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最終回.音楽で乙女は救えない

 最初は、呆然と弛緩していた。

 次第に息が苦しくなり、膝においてあったハンカチを掴んで、口元に押し当てる。

 ホール全体に響くコンチェルトもちょうどクライマックスを迎えていた。かつて私も弾いたことのあるリストの協奏曲。


 まるで昨日のことのように10年前の悪夢が蘇り、自分の交わした約束を思い出す。

 じわり、と滲む涙の向こうに、水色の髪と凛とした瞳が浮かんだ。


 ――『俺の気持ちはずっと変わってない』


 ――『泣かせてごめん。かなり歪んじゃってる自覚あるけど、もうちょっとなんとかするから、俺のこと見捨てないでくれる?』


 ――『全部だよ。真白の全部が欲しいんだ』


 誰も好きになれないのなんて、当たり前だった。

 だって私には、すでに心を捧げた人がいる。


 ――『ダメだ、まだ諦めるな! 真白!』


 ああ。

 蒼に会いたい。蒼に会いたい。蒼に会いたい。

 会いたくて頭がどうにかなってしまいそう。


 漏れそうになる嗚咽を必死で噛み殺し、曲の終わりを待つ。

 情熱的で素晴らしい演奏だったのに、申し訳ないことに「早く終われ」と心の中で念じてしまった。拍手もそこそこに、客席を飛び出す。

 分厚い防音扉を押した瞬間、蒼のエスコートを思い出し、我慢していた涙が一気に溢れた。

 外で泣くなんてみっともない、と自制できるくらいには大人になったはずなのに、どうしても涙が止まらない。泣きながら大きな中央階段を駆け下りる。

 

 一階の休憩スペースに、トビオはいた。


 息を切らせながら彼の隣に立つと、トビオは広げていた新聞を丁寧な手つきで畳み、座ったままこちらを見上げてくる。


「やあ、久しぶり」

「……10年経ったわ」

「うん、そうだね」


 聞きたいことは沢山あるのに、感情が昂りすぎてうまく言葉に出来ない。

 ようやく絞り出せたのは「蒼は、元気にしてる?」という何とも間抜けな質問だった。

 トビオはふはっ、と噴き出し、組んでいた長い脚をほどいて立ち上がる。


「残念なことに健康そのものだよ。それより、賭けがどうなったかを聞くべきじゃない?」


 トビオの返事に、思わず深々と安堵のため息をついてしまった。

 蒼が健やかでいることが、私には一番重要だったんだ、と改めて自分の気持ちに気づく。

 他の誰かに心変わりしていても、もういい。

 ただ彼が、幸せで毎日元気に過ごしているのなら、それでいい。

 

 花ちゃんを取り戻せたことを、今の私は知っている。重要なのは、その2つだけだ。

 

「賭けはどうなったの?」


 自分でも驚くくらい明るい声が出た。

 トビオは、ものすごく嫌そうに眉をしかめる。


「蒼がキミ以外の女と幸せになっていても平気ってわけ? つまんないなぁ。その程度の気持ちだったのか」


 私は今の今まで、全てを忘れていた。

 蒼が背負わなきゃいけなかった10年とは、重みが違う。

 彼が私に操を立てる必要はないと、あの時だって思ったし、覚悟もしてた。

 ただ、ありがとうは言いたいから、会えるものなら会いたい。


 思ったことをつらつら述べると、トビオは「あー、もういい! その手の話は聞き飽きた!」と途中で言葉を遮ってきた。

 そして仏頂面で「あんな賭けしなきゃよかった。なんにも面白くなかった」とわけのわからない愚痴めいた台詞をこぼす。


「クソみたいなノロケ話をこれ以上聞かせるつもりなら、ワタシ、今ここで吐くからね。――で? これからどうするの? 向こうの世界に送っていいの?」


 今の話のどこがノロケ話だったんだろう。

 釈然としないまま、とりあえず気になることから順番に聞いていくことにする。


「こっちの私はどうなるの?」


 こんなことなら、もっときちんと部屋を整理しておけば良かった、とか、冷蔵庫になに入ってたっけ? とか、作成途中の請求書を最後まで仕上げておくんだった、とか、そういう雑事が一瞬にして頭に浮かぶ。


「旅行じゃないんだから、そういうのはどうでもいいでしょ」

「……そっか」

「旅行扱いにしたいのなら、期限区切ってあっちに戻してもいいよ。ただし、1回きり。ほら、どうするの?」

「待ってってば! ――向こうに戻るとしたら、こっちの私はどうなるの?」


 もう一度、確認を取る。

 トビオは面倒くさそうに「元々いなかったことになる。キミに関わってきた人全ての記憶から、キミは消える」と答えた。

 

 それならいい、とようやく安心できた。

 両親や花ちゃんと別れるのは辛いけど、彼らに傷が残らないのなら、家族を失って苦しまないのなら、それでいい。

 私が全部覚えていればいい話だ。


「向こうの世界に戻りたい。でも、明日まで待って」

「分かった。じゃあ明日の朝、キミを学院に戻すから」


 無造作に言い放ち、その場から立ち去ろうとするトビオを、私は慌てて引き止めた。


「ちょっと、待って! どうして学院に? 戻った場合の私の状況を教えて」

「えー、それも説明しなきゃなの?」


 子供のように頬を膨らませるトビオの頭を叩きたい衝動を堪え、なるべく穏やかな声で「分からないまま話が進んでいくと、後々面倒だから」と追いすがる。

 仕事で学んだことの一つだ。懸案事項は早めに確認し、対処すべし。


 「面倒なのはキミであって、ワタシじゃないのに」ぶつぶつ言いながらも、トビオは説明してくれた。


「2人とも元の時間軸に戻すよ。そっちのが楽だからね。空白の10年をでっち上げて埋めるのは、ものすごく手間なんだ。関係者全員の記憶の整合性とかそういうの、細かく操作しなきゃだし。消すのは簡単だけど、作るのは大変でしょ? それと一緒」


 どれと一緒なのか、ただの人間の私には理解できるはずもないのだけど、何となくトビオの言いたいことは分かった。

 ついでに、賭けがどうなったのかも。


「2人とも戻す、ってことは蒼も賭けに勝ったんだね?」


 抑えきれない興奮が、声を上擦らせる。

 トビオは美しい手を持ち上げ、こめかみを強く押さえた。


「今わかったの? 勝ったから、キミにどうしたいか選ばせてあげるんでしょ? バカなの?」

「そっか。……そっか」


 せっかく落ち着いたところなのに、再びお腹の底から熱い塊がせり上がってくる。

 

 蒼は、私への気持ちを守ってくれた。

 10年も。

 10年もの長い間、孤独と不安をひとり抱えたまま、耐え抜いてくれた。


 ボタボタと両目から涙が滴り落ち、肩が震える。


「オメデトウ。ヨカッタですねー」


 完全な棒読み口調でトビオはそう言い、最後ににやり、と口角を持ち上げた。


「ただし、代償は払ってもらうからね。戻ってからが大変だよ。ワタシにはもう関係ないけど、キミたち2人の最悪な未来を心から願ってる!」


 これ以上ない呪いの言葉を最後に、トビオはふっと目の前から消えてしまった。

 私はとりあえず化粧室に駆け込むことにした。

 この酷い泣き顔をなんとかしないと、電車にも乗れない。

 

 代償が何なのかは、もう分かっている。



 電車を乗り継ぎ、アパートではなく実家を目指した。

 行く前に連絡を入れておいたので、花ちゃんまでやって来ていた。


「義兄さんは良かったの?」

「帰りにこっちに寄ってってメールしといたし、大丈夫だよ」


 花ちゃんはおっとりと微笑みながら、私に四角い箱を掲げてみせる。


「あとで一緒に食べようね。里香の好きなフルールのホールケーキだよ!」


 里香の誕生日だから奮発しちゃった、と嬉しそうに続ける花ちゃんを、じっと見つめる。

 居間からは、愛らしい子供の声が聞こえてきた。

 花ちゃんと友衣くんの子供だ。3歳の男の子と1歳になったばかりの女の子。父さんと母さんは孫が可愛くて仕方ないらしく、最近は電話で話していてもチビッ子たちに関する話題が多い。


「……ん? どうしたの?」

「花ちゃん」

「はい」


 花ちゃんはケーキの箱を台所のテーブルの上に戻し、きょとんとした顔で私の言葉を待っている。


「花ちゃんは、今、幸せですか?」


 何とか泣かずに聞けた。

 花ちゃんは、困惑したように瞳を瞬かせたけど、それでもふにゃりと笑って私の両手を握ってくれた。


「うん。今、ものすごく幸せ!」


 蒼。蒼、ありがとう。

 本当にありがとう。

 花ちゃんは、紺ちゃんは、幸せになったよ。


「里香? 花香? 早くおいで、みーくんたちお腹空いたって!」


 居間から私たちを急かす母さんの声がする。


「はーい、今行く! ほら、里香も行こ」


 憂いの欠片も見当たらない眩しい笑顔で、花ちゃんが私の手を引っ張った。

 その姿に、茶色の髪の美少女がおぼろげに重なる。

 紺ちゃんが頑張ってくれたから、私は今、生きている。

 もう二度と会えなくても、きっと、ずっと忘れないからね。


 泊まっていけ、という父さんの言葉に甘え、そのまま実家に泊まった。父さんの晩酌に付き合いながら母さんとも沢山話をした。満たされた気持ちで布団に入る。

 そして朝。

 まだ皆寝静まっている早朝に起き出し、簡単に身なりを整えてからこっそり家を出た。

 

 門扉を静かに閉め、振り返ると、世界はすっかり様変わりしていた。

 不透明な白っぽい靄の間、まっすぐな一本道が続いている。道の果てに見える微かな光を目指せばいいんだ、と何故か分かった。


 最初はおそるおそる。

 どうやら安全だと判断してからは、駆け足になった。

 

 蒼に会える! 

 やっと会える!


 早く、早く、と自分を急かし、全速力でその道を行く。

 体が少しずつ軽くなっていくような気がして、目線を下に向けると、すんなりした若い太ももが目に入った。

 ひらり、ひらり、と制服のスカートが舞う。履いていたはずのハイヒールは、ぺたんこのローファーに変わっていた。

 走りながら髪を掴み、一本プチリと引き抜いてみる。

 手の中のピンク色の髪の毛を見て、思わず声を出して笑ってしまった。


 待ってて、蒼!

 今、行くからね!


 小さかった光がどんどん大きくなり、ついには間近に迫り、目を開けていられなくなる。

 私はきつく目を閉じ、せーの! でジャンプした。


 ふわり、とした浮遊感の後すぐ、両足が硬い地面を捉える。

 もっと落下していく感じかと勝手に構えていたせいで、体の反応が遅れ、二三歩よろめいてしまった。


「……わわっ!」


 そのままぐらりと後ろ向きに傾いだ身体を、誰かがしっかり抱きとめてくれる。

 真っ先に視界に入ったのは、見覚えのある噴水だった。どうやらここは、寮の中庭みたい。

 それから視線を、学院の制服に包まれた誰かの腕に移す。

 身体の前で交差している骨ばった手を見た瞬間、胸がいっぱいになった。

 

 だって、知ってる。私はこの手を知っている――


 背中全体に感じる体温に、気づけばしゃくり上げていた。

 昨日から泣いてばかりだ。


 勢いよく振り返り、抱きとめてくれた誰かの顔を見上げる。

 

 そこにいたのは、やっぱり蒼だった。

 サラサラの水色の髪。涼しげな目元。怖いくらいに整った完璧な造作に見惚れるのと同時に、激しい懐かしさを覚える。

 

 蒼は、信じられないといわんばかりの表情で私の身体を、確かめるように何度も触った。

 ちょっとくすぐったい。


「……ホントに、真白?」

「うん」

 

 頬に添えられた手に、自分の手を重ね、ぎゅっと押し付ける。

 蒼の手は震えていた。


「――消えないで」


「お願いだから、もう、消えないで」


 蒼は同じ言葉を繰り返し、ぽろぽろと透明の涙をこぼした。

 切実な願いに、苦しいほど胸が締め付けられる。


「もう消えない。どこにもいかない、ずっとここにいる!」


 宣言するように叫び、蒼の背中に手を回した。

 腕に力を込め、精一杯の力でしがみつく。


「――俺が真白をいらないって言うまでずっと?」


 涙まじりの蒼のおどけた声が、頭上から降ってきた。

 どこかで聞いたような……と思いめぐらし、自分の台詞だと思い当たる。


 なんて酷いことを、言っちゃったんだろう。

 なんて傲慢で、押しつけがましいことを。

 道理で、なかなか私の想いを信じてくれなかった筈だ。

 昔の蒼の頑なさの原因が分かり、穴を掘って自分を埋めたくなった。


「私が間違ってた。ごめん。ごめんなさい!」


 激しく首を振り、何度も謝る。

 私の過剰な反応に驚いた蒼は、「ちがう、待って、真白を責めるつもりじゃ――」と言いかけた。どこまでも優しい蒼に、苦しいほどの愛しさが募る。


 思い切り背伸びをして、蒼の唇に口づけた。

 わずかに身動ぎした蒼は、次の瞬間、私の頬を両手で挟み、もっと深いキスに変えていった。


 どれくらい夢中になってたんだろう。

 気づけば、私も蒼も、すっかり息があがっていた。


「蒼が私をいらないっていっても、絶対に離れない。ずっと好きでいてもらえるように頑張るから。すっごく頑張るから、だからお願い。どこにも行かないで。他の誰のことも、好きにならないで」


 心の内をさらけ出すように告白する。

 蒼は小さく呻いたかと思うと、私をぎゅうぎゅうに抱きしめてきた。

 「真白しかいらない。俺には真白だけだ」と掠れた声で囁いてくる。

 こみ上げてくる歓喜にもみくちゃにされ、いてもたってもいられなくなった。

 


 本音を言うなら、このまま2人で一日中いちゃいちゃしていたいところなんですが。


 私にはやらなきゃいけないことがある。


「蒼、今日って学コンのある日だよね?」

「あ……そうだった!」


 蒼が慌ててスマホを取り出し、日付と時刻を確認する。


「大丈夫だ、まだ始まってない」

「うん」


 私は頷き、とびきりの笑顔をこしらえた。


「理事長室に行って、辞退してくる。待っててくれる?」


 蒼の瞳が驚愕に見開かれ、次第に苦しげなものに変わっていく。


「嘘だ……嘘だろ? 代償って、そんな、まさか」

「大丈夫だよ、蒼。私は大丈夫」


 励ますように蒼の両手を握り締めた。

 

 10年のブランクは大きい。

 今の私は簡単なバイエルさえ、初見では弾けないだろう。

 暗譜していた曲も全部飛んで、一音も思い出せない。体が元のままなら指は動くだろうけど、その指の動かし方が分からない。

 それでも――


「私は何も奪われてない」

「だって、辞退って……そういうことだろ!? あんなに好きだったのに! あんなに努力してたのに、もう真白はピアノが弾けないんだろ!?」

「元のようには、だよ。蒼」


 ポカンとした顔になった蒼と、それから自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。


「元のようには、今は、弾けない、だよ」

「……どう違うの」


 森川理沙(お母さん)を連想してしまったんだろう、思い詰めた表情に変わっていく蒼に向かって、私はきっぱりと否定した。

 

「全然ちがうよ」


 そんな顔しないで。

 ピアノだけが私の全てじゃない。


「きっといつかそれを証明してみせる。だから今は、ピアノを弾けなくなった私を受け入れて?」


 蒼は食い入るように私を見つめた。

 やがて諦めたのか強ばった表情を緩め、「どんな真白でも受け入れるに決まってるだろ」と返してくる。

 決まってるのか。

 何だか嬉しくなって、へへと笑った私を見て、蒼も笑った。


 どちらからともなく歩き始め、音楽の小道へと足を進めていく。

 

 先は見えない。

 学院を無事卒業できるかどうかさえ、不透明という有様。


 理事長は怒るかな。それともいい気味だって嘲るかな。

 弾けなくなった私に蒼パパは落胆して、見放すだろうな。

 

 それでも未来は明るい、と心から信じられた。

 私には、蒼がいる。

 家族も友達もいて、何よりこうして生きている。


 それだけで、可能性なんて無限なんだ。



 


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