30.シロヤマピアノコンクール(前編)
コンクール会場に入り、控え室でコンサートドレスに着替えると、いよいよ始まるという緊張感で息が上手く吸えなくなる。
暗譜したはずの楽譜が全部飛んで、一音も叩けなかったらどうしよう。
手の平に滲む冷たい汗を拭いながら気休めに楽譜を眺めるものの、全く集中出来ない。うう、胃がキリキリしてきた。
こればっかりは場数を踏んでいくしかない、と亜由美先生は言ってたっけ。
「あー、コンクールね。はいはい」って感じの余裕メンタルに持っていくには、何回出場すればいいんだろう。
予選はまだいいんですよ。
参加人数も多いし、お祭り的な雰囲気があって、コンテスタントの表情も楽しげだったり意気込んでたり、とポジティブな感じ。
ところがセミファイナルからは一気に、空気が張り詰めたものに変わる。演者のレベルも跳ね上がる。周りは全員ライバルという意識が強くなり、誰も世間話したりしない。
演奏順は当日、ランダムに抽出されるという話だった。
張り出された紙に自分の名前を探すと、なんと一番最後。
全員の演奏が終わった後、複数の審査員で考査する形式のコンクールだから、順番にさほど意味はない。出来れば一番最初が良かったです。
お昼ご飯に何を食べたのかもすぐに思い出せないくらい私は上の空で、ただ自分の順番を待った。
「エントリナンバー12。青鸞学院高等部一年、島尾真白」
アナウンスの声を合図に大きく深呼吸し、係りの人の誘導に従って舞台へと踏み出す。
前の演者が私と同じくらいの背だったので、椅子の高さは調節せずに済んだ。
課題曲はノーミスでクリア。ひとまずホッとしながら、自由曲へ。
シューベルト作曲 第十六番 イ短調 第一楽章
未完のピアノソナタが多いシューベルトが初めて出版した渾身の一作であるこのピアノソナタは、実はあまり高く評価されていない。同じシューベルトなら十三番の方がファンが多そうだ。
地味で捉えどころがない、というのが世間の評判。だけど私はこの曲に一目惚れならぬ一聴き惚れをしてしまった。
哀しげなユニゾン、そして和音の連打から入る導入部。
シンプルな繰り返しが多いからこそ、音の響きが重要になる。
切ない旋律を引き立たせる為、高音部は温もりのある澄んだ音色で優しく、低音部は迫力を持って。
ピアノ曲らしくないと言われる第二主題から連なる展開部は、ペダルを大胆に踏んで遠くから響いてくる靴音をイメージする。再び現れる第一主題の変形は、ピアノピアニッシモで囁くように奏でた。ここが一番の聴かせどころだ。
そして終盤。ユニゾンとコーダの繰り返しをクレッシェンドで盛り上げ、終わりそうで終わらない印象的なメロディを繰り返し、突き放すような和音で締める。
安易な感情移入を許さない不思議な曲だからこそ、あまり派手に歌わせることはしなかった。
自分ではベストの演奏が出来たと思ったけど、審査員にはどう聴こえただろう。
もっと技巧を派手にアピールする曲の方が良かったかもしれない。
関係者しか入っていないホールの拍手はまばらで、しゅんと落ち込みながら控室に戻った。
「今までで一番良かったんじゃない?」
待ち構えていた亜由美先生に褒められて、ようやく強張っていた全身から力が抜けた。
「そう、でしょうか」
「ええ。コンクール向きの、とってもクレバーな演奏だった。高校生になってそんなに経ってないのに、随分引き出しが増えたわね。氷見先生のお蔭かしら」
頬を上気させた亜由美先生が感心したように言うものだから、次第にその気になってくる。
クレバーだって! 嬉しいな。
亜由美先生の賞賛が、弟子への贔屓じゃなかったことはその後すぐに分かった。
「一位通過、おめでとう。疲れたでしょう。寮まで送っていくから、今日はゆっくり体を休めてね」
「ありがとうございます。でも、いいんですか?」
「遠慮しないの」
亜由美先生の申し出に甘えようと、満面の笑みで首を縦に振る。
ファイナルに進めなかった子たちは、俯いたまま荷物をまとめ、早々に控室を出て行った。残っているのはほんの数人だけ。なんだか居た堪れなくて、私も早く帰りたかった。
亜由美先生と並んでエントランスまでくると、ようやく心が緩む。
コンクールはまだ二度目だけど、いつまで経っても慣れそうにないな。
「どこかでお茶でも……と思ったけれど、そんな気分でもなさそうね」
私の考えてることって、どうしてこう筒抜けなのかな。
半ば脱力しながら、亜由美先生の悪戯っぽい眼差しにコクンと頷く。
会場から出て車止めの前まで来たところで、「車を回してくるから、ここで待ってて」と先生は言い置き、そのまま行ってしまった。
駐車場まで一緒に行くつもりだったのに、気を遣わせてしまったみたい。
形のいいふくらはぎをぼんやり見送っていると、誰かに軽く肩を叩かれる。
「お疲れ様。決勝進出、おめでとう」
ゆっくり視線を動かし、隣を見上げてみた。
案の定、そこに立っていたのはトビーで、私はこっそり溜息をついた。やっぱり聴きにきてたんだ。
「ありがとうございます」
「あれ、驚かないの?」
「聴きに来ると思ってました」
「へえ~、案外自信家なんだね」
トビーの優美な眉が不快を示すかのように顰められる。
私はかろうじて残っていた気力をかき集め、口角を引き上げてみせた。
「いえ。駄目だった時の私の顔が見たいかな? って」
「……そこまで意地悪じゃないよ」
何故か拗ねたようにトビーが言ったので、全身の毛がぞわりと逆立った。
うわー。あざとい! 自分の恵まれた容姿を自覚してるからこそ、なんだろうなぁ。
こんな言い方、普通の三十男には許されないよ。ただしトビーに限る、ってやつ。
「やっぱりマシロの音はいいね。聞いてて気持ちがいい」
「ありがとうございます」
レッスンバッグの取っ手をぎゅっと握りしめ、胸の前に抱えなおす。
蒼からもらったテディベアがふわりと胸元に当たった。頑張れって励ましてくれてるみたい。今日は平日だから、蒼は学院で授業を受けている。
早く夕食にならないかな。今日のこと、真っ先に報告したい。
蒼のことを考えながら、トビーの次の言葉を待った。
「だけど、ちょっと緊張してた? 前回の時みたいな伸びやかさがなかった。完璧だったけど、それだけだ。後に残るものがない」
綺麗な笑みを浮かべたまま、トビーは首をかしげた。さらり、と絹糸のような髪が揺れる。
的を射た厳しい批評に、心臓がドキリと跳ねた。
首の後ろに嫌な汗がにじんでくる。
「……そうかもしれません。勝ちたい気持ちが強く出てしまったと、反省してます」
「ふぅん。自覚はあるんだ。もしかして、城山蒼に何か言われた?」
いきなり核心を突かれ、反射的にトビーを振り仰いでしまった。
目が合った瞬間、トビーも私の過剰な反応に驚いているのが分かり、今のはただの引っかけなのだと気づく。
「――なるほどね。血は争えないってところかな」
何を言ってもドツボに嵌まりそうで、私はきつく唇を引き結んだ。
視線を前に戻し、頑なに黙り込む。
血は争えないって、なに? どういう意味?
本当は問い詰めたかったけど、そこまでの気力は残ってなかった。膝が小刻みに震えてくる。
二、三歩よろめきそうになったところで、亜由美先生の車がやってきた。
「ファイナルでは気をつけます。今日はありがとうございました」
「ゆっくり休んで」
感情の読めない笑顔で私を労い、亜由美先生に軽く手を挙げてから、トビーは踵を返した。
美しい所作が、辺りの人目を引く。
憧れのこもった溜息をもらした近くの若い女性に「見た目に騙されないで。とんだ性悪ですよ」と言いつけたくなる衝動を堪え、私はよろよろと亜由美先生の車に乗り込んだ。
「トビーも来てたのね」
「そうみたいです」
「迎えが来るまで、真白ちゃんのボディガードを務めてくれるなんてあの子らしいわ」
亜由美先生はニコニコ笑いながら、とんでもないことを口にした。
え!? 今の、そうだったの?
じっくり思い返してみて、やっぱりそれはない、と結論を出す。
亜由美先生にとっては仲の良い友達の弟だもんね。綺麗フィルターかかるの、しょうがない。
……違うよね?
嫌味を言いに来ただけだよね。
だけど夕方、食堂で蒼の心配そうな顔を見るまで、私はずっとトビーに言われたことを考える羽目になった。
――伸びやかさがない。完璧なだけ、かぁ。
一位でセミファイナルを突破出来たというのに、それらの言葉は重い楔となって心の底に打ち込まれた。




