去れたことなどを、手短に告げた。調査官に言わせれば、それは私の一方的な言い分に過ぎないのだろうけれど。
間もなくドアが開いたが、チェーンはかけられたまま。地味なパジャマの上に、薄いニットを羽織った女が覗いた。歳は三十二、三。痩せていて髪が長く、神経質そうな顔立ちだが、私を見る目には同情の色があらわれた。
「おそらく、妻がこちらへ越してきたのは、半年ほど前かと思われます。何号室かご存じですか」
癖なのだろう。女は人さし指をこめかみに当て、ちょっと宙を仰いだ。
「二〇二号室でしょうね。その隣はまだ空き家ですから。ただ私も昼間は勤めに出ておりますので、一度もお会いしたことはないんです。灯りがついているのを見て、あれ、いつの間に、という……」
「パパなの?」
幼い声に、心臓をつかまれた気がした。男の子の声であり、娘は私をパパとは呼ばないのだけれど。見れば、ぶかぶかのパジャマの裾を引きずった男の子が、母親の足もとに立っていた。寝ぼけ眼でこちらを見上げ、袖で鼻をこすった。私は母親に断りを入れてから、身をかがめた。
「きみ、何歳?」
おずおずと、かれは三本の指を立てた。
「ね、きみは今日、二階の部屋に、きみくらいの女の子がいるのを見かけなかった? きみよりだいぶお姉さんで、お人形みたいな服を着てたと思うけど」
「知らない」
素っ気なく答えると、かれは母親の後ろに隠れながら、眉をひそめて言葉を継いだ。
「二階って、真ん中の部屋でしょう? あの部屋には怖いお化けが出るんだ。ぼく、お化けなんかと友達になりたくない」




