42.お仕置き
一目で、その女性が誰か分かった。
持っているアルバムの表紙の彼女が、十数年の歳月を経て、目の前にいる。
森川 理沙さん――蒼のお母さんだ。
ドイツにいるんじゃなかったの? とか、どうしてここに? とか、知りたいことは沢山あるけど、まずは挨拶をするべきだろう。それには立たないと。
靴! 私の靴、どこいった!?
あわあわしながらソファーの下を覗き込んでいる私を見て、理沙さんは少し困ったように部屋の奥に視線を移した。
「……靴を返してあげて、鳶」
私の耳がおかしくなったわけじゃないのなら、確かに今、森川さんは「鳶」と言った。
嫌な予感で頭がおかしくなりそうだ。
油の切れた機械人形のような緩慢な動きで、後ろを振り返る。
控え室の扉をあけて正面に見えるのが、応接テーブルと二人がけのソファー。私が寝ていたソファーだ。その奥に、靴を脱いで上がるタイプの畳スペースがある。そこには大きな鏡やハンガーラックもあって、着替えやヘアメイクが出来るようになっている。
その畳のところに、トビーは腰掛けていた。
いつからいたの? とか、勝手に入ってくるなよ! とか、言いたいことは沢山あったけど、彼の格好を認識した瞬間、全てが吹っ飛んだ。
トビーはジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩め、シャツのボタンを胸元まで開けていた。シャツの袖のボタンは外され、さらに軽く捲くり上げられている。
普段ワックスで後ろに流されている髪も、くしゃりと乱れていた。こんな状況じゃなかったら、口笛のひとつでも吹きたいくらい扇情的な姿だ。
トビーの髪に目を留めた時、私もハッと気がついた。
頭が、軽い。
てっぺんでお団子にしていたはずの髪は解かれ、背中と肩にふわふわとかかっている。まるで誰かの手で髪を梳かれたように。
やられた。
理沙さんの目に、私たちがどう映るかを考え、肺の空気を全て吐き出したくなる。
寝ている隙に実際に手を出されたとは考えにくい。いくらなんでも目が覚めるだろうし、トビーはずる賢い男だ。危険な橋はまず渡らないだろう。
「久しぶりだね、リサ。ここへは何をしに?」
トビーは悠々と立ち上がり、袖を下ろしてから自分の足元にあった私のパンプスを拾い上げた。そのまま優雅な足取りで近づいてきたかと思うと、私の前に跪く。
そうはさせまい、と足を引っ込めたけど、恐ろしい力で足首を掴まれた。痛い、痛い!
無言の抵抗には気づいているはずなのに、トビーは愛しげな眼差しで私を見上げ、無理やりパンプスを履かせてしまった。
何から何まで、茶番だ。
いっそこのまま、蹴り上げてやれたらいいのに。
そうしなかったのは、自己保身が8割。
残りの2割は、トビーの瞳の奥が揺れていたから。自分では完璧に取り繕えているつもりかもしれないけど、これだけ接近すれば、嫌でも分かってしまう。
トビーは、明らかに傷ついていた。気づいてしまえば簡単には動けなくなった。
なんて面倒な男なんだろう!
安い同情に弱い自分にも、心底うんざりした。
「とても、いい演奏だったから。どんな子か、近くで見てみたくなって」
「そう? 君の全盛期に比べたら、まだまだじゃない? 僕にとっては至上の音楽だけどね」
理沙さんは折れそうに細かった。
スーツの袖から覗く、骨ばった手首の先はレースの手袋で覆われている。そのか細い手でハンドバッグを握り直し、彼女は小さく首を振った。
「邪魔をして悪かったわ。――島尾さん」
「はい」
理沙さんの眼差しはどこまでも静かだった。
静かで、昏かった。
じっと見つめているうちに、真夜中の湖の上に浮かんだボートに一人、ポツンと取り残されたような気分になる。
「これからも頑張ってね」
「……ありがとうございます」
聞きたいことは何一つ聞けないまま、そう答えるしかなかった。適切な言葉が何一つ浮かんでこない。
トビーは気が済んだのか、口を閉じたままだ。
そのまま理沙さんが踵を返そうとするのを見て、私は追いすがるように叫んでいた。
「あの!」
ドアノブに手をかけたまま、理沙さんは立ち止まり、わずかに顔をこちらへ向ける。横顔もとても綺麗な人だと思った。
「城山蒼の演奏は、どうでしたか?」
とっさに飛び出た言葉に、遅れて納得する。
そうだ。これが今の私の、一番聞きたいことだ。
「……出ていたの? 覚えてないわ」
理沙さんは眉をひそめ、小さな声で答えた。
――覚えて、ない
どうしようもなく、ストンと腑に落ちる。
この人の中で、蒼は全く重要じゃない位置にいると思い知らされた。誰かに指摘されて初めて、そういえば私には息子がいたわね、と思い出す程度の存在の軽さ。
トビーに嵌められたと気づいた時よりもっと、激しい感情に襲われる。
蒼がどんな気持ちで音楽を続けてきたか、この人には微塵も伝わらなかったのかな。
自分を捨てた母親を思い出させ、何度でも突きつけてくる音楽を、それでも蒼は捨てなかったのに。
無性に悔しくなり、喉の奥がひゅっと窄まる。苦しい。苦しくてたまらない。
理沙さんは軽く頭を下げ、扉の向こうに消えていった。
扉が閉まった瞬間、私の眦からボタボタ溢れ始めた涙を見て、トビーは急に慌て始めた。
「何も泣くことはないだろう。君は、わけがわからない」
慌ただしく立ち上がり、ボタンを全てきっちり止めると、ネクタイを元に戻す。上着を手に取り、羽織るまで1分もかからなかった。
これで私は、用済みってわけだ。
そうはさせるか!
私は乱暴な手つきで目元を拭い、今度こそソファーから立ち上がった。
「チャイコフスキーを選んだのは、森川さんへの当てつけですか?」
まさかいきなり直球を投げてくるとは思ってもみなかったんだろう。
トビーは口をもごもごさせた。
ここで逃げたら、壁際に立てかけてあるパイプ椅子で思い切り殴ってやろう、と心に決める。傷害で訴えられたって構うもんか。暴行されかけたから、とか何とか、でっち上げてでも保身に走ってやるからな!
私の本気が伝わったのか、トビーは観念したように目を閉じた。
「そうだよ。彼女が国際コンクールで入賞した時に弾いたのが、チャイコフスキーの一番だった。リサの父親が亡くなって、葬儀の為に帰国していると知ったから、招待チケットを実家の方に送ってみたんだ。今日、ここに来るかどうかは僕にも分からなかった」
「帰国を知ったのが、半月前?」
「ああ」
「来るかどうかもわからない、昔の恋人への嫌がらせの為に、私と氷見先生と、向井さんたちを振り回したってわけですか?」
「そうなるかな」
「今は?」
「ん?」
「今このタイミングで、森川さんがここに来るってなんで分かったんですか?」
トビーは拳を口元にあて、笑いを噛み殺した。
「それは流石に分からないよ。来るかもしれないな、と思ったことは否定しないけど、本当に来るとは思わなかった。マシロの演奏が、よっぽどショックだったんだろうね」
「……来ないと思ってた人の為に、わざわざ演技を?」
トントン、と自分の首元を叩き、ネクタイが少し曲がってることを教えてあげる。トビーは片手で器用にネクタイをまっすぐに直し、意地の悪い笑みを浮かべた。
「鈍感なフリが上手いね? もちろん僕は、城山の息子が来ると思ったんだよ」
開き直ったようにふてぶてしく答えるトビーに、癇癪玉が破裂した。
人を人とも思っていない傲慢さに、目の前がチカチカする。
お披露目できなかった熱情。不安と重圧に殆ど眠れなかった二週間。悔しそうな向井さんの声。
全てが一気に蘇ってくる。
しかも、蒼まで傷つけようとしてたなんて――。
さっき黙ってたのは、愛しの理沙さんの前で赤っ恥をかくのは流石に辛かろうと、配慮したからだ。それくらいの情けをかけてもいいかと思ったのは、理沙さんへも思うところがあったから。
蒼と私が付き合っているのを知っているのなら、理沙さんの方から何か言ってくるかも、という期待もあった。
蒼が大事なら、こうして理事長と二人きりでいる私に小言めいた文句を言わずにはいられないはずだ。だけど完全にスルーされ、蒼への無関心っぷりを見せつけられただけだった。
「……けんじゃねぇ」
「え?」
「どいつもこいつも、ふざけんじゃねぇ、って言ったんですよっ!」
理沙さんへの怒りも相まって、とてもじゃないけど抑えられない。
私は無理やり履かされたパンプスを蹴り上げるように脱ぎ捨て、拾い上げるとトビーに駆け寄った。
侮っていた小娘の暴挙に驚愕の表情を浮かべ、一歩も動けないでいるトビーめがけ、大きく振りかぶってパンプスを投げつける。それから、反射的に身を縮めた彼の腕を鷲掴みにした。
そのまま畳に突き飛ばし、うつ伏せになったトビーの背中に飛び乗る。トビーの頭側にお尻を向け、太ももで背中を挟み、両足で腕を押さえた。
蛙の潰れたような声が、トビーの喉から漏れる。
悲鳴は無視して広がったドレスの裾を手繰り寄せ、トビーの上着をめくりあげた。形のいい尻が目の前に現れる。
「ビンタしないの、感謝してください。今、顔に紅葉を張り付けたくはないですよね!? お腹にグーパンもいいかなと思ったけど、意外に鍛えてそうだし、私の手の方がやばそうなんで、これで勘弁してあげますっ!」
す! のところで、思い切り尻を叩く。
予想以上に、手のひらが熱く痺れた。ということは、トビーも痛いということだ。
「いたっ!! 何するの、正気!?」
「それは! こっちの! 台詞じゃー!!」
言葉を区切るたびに、思い切り手のひらを打ち下ろす。
コンガを叩くイメージで、容赦はしなかった。指示記号はもちろん、フォルテフォルテッシモ。
叩きながら、トビーの駄目なところを発見した。
思い切りもがいて跳ね除ければ、私をどかせることは出来るのに、怪我させることを恐れてる。
非情になりきれない育ちの良さなど、鼻で笑ってやるわ!
「島尾!?」「真白!!」
思いつく限りの罵詈雑言を叫びながら夢中で叩いていたせいで、ノックの音を聞き逃してしまった。
気づけば、部屋に飛び込んできた氷見先生と蒼に、羽交い締めにされている。
「ちょ、真白!? 真白、落ち着いて!」
「理事長!? 理事長、しっかり!」
トビーはいつの間にか抵抗をやめ、私の下でぐったり伏せていた。
お仕置きコンガタイムは、乱入してきた二人によって強制終了となった。
でも止めてもらえて良かった。手のひらを見てみれば、真っ赤に腫れ上がっている。ということはトビーの尻も。
ようやく溜飲が下がった。
トビーは「大丈夫だから」と息も絶え絶えに言い置き、よろよろと部屋を出て行ってしまう。
哀愁漂うトビーの背中を見送っていた氷見先生は、鋭い目つきで私を振り返った。
「島尾、暴力はいかん」
「お尻についてたゴミを払ってあげただけです」
「……ということにしたい、というのは分かった。本当は?」
「くだらない理由で振り回されたことが分かったので、お尻を叩きました」
「そうか」
氷見先生は難しい顔をしながらもう一度「そうか」と言ったけど、肩は小刻みに震えていた。
「とにかく、暴力はいかん。あと、きちんと手を冷やしておきなさい。人の尻を叩くための手じゃないだろう」
「はい」
隣にいた蒼が、大きく咳き込む。
氷見先生は、「30分後にマイクロバスのところに集合だから、早く着替えなさい」と早口で言って、部屋を出て行った。
先生がいなくなるとすぐ、蒼はお腹を抱えて笑いだした。
「尻を叩くための手じゃないだろう、ってあんな真面目な顔でふつう言える? 氷見先生、面白すぎ。それに、あの絵面が……だめだ、思い出したら腹が痛い」
「笑い事じゃないくらい、頭にきたの!」
「いや、うん。そうだろうけど……あはははは」
蒼が大口を開けて笑ってるのを見ているうちに、段々私も可笑しくなってきた。もっと笑って欲しくなる。
「ねえ、私も謹慎処分かな?」
「かもね」
「二年A組 島尾真白は、理事長のお尻をペンペンしたので、二週間の謹慎処分に処す、って?」
「ぶはっ」
蒼が再び笑い出す。
あけっぴろげな笑顔に、さっきまでの苦い悲しみと憤りが癒されていった。
「あー、笑った。後で何があったか、ちゃんと教えてくれる? その時は笑わず聞けるように努力する」
「うん」
普段と変わらない様子から、蒼は理沙さんに会ってないんだと分かった。それなら、私から言うこともない。本当のことを言えば、蒼だって穏やかじゃいられないだろう。お祖父さんが亡くなったことも、聞かされてないのかな。
再び胸の奥がズキンと痛む。
誰だって、こんな雑に扱われていいはずない。
「じゃあ、外で待ってる。それとも、ここで見てていい?」
「蒼のお尻も叩こうかな」
「それは困る」
蒼は「また今度ね」と笑って、外に出てくれた。私も笑顔で手を振ったけど、また今度、ってなに?
今度とかないからね!
理事長は、この一件以来、私と蒼にちょっかいをかけてこなくなった。
もちろん、お咎めもなし。
まさかあんな目に合うとは思ってもみなかったんだろうなぁ。
あれから私を遠目に見つけると、くるりと回れ右をする理事長の顔には「触らぬ神に祟りなし」と書いてある。




