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8.甘え

 べっちんに愚痴ってるうちに、段々悩んでるのが馬鹿らしくなってきた。

 両頬を軽く叩き、気持ちを新たにする。

 恋にうつつを抜かしてる場合じゃないよね。何の為に自分がここにいるのか、見失わないようにしないと。私は今、ようやく夢の第一歩を叶えたところなんだ。

 

 すっくと立ち上がり、続き部屋のピアノに向かう。

 まずは指慣らしにショパンの小品をいくつか弾いてみることにした。――ノクターン、プレリュード、マズルカ。

 スタインウェイ独特の透明感あふれる美しい音色に耳を澄ませる。フレームの薄さがその繊細な響きを生んでいるそうだけど、特にショパンとの相性は抜群にいい気がした。中低音の甘い響きもすごく好みだ。

 華麗なる大円舞曲、黒鍵のエチュードと明るい楽曲を続けて弾けば、いつのまにか惨めな自己憐憫はどこかへ消えていた。ああ、やっぱり私はピアノが好きだ。


 そうだ、この子にも名前をつけなくちゃね。

 色んな曲を手慰みに弾きながら考えた結果、実家の『アイネ』と対になる『ナハト』に決めた。これから三年間、よろしくね、相棒ナハト

 鍵盤を柔らかなクロスで丁寧に拭き上げ、部屋の空気を入れ替えてから、次はテスト勉強に取り掛かる。

 やるべきことを一つずつこなしている時が、私は一番リラックスしてるのかもしれない。美登里ちゃんに言ったら、また顔をしかめられそうだけど。


 

 実力テストは難なくクリアすることが出来た。

 中学3年間の復習みたいなものだったし、今はまだ私の敵ではない。上位20位までが掲示板に張り出されるんだけど、無事トップを取れました。特待生の面目を保てたことにホッとする。

 発表されるのが何故20位までかというと、Aクラスの定員が20名だから。怖いよね。えげつないよね。名前が載らなかったAクラスの子に何が何でも頑張らなきゃ! と発奮させるシステムですよ。少々のことではくじけない強いメンタルも鍛えられそう。


 「さすが、真白。すごいじゃん」


 一緒に掲示板を見に来た蒼は、自分のことのように喜んでくれた。


 「うん、奨学生だし頑張らないと」

 「それにしても、ノーミスとはね。マシロの完璧主義はピアノに限ったことじゃないって、覚えとかなきゃ」


 感心してるのかぼやいてるのか微妙な美登里ちゃんも、10位以内に入ってる。ちなみに2位が紅で3位が蒼でした。二人とも熱心に勉強してるようには見えないのに、そっちの方がすごくない? 要点を掴むのが上手いんだろうな。


 「島尾真白って誰?」

 「ほら、あの子。蒼さまと一緒にいるパッとしない子」

 「ずっと一位は紅様か玄田さんだったのに」

 「まぐれかもよ」


 悔しげなひそひそ声が後ろから聞こえてきた。これまた想定内の反応ですよ。外野が何か言ってるな~くらいの気軽さで、左から右へと聞き流す。

 それより蒼の方が気になって、とっさにブレザーの裾を掴んでしまった。


 「……大丈夫。そこまでガキじゃないよ」

 

 蒼は優しい声で宥めるように囁いて、掴んだ手をそっとほどいた。

 あ、制服が皺になっちゃうよね、ごめん。気づいて手を引っ込めようとしたんだけど、蒼はそれを許さなかった。素早く引き留められ、壊れ物を扱うような慎重さで指を絡められる。ただ手を繋いだだけなのに、全身の血が一気に沸騰した。

 

 「――えっと。うん。私は何言われてもほんとに平気だから、蒼も気にしないでね」

 「真白、顔まっか」

 「だって!」


 言い返したくても、気の利いた台詞なんて出てきやしない。

 黙り込むしかなかった私の顔を、蒼は腰をかがめて覗き込んできた。さらりと水色の髪が流れ、アーモンド型の黒目がちな瞳に色っぽい影を作る。


 「もしかして、照れてる?」

 「いや、もう、ごめん。お願い、そんなに見ないで」


 近い、近いよ! 私の心臓にこれ以上の負荷をかけないで!

 火照った頬を空いた手で押さえ更に俯くと、蒼は痛いのを我慢するみたいに少しだけ身動みじろぎした。


 「はいはい、可愛いよね。抱きしめたくなっちゃって大変だよね~。でもそこから先は、誰もいないところでどうぞ」


 美登里ちゃんがすかさずからかってくる。


 「美登里ちゃんまで、そういうこと言わないで!」

 「うーん。練習室……は流石に俺の理性がやばいよな」

 「蒼!?」

 「ははっ。ほんと可愛い。冗談だよ、真白」


 ああ、もう。めちゃくちゃ恥ずかしい。

 こういうやり取りに慣れてないって一目でバレてしまう自分の狼狽えっぷりが情けなかった。あと周りの子が蒼の言動に驚いて、一歩後ずさってたような気がするんだけど、気のせいですよね。


 


 オリエンテーションも順調に進み、実習は亜由美先生のお勧め通り、氷見ひみ たかし先生に師事出来ることになった。

 一昨年ヨーロッパから戻ってきたばかりの45歳。コンヴァトでの亜由美先生の兄弟子にあたるそうだ。指導能力も折り紙つきで、彼の受け持った生徒はコンクール常勝、という噂まである。

 案の定すごい倍率だったみたいだけど、彼が受け持つことになったのは、一年では私と関西弁の眼鏡の男の子だけだった。

 上代かみしろ しんくん。彼もサディアフランチェスカコンクールに出てたんだって。クラスメイトが話してるのを聞きかじっただけだから詳しいことは知らないんだけど、同じ先生に師事するんだし、仲良くなれたらいいなぁ。あわよくば、彼の幼馴染らしい皆川みながわ しおりちゃんって子とも。

 

 などと思っていた時期もありました。


 はい。まだ、友達になれてません。

 何度か話しかけたことはあるんだよ。だけど、当たり障りない話題からどうしても先に進まない。女子内部生からの評判は悪いし、いつも彼氏とべったりだし、いけ好かない子だよね~とか思われてたりして。……うう、自分で言っててへこむ。


 だって、学校が始まって二週間くらい経つのに、美登里ちゃんと蒼としか話してないんだよ?

 学校では平気な振りをしてるけど、内心挫けそうになっている。学院に入る前は、音楽について色んな話が出来る友達を作るんだって張り切ってたのにな。

 おかげで寮の自室での独り言が増えちゃってるから、そのうち腹話術を極められそう。


 「今日もだめだったよ、べっちん。クラスメイト兼ただの知り合いから、仲良しへグレードアップするには何が足りませんか、先生!」

 「ソンナコト キニシテルヒマガアッタラ レンシュウシナサイ」

 「正論で人を追い詰めないで下さい、先生!」


 とかね。私これまだ大丈夫?


 美登里ちゃんはフルート専攻の子たちと早くも連絡先を交換して、遊びに行く約束までしてるみたい。休日もこなさなきゃいけない課題はたくさんあるから、出かけたいわけじゃないんだけどね。皆が楽しそうにお喋りしてるのを見ると、やっぱり羨ましくなる。

 中学時代は恵まれてたんだな。絵里ちゃん達、どうしてるだろ。紺ちゃんに会いたいな。


 

 

 学院での一番初めの行事は、GW明けに行われる新入生歓迎コンサート。

 そこで、管絃の先輩方によるオーケストラ演奏とアンサンブル、ピアノ連弾などが披露されるという。富永さんも出るだろうし、どんな演奏を聞かせてくれるのか今から待ち遠しくてならない。


 実は、そのコンサートで私も演奏することになりました。

 新しい生活リズムにようやく馴染んできたある日の昼休み。クラス担の後藤先生に職員室に呼び出された私は、盛大にびくついてしまった。

 蓋を開けてみたら、入学生代表として最後に一曲お礼演奏して欲しいっていう依頼だったんだけどね。上級生の素晴らしい演奏の後でやれとか、よく考えなくてもすごいプレッシャーだ。発案者はトビーに違いない。

 でもそういう話で良かった。注意されるのかと思ったよ。勉強も実習も順調だから、思い当たることと云えば、クラスで孤立してることだけなんですけどね。悲しい。


 「選曲は任せるそうよ。氷見先生に相談してもいいし、学外でレッスンを受けているのならそちらの先生に相談してもいいんですって」

 「分かりました。来週までに決めて報告します」

 「よろしくね。――ああ、そうそう」


 ホッと胸をなでおろしつつ、お辞儀をして踵を返そうとした私を、後藤先生は明るい声で呼び止めた。


 「理事長が褒めてらしたわよ。一般科目だけでなく、ソルフェージュでもアナリーゼ(楽曲分析)のクラスでも優秀だって。このまま頑張れば、学コンでもいい成績を残せそうね」


 学コンというのは三年に一度、10月に行われる学内コンクールの略称だ。

 紺ちゃんのイベントでもあるコンクールで、私たちの学年は三年目で出場することになっている。

 

 『私はどうしても、学コンで一位を取らなきゃいけないの』

 折に触れ、紺ちゃんはそう言っていた。

 あの条件は、今でも変わってないのかな。メールや手紙を送ってみてるんだけど、返信がないから分からない。そもそも、ちゃんと届いてるかどうかも定かじゃない。

 慣れない環境で頑張ってるだろう彼女の邪魔をするわけにもいかないから、一人でやきもきすることしか出来ないでいる。

 

 「……学コンって、絶対に出ないといけないんですよね?」

 「ええ、必須科目になってるわ。もしかして、同時期に狙ってるコンクールがあるの? 島尾さんには物足りないかしら」

 「そ、そんなことないです! あの、頑張ります!」


 おっとりと首をかしげ見当違いの推測をしようとしてる後藤先生に向かって、慌てて両手を振った。

 職員室には他の生徒もちらほら来ている。『特待生の一年が「学院内に敵などおらぬわ。ふはははは」って偉そうにしてたよ』、なんて噂が広まったら、私は終わりだ。友達つくろう計画の息の根を止められてしまう。



 冷や汗をかきながら職員室を出たところで、少し離れた廊下の壁に背中をもたれさせている蒼を見つけた。ちょっとお行儀の悪い格好をしても、もともとのスタイルがいいからか雑誌のモデルさんみたい。

 

 先に露草館アウトゥンノハウスに行ってていいよって言ったのに、待っててくれたんだね。

 露草館っていうのは、購買や食堂、図書室が入っている別館のこと。昼食はそこの大食堂で取る生徒が多い。家から運ばせた豪華お弁当を広げてる一部のお嬢様方をのぞいて。


 それにしても、普通に人を待ってるだけで絵になるなんてずるい。

 ぽやんと目を奪われている間に、反対側の通路からやってきた小柄な女子生徒が先に蒼に声をかけた。

 

 「蒼くん、久しぶり。今日は一人なの?」

 

 蒼はちらりと彼女を一瞥し、「いや」と短く答える。

 ……ってそれだけ?


 思わず突っ込んでしまったじゃないか、蒼くんよ。

 

 「良かったら、一緒にランチでもどうかなと思ったんだけど」

 「聞こえなかったの? 一人じゃないって」

 「でも、わたし、蒼くんとどうしても話したくて。ずっとドイツから帰ってくるの待ってたんだよ」


 両手を胸の前で握り締め、懸命に話しかけようとする女子生徒の表情はひたむきだった。

 そっか。この子、蒼のこと好きなんだ。

 ただキャーキャー騒ぎたいだけのファンじゃなくて、こんな子もいるんだ。当たり前だよね。蒼はすごく良い子だもん。

 久しぶり、ってことは初等部で仲良くしてたのかな。

 その場に縫い止められたように、足が動かない。


 「悪いけど、俺には話すことなんてない。待ってて欲しいと頼んだ覚えもない。向こうに行く前にも言っただろ。……これ以上まとわりつかれたら、嫌いになりそうだから勘弁して」

 「あの子がいるから? あんな、どこにでもいるような」

 「そうだよ。俺は真白しか好きじゃない――これで満足?」


 言い募ろうとした女の子を、蒼は容赦なく遮ってしまう。女子生徒は顔を歪め、堪えきれないように駆け出した。

 こっちに向かって。


 はい? え、ちょっと待って、引き返さないの!?


 急なことで隠れることも出来ず、棒立ちになってしまった私に気づき、その子はすれ違いざま涙に濡れた大きな瞳で睨んできた。


 「あなたなんか、蒼くんと全然似合ってないっ」


 ……ですよねー。


 くるんとカールされたオレンジ色の綺麗な髪に、何かを思い出しそうになる。

 あれ。この子、どこかで――。


 「真白」


 おぼろげな記憶を探ろうとする前に、蒼が声をかけてきた。芋づる式に見つかってしまったようです。


 「聞こえてたよな。ごめん」


 付き合い始めてからこっち、蒼は謝ってばかりいる。手を伸ばしても届かないギリギリの距離で立ち止まり、途方に暮れた顔で私を見つめてきた。

 そんな迷子の子供みたいな顔しないでよ。母性本能が大変なことになっちゃうよ。


 「ううん、大丈夫。私もすぐに声かければ良かった。それにほら、言われてもしょうがないよ。本当のことだし?」


 笑って欲しくておどけてみせたのに、蒼はますます寂しげな表情になった。


 「真白に似合ってないのは、俺の方だから」


 そして時々、彼は意味の分からないことを言う。

 ――いやいや。どう見ても、釣り合ってないのは私でしょ。

 返す言葉に詰まった私を見て、蒼は気を取り直したみたいだった。

 「ん」と手を伸ばしてくる。もしかしてこれは、手を繋いで欲しいっていうサインかな?


 「わ~、甘えっこだ」


 ここぞとばかりにからかってみる。

 照れていいのよ。そんな蒼も可愛いよ。


 「うん。甘えさせてくれるうちは、遠慮しないって決めたんだ」


 残念! あっさり認められてしまった。

 主導権を握り直せるチャンスだと思ったんだけど、蒼の方が一枚上手だったみたいだ。


 「俺が真白を欲しがるうちは、傍にいてくれるんだろ?」

 「うん」

 「じゃあ、ずーっとだな」


 握った手をかるく引っ張られる。

 やっと空いてた距離がなくなって、なんだか安心した。

 私しか好きじゃないと言い切った蒼を、その時確かに私だって愛しく思ったのだ。

 


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