幕間:竹下 里香の不思議な話
里香には誰にも言えない悩みがあった。
念願の大学生となり、沢山の新しい友人が出来た。
相変わらず要領は悪いままだったが、真面目な里香は単位を落とすことなく進級できたし、就職活動にもそこまで苦労することなく内定をもらうことが出来た。
傍から見れば順風満帆な学生時代を終え、新社会人となる。
周りにいる友人達は皆、心根の優しい人ばかりだったし、師にも恵まれたと思う。
ただ一点、曇りがあるとするならば、大学時代、里香は一度も異性を好きにならなかったこと。
出会う相手に恵まれなかったわけではない。
どんなに容姿が優れていようが、どんなに温和で優しい気質を持っていようが、里香の心はコトリとも動くことはなかった、というだけの話だ。
人懐っこく明るい性格の里香に浮いた話の一つもないことを、友人達はこぞって不思議がった。
「里香ちゃんって、めちゃくちゃ理想が高いの?」と聞かれたことも一度や二度ではない。
だが、一番不思議に思っていたのは、当の里香だった。
年頃の娘として、恋くらいしてみたい。
両思いとまでは言わなくても、せめて誰かを好きになりたい。
いや、いっそ憧れでもいい。
里香が焦れば焦るほど、肝心の気持ちは静まり返り、まるで10人も孫のいるおばあさんのような枯れ具合をアピールしてくる。
合コン、紹介、ダブルデート。
里香はチャンスを逃さず、素敵な出会いを求めてみた。
「いい人そうだな」とは思う。だけど、どうしてもその先に進めない。
干からびた女性部分が、「私のことはどうか放っておいておくれ」と尻込みし、硬い殻に閉じこもってしまうのだ。
引き合わされた男は、恋人ではなく友人になった。
これを何度か繰り返すうち、里香の心は紹介者への罪悪感でいっぱいになった。
「いろいろありがとう。でももう、いいや。自分で頑張って探してみる」
そうは言ってみたものの、頑張る気力など残っていない。
まだ22。
きっとそのうち、好きな人が現れるだろう。
里香はかろうじて希望だけは持っていた。
姉と友衣は順調に交際を重ねている。
このままいけば、いずれ結婚の話も出てくるに違いない。
今でも里香が、姉の恋人に未練を残していると勘違いされてはたまらない。
近況を尋ねてくる姉には「付き合ってる人がいる」と悲しい嘘をついた。嘘がばれないよう、就職を機に家を出て、会社の近くにアパートを借りることにした。
実家から二時間もかかる場所にある会社の面接を受けた時から、里香はそうしようと決めていた。
文房具を作っている中堅メーカーへと就職してからも、里香に想い人が出来ることはなかった。
恋愛的な意味で同性を好きになったことはない。友衣を始め、かつていいな、と心を動かされたのは異性ばかりなのだから、きっと異性愛者ではあるのだろう。
思い余った里香は、心療内科のカウンセリングを受けてみることにした。
「恋愛できなくなる病気ってありますか?」
問診の結果、欝病の可能性は低いと言われる。
男性恐怖症の原因となるようなトラウマも見当たらない。
友衣のことも思い切って打ち明けてみたが、「きちんと自分でけじめをつけているし、現在会っても全く心が動かないのなら、それが原因とは考えにくい」と言われる。
姉へのコンプレックスはないか? という質問には、里香の方が仰天してしまった。
花香への思いは、愛情と感謝で占められている。
絶対に幸せになって貰いたい、という強迫観念のような気持ちすら持っている。
異常といえば、それが異常なのかもしれない。
担当の先生は、里香の要領を得ない話を根気よく聞いてくれた。
誰かに聞いて貰えるだけで、心の重荷は半減するのだと、里香は納得した。
――やっぱりね
何がどう『やっぱり』なのだろう。
思ったはなから、否定する。
カウンセリングを受けたのも初めてだし、誰かに悩みを打ち明けたことは、今まで一度もない。深刻な悩み自体、抱えたことがなかった。
何回かに分けて受けたカウンセリングは、里香の方から打ち切った。
治療を要する病気でないのなら、いい。
先生が言ったように「無理をして誰かを好きになる必要はない」のだろう。
職場の上司や先輩、同僚にも恵まれ、仕事自体はルーティンなものが多いが、決まったことをきちんとやる作業に喜びを感じるタイプだったので、全く問題はない。
休日は友人と会ったり、一人で映画を見に行ったりと、それなりに息抜きを楽しんでいる。
料理や洗濯、掃除など細かな家事も苦にはならない。
ただ日中、じっと部屋にいることだけは苦手だった。
何か大事なことを忘れているような気分になって落ち着かないのだ。
そんな時は、近所を散歩したり、風呂場やガスレンジを無心に磨いたりした。
恋人がいないことを除けば、里香の日常はそう悪くないものだった。
そうこうしているうちに三年が経ち、姉の結婚が決まった。
成人式に作ってもらった振袖を着つけて貰い、姉の控え室を訪れる。
純白のドレスを身にまとった花香は、それはそれは美しかった。霞のような繊細なヴェールから覗く頬は、バラ色に上気している。
「里香!」
控え室に入ってきた妹をみとめ、花香はパッと瞳を輝かせた。
生き生きとした表情が、花香が今、幸せであることを伝えてくる。
瞬間。
里香は、激しい衝撃に突き上げられた。
息が上手く吸えなくなるほどの、強い感傷に似たその感情は、里香の心をもみくちゃにした。
――今度は、私が守ってあげる
――絶対に、死なせないから
――花ちゃんは、友衣くんのところに帰らなきゃ
部屋に入ってくるなり棒立ちになり、大粒の涙をボタボタとこぼし始めた里香を見て、ヘアメイク担当の女性がまずぎょっとした顔になる。
花香も唖然としていた。
「妹さんも感激されてしまわれたんですね。あ、でも擦らないで。今、テッシュで押さえますから」
女性に手際よく涙を拭かれながら、里香はこくこく、と頷いた。
「はなかちゃん、おめでとう。すごく、きれいだよ」
しゃくり上げながら、何とか寿ぎの言葉を口にする。
花香もそんな妹に、すっかり感極まってしまったらしい。
「ありがとう。里香も可愛い。里香はいつも可愛いけど、その振袖、すっごく似合ってる」
途切れとぎれに言いながら、鼻をすする。
「ああ~、待って! 今、泣かないでください! あとで! あとでお願いします~」
せっかく施したメイクが台無しになる、と悲痛な叫び声をあげた女性に、姉妹は泣きながら笑った。
式は終始和やかに進み、嬉しそうな両親、そして姉と姉婿の顔を見て、里香は心から安堵した。
里香の日常は、どこまでも穏やかに過ぎていった。
どこからかふわりと舞ってくる花びらをつまみ上げ、大きな入道雲に目を細める。
パンプスの下で乾いた音を立てる枯葉に小さなため息を吐き、吐いた息を白く染める清冽な空気に身を縮める。里香の上を通り過ぎる年月はやさしく、静かなものだった。
28を迎える頃には、里香の心から淡い希望は消えていた。
きっとこのまま、誰のことも恋愛という意味では好きになれずに、一生を終えるのだろう。
両親や姉に、結婚を急かされることもなくなっている。
月に一度は実家へ戻り、元気な顔を見せる里香に、彼らは満足しているようだった。
それでいい。充分すぎるくらいだ。
静謐さに満ちた諦観に、里香の心は凪いでいた。
そんなある日。
里香は会社の後輩の一人から、クラシックコンサートのチケットを渡された。
「私、クラシックとか全然分からないんだけど」
「私もですよ~。でもかなり高いチケットらしくって。用事が入らなければ一人でも行くつもりだったんです。せっかくの貰い物だし」
「うーん。じゃあ、行ってこようかな」
「お願いします! SS席って結構前の方ですよね? 席が空くのも悪いなって思ってたんですよ」
「それもそうだね」
特に予定もないので、里香は引き受けることにした。
後輩には言わなかったが、コンサート当日は里香の誕生日だ。天からのサプライズプレゼントのような気がした。
クラシックコンサートへ行く際の服装をネットで調べ、とっておきのワンピースをクローゼットから引っ張り出す。
肩過ぎまで伸ばした髪を軽く巻き、新色の口紅を唇に塗ってみた。
いつもと違うことをするのも、たまにはいいかもしれない。
浮き浮きしながら、バスと電車を乗り継ぎ、大きなコンサートホールへと向かう。
初めて来たはずなのに、エントランスを抜ける際も、席を探す時も、まるで何度も来たことがあるような気安さを覚えた。
既視感、という言葉が脳裏に浮かぶ。
こんな夢をいつか見たことがあるのだろうか。
パンフレットの曲目を確認し、演奏が始まるのをじっと待つ。
ホワイエで飲み物を頼む二人の少女。
赤い髪の素敵な男の子。
断片的に浮かぶイメージに、ハッと気づいた。
そうか、あの恋愛ゲームだ。
高校生の頃、夢中になった……なんというタイトルだったかな。
音楽をモチーフにしたゲームだったから、それが記憶に残っていたのね。
里香はなるほど、とひとりごち、短く息を吐いた。
不思議な現象には、必ず原因があるものだ。
やがて、オーケストラの全員が揃い、指揮者が現れ、最後にピアニストが姿を見せた。
日本にもファンが多いというロシア人の女性ピアニストだった。門外漢の里香でさえ、名前は聞いたことがある。
指揮棒が振り上げられ、オーケストラの音が鳴り響く。
どうせ分からないと思って開かなかったパンフレットの一曲目に記されていたのは、リスト作曲 ピアノ協奏曲第一番。
ピアノの鍵盤が力強い和音を奏でたその時。
里香は全てを思い出した。




