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マンションのドアを開けたとき、電話が鳴っていることに気づいた。靴を脱ぎ捨て、真っ暗なリビングに駆け込むと、「公衆電話」とディスプレイに出ているのを確認した。
「繭美なのか!」
受話器を耳に押しつけたとたん、ぷつりと通話が切られた。
ダイニングの電気をつけ、水道水をコップに受けて、何杯も飲んだ。急に吐き気がこみ上げてきたが、呻き声が洩れたきり。キッチンに両手をついたまま、呆然と宙を睨んんでいた。
また一度だけベルが鳴り、私の狼狽を嘲笑うように、途切れた。
ぴちゃん……ぴちゃ、
冷たい沈黙の中、蛇口から水滴のしたたる音が、心臓を鞭打つように響いていた。
学校に事情を話し、夏奈未に携帯電話を肌身離さず持たせていることに、ようやく思い当たった。その場でズボンのポケットを探り、自身の携帯からダイヤルした。
プチプチと音がするばかりで、なかなかコールが始まらない。ようやく呼び出し音が聞こえたが、一向に出てくれない。二十回鳴らしてあきらめかけた頃、ぶちっとアンプのコードを引き抜くような音が鼓膜を貫いた。
眉根を寄せながら、電話にしがみついた。回線が開いていた。非常に遠くから、あの単管パイプを打ち鳴らす音が、かすかに聴こえていた。
「夏奈未、夏奈未か? 今どこにいるんだ」
電話機のスピーカー越しに、少女の息遣いはまったく感じられなかった。床に転がった電話に向かって、話しかけているような感覚。依然として単管パイプの音は、とても遠くで鳴り続けていた。
時おり娘に呼びかけながら、どれくらいそうしていただろうか。掌がぬるぬると汗ばみ、麻痺したように耳がしびれてきた。いきなり、ガツンという音が間近で響いたかと思うと、数秒後に通話が途切れた。
もう一度かけ直したが、今度は電源が入っていない等の、無機質なアナウンスが流れた。何か硬いもので、彼女の携帯は粉砕されたとしか思えなかった。
私は廊下へ出た。夏奈未の部屋のドアに手をかけると、物理的な抵抗を感じた。鍵はついていないし、むしろ何者かが、内側から押さえている感触に近い。
「夏奈未……か?」
答えがないまま、もう一度手をかけると、今度はすんなり開いた。真っ暗な部屋に、廊下の電灯が射しこんだとき、私はひっと息を呑んで、後退った。縊死した少女が何人も、天井からぶら下がっているように見えた。
手探りで電灯をともすと、それは夏奈未自身のドレスであることが知れた。あの小さな女の子が、どうやって吊すことができたのか。天井には太い釘が幾つも打ち込まれ、そこに引っかけたリボンと、ハンガーが結ばれていた。
そこはドレスの墓場に違いなかった。
獲物に群がる鮫のように、一人の女の子の存在を食い尽くした衣装たち。それらは今、抜け殻と化してぶら下がっていた。
メタモルフォーゼ……「脱皮」した夏奈未は、いったいどんなものに変わったのだろう。
骸骨人形は、部屋のどこにもなかった。
ふらつく足取りで、私は寝室へ入ると、パソコンを起動させた。防犯カメラの動画を再生し、見覚えのない、奇妙な風景があらわれたところで、一時停止。そのままプリントアウトし、手元に置くと、次に隣町を中心とした不動産店のサイトへ、片っ端からアクセスした。
木造二階建。築三十年は経っている。1LDKくらいの広さはあるだろうか。HPに外観の画像が出ていれば、動画に映っていたアパートと照らし合わせ、なければ、地図のストリートビューで建物を探した。
理論的な整合性など、まったくない。それはわかっている。けれどもあの映像自体、あまりにも常軌を逸しているではないか。私には、そこが繭美の住むアパートのような気がしてならなかった。
モニターを凝視したまま、三時間が過ぎた。昼から食事していなかったが、胃袋に何か詰めこめるとは思えない。不動産店のサイトを、おおかた調べ尽くし、あとは当てずっぽうに地図をたどるしかなくなっていた。
血走った目に、特徴的な給水塔が飛び込んできたのは、さらに一時間が過ぎた後。
「これだ」
動画では、あまりにも荒涼とした印象であり、意外に「駅近」だったのが盲点となっていた。パノラマの映像を苦心して操作し、建物をなるべく大きく映し出した。すっかり灰色に変色した壁。赤く錆びた階段。上下に三つずつ並んだドアは、私の視線を拒むかのように固く閉ざされていた。
アパート名なのだろう。壁のプレートを拡大して、かろうじて読むことができた。
裏野ハイツ……




