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31.蒼のアドバイス

 蒼は決勝進出をものすごく喜んでくれた。

 無邪気な笑顔に、胸がきゅうと締め付けられる。

 カウンターに並んでいる時もそわそわしていた蒼は、トレイを持って席につくが早いか、喜々とした表情で話しかけてきた。


「ファイナルは日曜だろ? 聞きに行くから」

「聞きにって、もしかして先にチケット買ってた?」


 関係者しか入れないセミファイナルとは違い、フル編成のオーケストラと合わせるファイナルは一般客も聞きに来られる仕様だ。でもそんなに大きなホールじゃないし、すでにチケットは完売してるはず。

 不思議に思って聞き返すと、蒼は目を丸くした。


「……真白って、大物だよな」

「ん? なに急に」

「俺、一応シロヤマの後継あとつぎなんだけど」


 蒼のおどけた口調に、カアッと頬が熱くなる。

 コンクールのことで頭がいっぱいで、主催がどこか今の今まで忘れてた。


「し、知ってたよ? シロヤマピアノコンクールだもんね。チケットくらい、すぐに手に入るよね」


 慌てて付け足したものの、蒼の微笑ましげな眼差しは変わらない。


「そういうとこも、すごい好き。俺を肩書きで見ないとこ」

「うわ、恥ずかしい。すっかり抜けてた。……今の、誰にも言わないでね?」


 頬を両手で挟み、冷やして火照りを消そうと頑張る。

 蒼は笑いを噛み殺しながら、「誰にも言わない」と請け負ってくれた。間抜けなうっかりを愛でてくれる彼氏で良かった。

 今日の授業の話を聞きながら夕食を終え、食堂を出たところで蒼に手を振る。

 

 暖房のよく効いた食堂から外廊下へ出た途端、押し寄せてくる冷気に鳥肌が立った。

 11月も半ばを過ぎると、共同棟への移動が辛くなる。持参してきた柔らかな起毛のひざ掛けを広げて体に巻きつけ、足早に女子寮へと向かった。

 横からびゅうと吹きつけてきた夜風が、不意にトビーの言葉を思い起こさせた。


 ファイナルまで、残り三週間。

 それまでに、何とか自分らしい演奏を取り戻さないと。

 前の方が良かった、なんてもう二度と言われたくない。じゃあ、何のために毎日死に物狂いで練習してるのか、って話になっちゃう。


 ――『結果の出ない努力に意味なんてないよ、マシロ』


 勝手に作り上げた脳内のトビーが、せせら笑ってくる。

 くそー。絶対に負けるもんか!



 私のスケジュールは、売れっ子芸能人並に過密なものになった。

 マネージャーはもちろん、私だ。

 予習復習の時間がなかなか取れない分、まず休み時間は宿題に消えるでしょ。お昼休みは、小テストに備えた暗記大会。寮に戻ってからはひたすら練習。腕と手指を休める休憩時間は、参考書を読む。目薬は必携だ。

 寮に帰る前に、氷見先生が空いていれば演奏をチェックしてもらった。

 亜由美先生はクリスマスコンサートに向けての練習に入っているから、レッスンはランダムだ。

 亜由美先生が借りてる小ホールで見てもらえることもあって、逆にラッキーだったりする。

 「本番と同じ靴やドレスで練習した方がいい」というアドバイスを受け、自室でもマメに着替えるようにしています。


 オーケストラと合わせるのは、前日のリハーサルと本番のたった2回だけ。

 リスト、ショパン、ラフマニノフの規定曲から好きな曲を選ぶことになっていて、私はリストを選んだ。他の2人はそれぞれ違う曲を選んだみたいだから、当日はちょっとしたコンサートのようになるだろう。

 規定の協奏曲をレパートリーとして持っているオーケストラ側のコンディションはばっちりな筈だから、あとはソリストと指揮者がいかに方向性をすり合わせるかだ。

 今回はコンクールなので、ベテランの指揮者さんが私の要望に合わせてくれる形になると亜由美先生は教えてくれた。


「気後れしちゃダメよ、真白ちゃん。こう弾きたい! っていうのをしっかり主張してきてね」

「は、はい」


 そんなに上手くいくかな。

 年もキャリアも実力も、何もかも上の指揮者に向かって自己主張……出来る気がしない。

 せめて足を引っ張ることはすまい、と心に決めた。

 氷見先生が貸してくれた協奏曲のCDを大音量でかけ、それに合わせてピアノを鳴らす。

 

 出だしがね。まず、めちゃくちゃ難易度高いんですよ。

 一音も外さずに弾けるのは、5回に一回といったところ。練習でこれじゃ、本番では絶対に失敗する。

 部屋の照明を落とし、鍵盤を見なくても音を捉えられるよう、執拗に反復練習を繰り返した。なかなか上手くいかないものだから、癇癪を起こして泣いてしまう日もあった。


 朝から晩までピアノに没頭する私を、蒼は献身的に支えてくれた。


「ごめんね。全然余裕なくて、ごめんね」


 誰と一緒にいても、私の頭の中では常に協奏曲が鳴っている。

 蒼の話を聞き逃してしまうことも度々あって、その都度私は頭を下げた。

 申し訳なさと自分の不器用さへの苛立ちで、唇が震える。


「大丈夫。初めてのコンチェルトだし、ナーバスになるの分かるよ。俺は大丈夫だから、そんな顔するな」

「蒼のこと、ないがしろにするつもりはないの、本当に。キャパがいっぱいなの、自分でもどうにかしたいんだよ? でも、全然上手く弾けなくて。弾けば弾くほどこれじゃない気がして、正直、もうどうしたらいいのか分かんない」

「……今日は桔梗館エスターテの小ホールが借りられたんだろ? 俺も聴きに行っていい?」

「むしろ私の方からお願いします! 感想を聞かせて欲しい。出来れば辛口で」


 蒼の遠慮がちな提案に、一も二もなく飛びついた。

 ファイナルまで一週間を切っている。

 氷見先生も亜由美先生も、私のモチベーションを下げないように気を遣ってくれているのか、技術面での指導はしてくれるものの『焦らなくて大丈夫。楽しんでいこう』のスタンスに切り替わっていた。


「うーん。それ、かなり難しい注文だけど、頑張ってみる」

「難しくないよ。思ったままを、率直に言ってくれたらいいだけだよ」


 蒼は、ムキになって言い募る私の背中を軽く撫で「真白のピアノは、俺にはいつも最高に聴こえるから」と優しく宥めた。

 

 ……はぁ。蒼じゃダメっぽい。


 諦め混じりに内心ため息をついた私の予想を、蒼はいい意味で裏切ってくれた。


 

 演奏を聴き終わると、客席に座った蒼はうーんと考え込んだ。

 それからおもむろに口を開く。


「ピアノは専門外だから、勝手なこと言うけど、いい?」

「いいよ」


 ごくりと息を飲んで、蒼を見つめる。

 強い意思の光を宿した真剣な瞳とぶつかり、不覚にも胸がトキめいた。


「最初のとこ。ノーミスなのはすごいけど、音が平板すぎる。自動演奏の機械じゃないんだから、もっと生々しい音が聞きたい。高音の歌う部分も、音の綺麗さにこだわり過ぎ? あまりにも整いすぎてて、真白じゃないと聞けない音って感じしない。曲の表面だけをトレスしてるみたいな印象」


 ノーミスで弾くことに気を取られすぎている懸念は、自分でも抱いていた。

 やっぱりそう聞こえちゃうんだ。……自動演奏の機械か。

 当たってるだけに、耳が痛い。

 

「曲の背景をもっとしっかり洗い出して、感情を乗せて弾いた方がいいんじゃないかな。真白がその曲をどんな風に解釈してるのかを聴きたいよ。少なくとも、俺は」

「……うん」

「――言いすぎた?」

「ううん!」


 ぶんぶんと首を振り、もう一度楽譜に向き直る。

 事細かな指示記号に込められた作曲者の意図を深く理解しようと、イマジネーションの翼を広げた。

 蒼の真摯さが、胸の奥に熱い灯をともす。


「すごく参考になった。上手く弾かなきゃ、ってそればっかりだったのかな。勝ちたい、負けたくないって。そんなピアノ、聞いてて息苦しいよね。……よし! 本番も蒼に向かって弾くことにする」

「俺に?」

「うん」


 にっこり笑って、蒼を振り返る。


「点数をつけてもらう為じゃない。大切な人の心を響かせたくて弾くってこと、忘れてた。ありがとう、蒼」


 蒼は眩げに目を細め、それから「俺の方こそ」と力強く答えた。


 それでバッチリ決められたら言うことなかったんだけど、リストはそんなに甘くない。

 自分なりの解釈で弾いた協奏曲は見事なまでにボロボロで、弾き終わった私は噴き出してしまった。最初我慢していた蒼もとうとう笑いだす。

 ここはこんな風にと思うんだけど、気持ちが先行しちゃって指がついていかないんです。


「ある意味すごくない? ひどかった~! 自分で弾いててビックリした」

「気前よく外してたな。真白も人の子だって、実感できた。でも俺は、さっきのよりずっと好き」

「……実は私も」


 ステージの上と、観客席ではかなりの距離がある。

 だけど、まるで隣に座ってくれているみたいな親密さを覚えた。目を見合わせて笑みを浮かべると、蒼は満ち足りた表情で足を組みかえる。


「つまり、今の感じをキープしつつノーミスでいけば、最強ってことだな」

「うわあ。盛大な無茶ぶり頂きましたー!」


 叫んで天井を見上げる。

 不思議なくらい、胸はスッキリしていた。

 無茶ぶり上等! 

 今まで視界を塞いでいたもやが晴れ、到達点への道筋がくっきりと見える。

 それがたまらなく嬉しかった。




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