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~in ten years~

 弾けなくなった私を取り巻く環境は、ガラリと変わった。


 理事長はなぜか蒼を罵り、氷見先生は呆然としていた。

 学業面の知識もすっかり失ったと思っていたのに、そっちは完璧に思い出せて、やはりピアノは代償だったんだと納得した。

 何はともあれ、これまでコツコツ勉強してきた甲斐あって、急な方向転換にも関わらず一般の大学に合格することは出来た。

 ガリ勉のきっかけをくれた紅様と、過去の自分の努力に手を合わせる。

 将来どうするかは、大学のうちに決めればいい、と父さんと母さんは励ましてくれた。

 花香お姉ちゃんは泣き腫らした赤い目で、「真白は天才だから、何にでもなれるよ!」と空恐ろしいほどの姉馬鹿ぷりを見せつけてきた。


 8歳の時から抱き続けてきた夢を捨てることが、辛くなかったとは言わない。

 蒼にはとても言えないけど、10年ぶりにナハトの前に座った途端、私は号泣してしまった。

 大声で吠えながら、読めない楽譜を床に叩きつけ、動かせない指を鍵盤に叩きつけた。

 やり場のない悲しみを吐き出す作業を経て、ようやく涙を拭う。

 自己憐憫は、これでおしまい。

 

 そう決めたのに、拭った涙が再び溢れたのは、亜由美先生のところへ行った時だった。

 

「今まで本当にありがとうございました」


 太ももに頭がつくくらい腰を曲げ、深く礼をする。

 私の拙い説明を黙って聞いていた亜由美先生は、にわかには信じられないみたいで、何度もかぶりを振った。

 先生を納得させる為、グランドピアノの前に座る。

 たどたどしい指の動きでスケールをなぞっていくうちに、初めて先生と会った日のことを思い出してしまった。


 ――『ふふっ。そんなに固くならないで。リラーックス。ね? 音楽って楽しいなあって思えるように、先生と沢山ピアノ弾こうね!』


 コンクールもコンサートも、亜由美先生はいつだって全力で私を導いてくれた。

 亜由美先生。

 先生に師事できたこと、私には勿体無いほどの僥倖でした。


「もう、いいわ」


 恥ずかしいことに、曲らしい曲は何も弾けない。ただドレミファソラシド、とガタガタな音階を繰り返す私の肩に、細い指先がかかる。

 かけがえのない恩師が唇を震わせ、頬を涙で汚すのを見て、私の涙腺も崩壊した。


「先生、ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 泣きながら謝る私の肩を抱き、先生は小さな声で尋ねてきた。


「ねえ、真白ちゃん。真白ちゃんは、それでもピアノが好きよね?」


 もちろんだというように、何度も首を縦に振る。

 壊れたキツツキ人形みたいになった私を見て、亜由美先生は泣きながら笑った。




 

 蒼とのお付き合いの前に立ちはだかる障害は、なんと美登里ちゃんが取り除いてくれた。

 あの時の騒動は、今でも忘れられない。


 私が突然ピアノを弾けなくなったのは、蒼パパのプレッシャーのせいだと曲解した美登里ちゃん。

 彼女の怒りは、凄まじかった。

 違うと何度否定しても、「マシロは黙ってて! 何が条件よ、許せない!」と声を荒げる。

 あれは、大学一年目の冬。

 クリスマス休暇で蒼パパが日本へ帰ってきていると知った美登里ちゃんの行動は早かった。復讐に燃える美登里ちゃんは、私と蒼を引き摺るようにして、城山邸へと乗り込んだ。


「お久しぶりです、おじ様、叔母さま」


 ひとり涼しい顔で挨拶をし、これはどういうことか、と表情を強ばらせる恭司さんと麗美さんに向かって、美登里ちゃんは愛らしい唇をゆっくり開いた。


「お二人に、宣言しておこうと思ったの。私、ソウと結婚してもいいわ」


 私の手をしっかり握り、隣に座っていた蒼が、ピキリと固まる。

 あっけに取られた私たちにウィンクを寄越し、美登里ちゃんは続けた。


「お祖父様に頂いた私名義の土地があるから、そこに新居を構えるつもり。そして、ソウとマシロを住まわせるわ。2人の事実婚を、私が支援します」


 本妻が愛人を囲います宣言に、大人2人は度肝を抜かれたようだった。

 麗美さんから激しい非難を受けても、美登里ちゃんは一歩も引かなかった。

 彼女の綺麗な瞳が、剣呑に閃く。とにかく、美登里ちゃんはものすごく怒っていた。


「あら。何がいけないの? 叔母さまだって、同じことをしていらっしゃるじゃない。おじ様が前の奥様を保護していること、ご存知なのでしょう? 私がしようとしていることと、どう違うの」


 美登里ちゃんの投げた爆弾に、今度は蒼パパが反論する。

 森川理沙とはもう何年も会っていない、とちょっと引くくらいムキになった蒼パパを見て、美登里ちゃんは悪い笑みを浮かべた。


「おじ様が罪悪感を感じることはないわ。私は結婚したら、自由に恋愛するつもり。ソウとの白い結婚を隠れ蓑に使うつもりよ。今の叔母さまみたいにね」


 私と蒼は、ひたすらポカンとしていた。

 怪訝な顔で美登里ちゃんを見つめ返す麗美さんの腕を、蒼パパが無表情で掴む。

 大人の男の人が本気で怒ると、あんな怖いことになるんだと私は一つ賢くなった。大人になった蒼は決して怒らせないようにしよう。


 嵐のような会合は、蒼パパの一言で解散となった。

 無理やり部屋の外に連れ出されていく麗美さんは「誤解だわ!」と叫んでいたが、怒った恭司さんの耳には届いていないみたいだった。


 3人きりになったのを見計らい、美登里ちゃんは種明かししてくれた。


「叔母さまとおじ様、大学まで付き合っていらっしゃったのよ。お互いが初恋の人みたい。些細な喧嘩から別れてしまったと聞いていたけど、今の様子を見ると、まだおじ様の気持ちは残ってるみたいね」


 蒼は今度こそ「は!?」と叫んで立ち上がり、私も飲みかけの紅茶をこぼしそうになった。

 蒼パパと麗美さんは元恋人同士で、理沙さんと理事長が元恋人同士で……ええっ!?

 あまりにややこしい関係に、頭痛がしてくる。


「叔母さまだって、まだおじ様が好きなのよ。じゃなきゃ、あのプライドの塊みたいな人が、後妻の話なんて受けるものですか。家柄だって叔母さまの方が上なんだし、口では『断れない話だった』なんて言っていたけど、そうじゃないことはうちの家ではバレバレだったわ」


 あ、はい。としか言いようがない。

 遠回りにしても長すぎる。

 蒼は「だから最近しょっちゅう帰ってきてたのか」とぼやき、美登里ちゃんは優美な眉を吊り上げ「だから私は叔母さまがキライなの」と言い放つ。


「手を伸ばせば届く人に、堂々と愛してるって言える相手に、いつまでもくだらない意地を張って、バカみたい。見ててイラつくのよ」


 彼女の辛過ぎた初恋を思わせるその一言に、私も蒼も黙り込んだ。

 

 爆弾を落とされた恭司さんと麗美さんが、どんな風に誤解を解いたのかは知らない。

 だけどそれから間もなく、麗美さんは身籠り、私達をさらに驚愕させた。

 46歳で初産を迎える麗美さんを、流石の蒼も心配し、ピリピリしていた。蒼パパはというと、非常に心配症な愛妻家になってしまったらしい。

 

 あまりに見事な手のひら返しに、私は少し……いや、だいぶ腹が立った。

 蒼をないがしろにし過ぎだと思う。

 今でこそ何でもないって顔してるけど、小さい蒼がどんなに寂しかったか、孤独だったか。

 

 蒼に弟が産まれてからというもの、まるで今までのこと全部なかったみたいにして、蒼も巻き込んで家族をやり直そうとする恭司さんと麗美さんに、無性に腹が立った。

 蒼を仲間ハズレにしたら、それはそれで頭にきたとは思うけど、こういうのは理性でどうにかできるものじゃない。


 散々考えた末、私は蒼を貰うことにした。


 大学在学中、がっつり勉強して高校教諭の資格を取り、採用試験にも合格した。

 半分公務員みたいなものだから、よっぽどのことがなければ食いっぱぐれはないし、年金だって結構貰える。蒼はシロヤマグループに就職し、彼らしいマイペースさで頑張っているみたい。

 「家は弟が継げばいい」というのが蒼の口癖だったので、こつこつ貯めていた結婚資金が目標金額に達成した日にプロポーズした。


「うちの家の子に、なりませんか?」


 考え抜いて決めた、渾身の口説き文句はすごく平凡なものになった。

 だけど、これしか思いつかない。真っ暗な城山邸に帰っていく、侘びしげな蒼の背中を見送るしかなかった高校時代、一番言いたかった台詞だ。


 蒼は一瞬固まったものの、すぐに真剣な表情で私の顔を覗き込んできた。


「それ、本気? 真白のお父さんとお母さんを、俺にもくれるの?」

「うん。私が持ってるものは、全部蒼にあげる。必ず幸せにするから、結婚して下さい」


 蒼は唇を噛むと手を伸ばし、私の両目を覆ってしまう。


「なんだよ……俺から言おうと思ってたのに。めちゃくちゃ嬉しいけど、こんなの格好つかないだろ」

「どんな蒼も格好良いよ。蒼、好き。大好き」

「ばか。ほんと今は勘弁して」


 涙に滲んだその声を、私は一生忘れない。

 蒼は泣いていた。

 寂しさでも、苦しさでもなく、溢れた喜びで。


 

 そして現在――

 隣の空き地を買い取り、二世帯住宅へと大変身した島尾家で、私たち4人は暮らしている。

 

 花香お姉ちゃんは、7年前に結婚して家を出た。

 車で30分もかからない場所にある三井さんちにお嫁にいったから、今でも時々、チビッ子たちを連れて息抜きにやってくる。

 花ちゃんの子供は、2人とも蒼が大好きだ。

 休日に家にくると、一階と二階を繋ぐインターホンを鳴らし、「マシロちゃんとソウくんいますか?」と声を揃える。


「みーくんたち、来たみたい。あげていい?」

「いいよ。じゃあ、防音室のエアコン入れてくる」


 リフォームする際に作った12畳の防音ルームには、とってもお金がかかったんだけど、私たちは後悔していない。

 そこには、恭司さんが結婚祝いにくれたシロヤマの特注モデルが置いてある。

 世界に一台だけしかない、私の為のピアノだ。

 

 ドヤ顔でこのグランドピアノを披露した恭司さんを、蒼は絶対に許さない、と言っている。

 理沙さんもかつて持っていた特注ピアノを縁起でもないと思ったのか、それとも自分が贈りたかったのかは、今でも謎だ。

 ギリギリと歯を食いしばる蒼を見て、恭司さんは悪戯が成功した子供のような顔で笑った。

 麗美さんには「大人げない人でごめんなさいね」と謝られた。

 

 そんな会話を彼らと交わせるほどの時間が経っていた。



「いらっしゃい。2人とも、また大きくなったね~」


 えへへ、とはにかむ甥っ子と姪っ子を連れ、防音室に入る。

 すでにセッテイングを済ませた蒼が、笑顔で彼らを出迎えた。


「今日は、何が聞きたい?」


 蒼が聞くと、りっちゃんの方が先に「白雪姫のやつ!」と叫ぶ。


「あ、ずるい! 僕が先だろ!」


 途端に、みーくんが怒ってりっちゃんの髪を引っ張ろうとする。

 蒼は真面目な顔で、みーくんを諭した。


「妹は大事にしなきゃだめだ。りっちゃんが急にいなくなったら、みーも嫌だろ?」

「……いやだ」


 想像して悲しくなったんだろう、涙目になったみーくんの頭を優しく撫でてから、蒼は私の方を見た。


「いつか王子様が、だって。真白、いける?」

「もちろん」


 ジャズ風にアレンジしたその曲は、りっちゃんのお気に入りだった。

 チェロからウッドベースに持ち替えた蒼に、視線で合図を送る。

 鍵盤に両手を乗せ、軽やかに指を舞わせていった。

 蒼とはしょっちゅう合わせているから、呼吸はピッタリだ。

 

 『きっといつかそれを証明してみせる』と大見得を切ったはいいけれど、ピアノの演奏技術を元の水準まで戻すことはまだ出来ていない。

 仕事や家事に追われ、なかなか練習時間を確保できない私にとって、リストのコンチェルトなんて、今の段階では夢のまた夢。

 

 それでも私は諦めていなかったし、亜由美先生も同じだった。

 ピアノが好きなら辞めなくていい、と10年前、先生はきっぱりと言い切ってくれたのだ。

 週に一度のレッスンは、今でもずっと続いている。


「あー、やっぱピアノトリオならドラム欲しいな。みー、ドラムやれよ」

「ドラム!? 僕、やりたい!」

「よし。んじゃ、これからシロヤマに買いに行くか」


 スーパーにお菓子でも買いに行くか、みたいな軽いノリで言って立ち上がった蒼に、みーくんが飛びつく。


「もう、蒼ってば」

「いいじゃん、たまには親父達に顔見せにいこう」


 そんな風に微笑まれたら、ダメとは言えない。

 10年経った今でも、私は蒼に夢中だから。


「ほら、ママ達に出かけてくるって言っといで」


 蒼に促され、みーくんとりっちゃんははしゃぎながら階段を駆け下りていった。

 ピアノの蓋を閉め、エアコンのリモコンを手にした私のところへ、蒼が戻ってくる。


「真白」

「ん?」


 忘れ物かな?

 視線をあげた私をいとしげに見つめ、蒼は囁いた。


「愛してる」


 まだピアノの前に腰掛けたままの私の肩を抱き、長身をかがめ甘いキスひとつ。

 いつか王子様がのメロディが、頭の中で優しくリピートし始めた。

 

 私たちの場合、王子様は真白の方だ、と蒼は言っている。

 私からのプロポーズは、彼にとってよほどの衝撃だったみたい。実は色々プランを練っていたという蒼のプロポーズも、あの後、ちゃんと受けたのにな。

 

 

 歩道橋の上、一人ぼっちで泣いていたお姫様は今、毎日幸せそうに笑っている。






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