46.懺悔(side:城山 蒼)
最近校内は、学内コンクールの話題で持ちきりだ。
コンクールの結果が成績に結びつくことはないから、大多数の生徒は記念イベント的に捉えている。
俺もそうだ。
エントリー曲は自由。課題曲はなし。
そもそも三年に一度しか開催されない、採点基準も不透明なこのコンクールに、意味なんてない。
張り切っているのはごく一部の生徒だった。
真白はもちろん、後者に入っている。
彼女の中に『手抜き』という選択肢はないと、今では皆が知っていた。
どうしてそんなに頑張るんだろう、と昔はよく不思議に思った。
【私には、実は前世の記憶があります】
生真面目な文章で綴られた告白の手紙には、その理由も記されていた。
前世の真白は、ものすごく要領が悪かったらしい。人が当たり前に出来ることでも、なかなかすぐには出来なかった、と真白は書いていた。
だから怖いのだ、とも。
【今は、努力すればそれが目に見える成果として表れてくれるけど、報われないこともあるって知ってるから、これでは足りないのではないかと、常に焦ってしまうのだと思います】
成績はトップクラス、ピアノの腕も抜きん出ている。
そんな真白が慢心とは程遠く、ちょっとびっくりするくらいの努力家なわけが分かって、納得するのと同時に愛しくなる。
不器用で、まっすぐで、一生懸命な彼女。
たとえ万能じゃなかったとしても、本質は変わらない。
ここにいるのが前世の真白だとしても、きっと好きになった。
真白は『可哀想だから好きになったんじゃない』と言ってくれたけど、本当は違う。
俺が見てられないくらいみじめな境遇にいたから、手を差し伸べてくれた。
そういうの、ほっとけない性分なんだと思う。
不器用で、まっすぐで、一生懸命だからだ。
幸せな家庭で愛されて育った彼女は、もしかしたら、誰の不幸も許せないのかもしれない。
それを傲慢と憎む人もいるだろう。
だけど俺には、光でしかなかった。
麗美さんが真白を呼び出して、二人の付き合いに釘を刺したあの日。
真白は、笑えるほど動揺してる俺の手を握って、真摯な表情で誓ってくれた。
――『何があっても、ずっと一緒にいるよ。蒼が私をいらないって言うまで、ずっと』
付き合うことになってから、頭のどっかでもやもやと漂っていた疑惑が消えた瞬間だった。
傍にいて彼女を支えてきた紅ではなく、なんで俺を選んでくれたんだろう? 不思議でしょうがなかったが、真白はちゃんと答えを教えてくれた。
俺が可哀想だからだ。
真白は、俺を必要としてない。
俺が真白を必要としているから、それに応えようとしてくれたんだ。
真白をいらなくなる日なんてこない、と思った。
そんな日はこないんだよ、真白。
俺がどれだけ壊れてるか、彼女は本当には知らなかったんだろう。
真白が見積もったリハビリ期間は、三年間?
俺に、自分の高校生活を捧げるつもりなのかな?
あまりのお人好しっぷりに、笑いがこみ上げてくる。
そんな真白が、それでも好きで、好きで、どうしようもなく欲しかった。
真白以外の誰もいらなかったのに、彼女は俺の手を引っ張り、明るい方へ引っ張っていく。
こんなことバレたら嫌われるって、ヒヤリとしたことは一度や二度じゃない。
でもその度に真白は、笑ったり泣いたりしながら、俺を肯定してくれた。
こんなこと、生まれて初めてで、どうしていいか分からなくなった。
無条件で受け入れてくれる人がこの世にいるなんて、信じられないくらいの奇跡だ。
どんどん貪欲になっていくのが分かる。
欲しい。もっと、もっと欲しい。
飢えた唸り声をあげて真白を狙うもうひとりの俺に、真白は全部食べさせてくれた。
興奮する一方、馬鹿じゃないのかな、とちょっと可哀想にもなった。
ここまでする必要ないのに、真白は善良すぎて、自分と同じ人間じゃないような気にさえなった。
ベッドに横たえた彼女の全身がぶるぶる震えているのを目にして、ようやく「あ、やっぱり怖いのか」と安堵したくらいだ。
でも止めてなんかやらない。
俺は紅とは違うから、そんな優しさは知らない。
怯える彼女を宥めながら、身勝手な思いを遂げようとした俺を見て、真白はかすかに笑った。
全部見透かしてるような眼差しで俺を捉えて、『大丈夫だよ』と笑った。
そこからはよく覚えてない。
好きだ、という想いだけで彼女を抱いた。
次の日、真白はなんの後悔も見られない晴れやかな笑顔で、朝食を作ってくれた。
とても現実のこととは思えない。
彼女の耳を塞ぎ、触れるだけのキスをして 『ごめんね』 と呟く。
真白の大事なものは全部、奪わないと気がすまない、化物みたいな俺をどうか許して。
そのあと真白は、手編みのマフラーまでくれた。
あの頃、彼女はいっぱいいっぱいで、余裕なんてどこにもなかったはずなのに、くれたマフラーのデザインは凝っていて、網目は完璧に整っていた。
そのマフラーを受け取った時、自分の小ささを思い知らされた。
真白は、うちの父親みたいな中途半端な人間じゃない。
一度その手を取ると決めたら、きっと真白の方からは絶対に、手を離したりしない。
俺がどんなに醜い化物でも、真白からは見放さない。
いつ編んだの、と尋ねかけ、真白の顔色にようやく気がつく。
目の下の鬱血にすら気づかず、彼女を振り回していたとようやく知って、泣きたくなった。
そして急に怖くなった。
死ぬほど好きな女の子の人生を、自分が全部台無しにしてしまう気がした。
「ありがとう。真白が俺にしてくれたこと全部、絶対忘れないから」
心からの感謝を伝え、俺はその時、真白に内緒で誓いを立てた。
彼女がくれた目がくらむほどの幸福には、全然足りないけど、きっとそうしよう、と決めた。
真白の憂いは、俺が全部取り払ってあげる。
真白の幸せの障害に俺がなるのなら、君から俺を取り除いてあげる。
学内コンクールも、無理することないのに、と本当は思っている。
父の意思は強固で、真白が優勝しなければ、絶対に彼女との付き合いは認めないだろう。
真白のうちのお父さんや、お母さん、花香さんを思い浮かべる。
釣り合ってないのは、うちの方だ。
あの優しい人達には、もっと相応しい家があると思う。
真白のうちの子に、俺もなりたかった。
真白が学コンで優勝したら、きっとまた別の条件を出してくる。
それが城山恭司のやり方だと、否応なく学ばされた。
抜け道があるとしても、それはもっと先の話で、俺が一人前にならないと無理だ。
そんなに長い間、真白を待たせてもいいのか、俺には分からなかった。
何もかもが不透明な中、それでも真白に執着していた。
誰にも取られたくない。
幸せになって欲しい。
相反する気持ちの間で苦しむ時間に決着をつけるきっかけは、思わぬところで見つかった。
「ごめんね、急に呼び出して」
寮祭が終わってまもなく、玄田はウィーンから帰ってきた。
もう向こうには戻らないらしい。
トビオとのやり取りを思い出し、じっと真白の姉だった人を見つめた。
「いいよ。俺も話しておきたかった」
「そっか。……真白ちゃんは?」
「練習室。めちゃくちゃ機嫌悪いから、今は覗きに行かない方がいいかも」
今日は、学内コンクールのエントリー曲が発表される日だった。
玄田と真白は、二人で話し合って同じ曲でエントリーすることにしたらしい。
曲はスクリャービンのピアノソナタ 第三番。
『どっちが勝っても負けてもスッキリするように、同曲対決にしたの』と得意げな顔をした真白の頭を紅が軽く叩き、『他のやつが優勝するかもしれないのに、勝負の前から偉そうにするな』と突っ込んだのが半月前だった。
それなのに、今日、渡り廊下に張り出された一覧表では、玄田はブラームスのピアノソナタを弾くことになっていた。
理事長のテコ入れで急遽変更になったんじゃないか、というのが真白の主張。
『今度は紺ちゃんに嫌がらせ!? くっそー!』
ぷりぷり怒る真白をなだめて、ついさっき練習室に送っていったところだ。その足で、玄田が指定した実習棟の非常階段までやってきた。
「もしかして、理事長に何か言われた?」
こちらから口火を切ってみると、玄田は言いにくそうに唇を何度か舐め、「正解」とため息混じりに吐き出した。
「同曲対決だと、万が一の時に誤魔化しがきかないから、向こうでレイスネル先生に合格点を貰ったブラームスを弾けって。……もう優勝は、私で決まってるからって」
「――なるほどね」
不思議と、怒りは湧いてこなかった。
理事長はきっと、今でも父を許してない。ひいては、俺のことも。
今度の賭けについても知っているのかもしれない。
出来レースを仕組み、真白を俺たち親子に渡さないように動くことも、どこかで予想していた。
「驚かないの?」
目を丸くする玄田に、城山恭司と理事長の過去の確執、そして今度の学コンでの賭けの話を説明する。
「理事長的には、意趣返しのつもりなんだろうな。真白と俺の仲を裂けば、少しは気が晴れるとでも思ってるんじゃないか」
そんなことで、過去の傷が癒えるとは到底思えないけど、なんとなく、そうせずにはいられない気持ちも分かった。
真白に対しては可愛さ余って、ってとこだろう。
「そんな……そこまで分かってて、どうしてそんなに落ち着いていられるの? 蒼くんは、真白ちゃんを諦めたの?」
「まさか」
即答し、首を振る。
それから、むきになって問い詰めてきた玄田を、しみじみと眺めた。
本当に彼女は真白の姉なんだな、と再認識した。
そういえば、ドイツへ行く前も玄田は真白のことで、俺を叱ったんだった。
「真白しか考えられない。ずっと一緒にいられるように、これからも全力を尽くすよ。だけど、それが真白を縛ることになるのなら、今は解放してやった方がいいんじゃないかとも思ってる」
懺悔するみたいに、これまでのことを打ち明ける。
玄田はこわい顔をして、俺の話をじっと聞いていた。
最後に、どうしても聞きたかったことを尋ねてみた。
「玄田こそ、今度の学コンで勝たないとヤバいんじゃないの? あ、答えなくていいから! 俺がそう思ってるって話だけ、聞いて」
疑り深い眼差しのまま、玄田は慎重に頷く。
「真白から、二人の転生の話を聞いた。理事長のそっくりさんにも会った」
「はぁっ!?」
玄田は踊り場の手すりから手を離し、完全にこちらに向き直った。
顔が真っ青になっている。
「ええっ……そんな……そんなことって」
玄田の喉がヒュッと鳴る。
俺は慌てて、彼女の両肩を掴んだ。
掴んでから、ぎょっとする。まるで空気に触れてるみたいな頼り無さだった。
「待って、マジで待って。頼む、何も言わないで! 制約のことも知ってる。真白を心配してるなら、大丈夫だから! 何もされてない!」
玄田は制服の胸元を掴み、何度か深呼吸を繰り返した。
彼女が落ち着くのを待って、もう一度さっきの質問を繰り返す。
「これは勝手な俺の推測だけど、玄田は学コンに勝たないと、後がないんじゃないかって。それなら今度の出来レースは、むしろ良かったと思って」
「……どうして?」
「え?」
玄田は泣き笑いのような表情で、俺を見つめ返してきた。
「私が勝てば、蒼くんは真白ちゃんと引き離されるのに、どうして、良かったなんて言えるの?」
芯から不思議そうな声だった。
「蒼くんがどれだけ真白ちゃんのこと好きか、私にだって分かるのに、どうして?」
「好きだから」
俺は、ようやく自分に出来ることを見つけた、と思った。
やっぱり推測はビンゴだ。
玄田は、学コンで勝たなければ賭けに負ける。
真白の前から、消えてしまう。
それはどんなに彼女を、痛めつけるだろう。
聞きたいのは、俺の方だった。
真白がどれだけ、あんたのこと想ってるか、俺にだって分かるのに。
「好きでたまらないから、泣いてほしくない。玄田が消えたら、真白は死ぬほど後悔する。そんな思い、絶対にさせたくない。だからこの話は、真白には言わないで。俺も黙ってる」
そう言うと、玄田はひとつ、瞬きをした。
その拍子に、ぼろぼろと大粒の涙が溢れていく。
「ちょ、泣くなよ! 真白と紅に締められるだろ」
「ふふっ」
玄田はポケットからハンカチを取り出し、涙を押さえながら笑った。
そして、もう一度俺を見て、ゆっくりと口を開く。
「ごめんね。私ね、もう疲れちゃったんだ」
「……は?」
「魂ってすり減るんだなぁって、自分でも最近感じるの。あの人の言うこと、本当だったんだなって。全然、そういう明るい方向に考えがいかなくて。ほんと、疲れちゃって」
「ごめん、なに言ってるか――」
「分からないよね。分からないでいて、今はまだ」
続けて何かを小声で呟き、玄田は目を瞬かせた。
背筋がゾクっとした。
玄田の目の奥は、空っぽだった。
「色々教えてくれてありがとう」
「消えるなよ、玄田。ちゃんと、真白に勝ってやって。八百長だって真白に気づかれないような、そんな演奏、玄田なら出来るだろ?」
「……蒼くん、変わったね」
玄田は懐かしそうに目を細め、俺に微笑みかけた。
「醜い化物なんて、蒼くんの中にはもういないよ。蒼くんは、すごく綺麗な子。真白ちゃんは、蒼くんがいてくれるから、頑張れるんだよ。きっとすぐに分かるよ。――本当にありがとう。あの子をそこまで愛してくれて、本当に嬉しいです」
玄田は深く、丁寧にお辞儀をした。
さらり、と長い髪が揺れて流れる。
目の前に現れた背中は、制服越しにもひどく細く、骨ばっていた。




