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29.条件

 ドイツは今冬時間だから、日本との時差は8時間ある。

 午前中、私が取り憑かれたようにピアノの鍵盤と格闘している時、蒼はまだ夢の中だ。

 

 時差のせいで、メールを送るタイミングや内容に迷ってしまって、困った私は変わった形の雲とか寮のごはんとか、しょうもない写真を撮って生存証明代わりに送ることにした。

 蒼から返ってきたのは、ハンブルグの城山邸、近くの公園、市場、ブラームス記念館なんかの洒落た写真でした。

 見せてもらったぜ、格の違いってやつをな。

 歴史を感じさせる素敵なお住まいの写真に、うっとりと見入る。

 ネオ・バロックっていうのかな? 建築様式に詳しくないからよく分からないけど、築ウン百年って感じ。蒼パパが買い取ったのかなぁ。すごい。


 普段はイギリス人の執事さんが、家の管理を一手に引き受けていると聞いたことがあったので、ツーショットをせがんでみた。だって本場の執事さんだよ? 見たい!

 半日後、送られてきた写真には、白いフレンチカフスシャツにベスト、そしてテイルコートに幅広の黒ネクタイを締めた素敵なおじ様と、ニットジャケットを羽織った蒼が満面の笑みで写っていた。

 掃除用具を持ったメイドさんたちの写真も添付されてて、蒼の洞察力に舌を巻いた。実はメイドさんも見たいと思ってたんですよ。なんで分かったんだろ。

 ドイツでの蒼の生活を垣間見せて貰えたような気がして、嬉しくなった。

 

 家族会議がどうなったのかについて、蒼は一度も触れなかった。帰ってきてからゆっくり話すつもりなのかな。

 トビーの話は一応しておいた。人づてに耳に入ったら、心配させてしまうかもしれないし。

 蒼からの返信は「それは行くなって言えない案件だから大丈夫」でした。

 彼は顔文字を使わない派なのに、「大丈夫」のあとに泣き顔の顔文字がついてて、思わず悶えてしまった。可愛すぎか。


 

 明日で秋休みが明ける、という日曜日。

 蒼がたくさんのお土産を持って、寮に帰ってきた。


 夕食で一緒になった涼ちゃんにも、「真白がお世話になりました」とオカンのような挨拶をしながら、チョコレートとシュタイフのキーリングを渡している。

 以前の蒼なら絶対にそんなことしなかった。

 涼ちゃんに沢山励ましてもらったんだよってメール、覚えててくれたんだ。

 ああ~、もう。これ以上惚れさせないでよ、お願いだから。


「わぁ、素敵! いいのかな? 貰っちゃって」

「好みとか分かんなかったから、一番人気ってやつを買ったんだ。気に入らなかったら捨てて」

「いやいやいや。これ、結構高いよね。捨てないよ! ありがとう」


 無邪気に喜ぶ涼ちゃんをニコニコ見守っていると、隣に座った蒼に小さく耳打ちされる。


「そんな顔されると複雑。少しくらいヤキモチやいてもいいとこじゃない?」

「なんで?」


 涼ちゃんへお土産を買ってきたのは、私を喜ばせる為かと思ったんだけど、違うのかな。

 正直にそう言うと、蒼は目を丸くして、それから破顔した。


「真白は、ずるい」

「ええっ。私、ずるいの?」

「だってそんなこと言われたら、どれだけでも尽くしたくなるじゃん。ずるいよ」

「……なに言ったっけ」


 蒼を喜ばせるツボがあるなら、覚えとかなきゃ。


「ほんっと、可愛い。もう俺、バカでいいや」


 蒼は私の腰に左腕を回し、ぐっと自分の方へと引き寄せた。

 抵抗する間もなく、電光石火の素早さで頬にキスされる。

 ちょ、ちょっと待って、ここ寮の食堂! 


「うわあ、甘い。今日のデザートいらないやつー」

「それな。今ものすごく苦いコーヒー飲みたい。真白ちゃん、相変わらず愛されてるね~」


 近くに座っていた女子寮の先輩たちにすかさず突っ込まれた。

 頬と耳に熱が集まっていくのが分かる。うう、恥ずかしい。

 ドイツ帰りの威力って凄まじいな。蒼が紅様化しちゃってるよ。


「蒼、すこし離れて」

「やだね。久しぶりなのに、なんで離れなきゃいけないの」


 手の甲をペチペチ叩いて腰は解放させたけど、今度はぴったり体を寄せられた。

 助けを求めようと周りを見回してみたけど、ことごとく視線を避けられる。ですよね、正視できませんよね。分かります。

 涼ちゃんはと云えば、「私は今、このクマちゃんを愛でるので忙しいんですよ、ええ」という態度を貫き通していた。



 夕食のあと。今度は談話室に移動して、私もテディベアのキーリングを貰った。

 涼ちゃんと色違いのやつ。


「ありがとう! 涼ちゃんとお揃いなのも嬉しい。涼ちゃんは楽器ケースにつけるって言ってたよね」

「真白はどうするの?」

「レッスンバッグにつけるよ。わーい、これで二つ目」

「二つ目?」

「ほら、蒼が小学校の時にくれた音符型のチャーム。あれの隣につけるんだ」


 浮き浮きしながら答える私を見て、蒼が信じられないといわんばかりに目を見開く。


「あんな昔の、まだ持ってたのか」

「もちろん。だって、蒼からの初めてのプレゼントだよ。ちゃんとお手入れしてるから、今でもピカピカです」


 歯磨き粉をリップブラシにつけてシルバー部分を磨いたりもしてる。あれ、便利だよね。

 今度見せてあげる、と言いかけた私は、蒼の泣きそうに歪められた瞳に気づき、心底驚いた。


「蒼? ど、どうしたの?」

「……なんでもない」

「なんでもなくないよ。昔の話、嫌だった?」


 勢いよく首を振り、蒼はソファーの背もたれにずるずるともたれ掛かった。

 右腕を持ち上げ目元を隠してしまったので、端正な口元しか見えなくなる。


「……向こうで、父さんと麗美さんと話してさ。……いろいろあって、条件出された。くそむかつく上から目線の条件。俺は何でもするつもりだったのに、その条件は真白に出されたものだったから、すぐに返事が出来なかった」


 いろいろあって、のくだりが非常に気になったけど、今、蒼が伝えたいのはそこじゃないというのは分かる。

 私は「うん」と短く相槌を打った。ちゃんと聞いてるよ。ゆっくりでいいよ。


「真白には言わないでおこうと思った。気分悪くさせたくなかったし、それで嫌われたらって想像するだけで、どうにかなりそうだし。でも……甘えてもいいのかなって、今ので思って」


 途切れとぎれに吐き出しながら、蒼は「みっともないな、俺」と自嘲する。

 

 そんなことない。そんなことないよ。


 蒼はこわいんだね。

 自分が尽くすのは平気でも、代償として私に同じことを要求するのが、怖くてたまらないんだね。

 

 だって、もしそれで「いらない」って言われたら?

 「勝手にやったんじゃん、私にまで同じこと求めないでよ」って言われたら?

 

 お母さんの乗った車を裸足で追いかけた。

 仲の良い女の子を繋ぎ留めたくて縋った。


 蒼が必死で伸ばした手は、二回とも無残に叩き落とされたのに。

 今、臆病で一方的な彼を、どうして断罪することが出来るだろう。


「甘えていいよ。蒼の為なら、何でも出来るよ」

「……そう言うと思ったんだよ。真白は優しいから」


 蒼の諦め混じりの口調に、じわりと涙が滲んだ。

 なんで分かってくれないの? なんて急いだらダメだ。

 そんな簡単に癒える傷じゃない。

 時間をかけて、分かってもらうしかない。私は蒼の絶対的な味方だよって。


「ほらほら。吐いて楽になっちゃいなよ」


 わざと明るい声をあげ、蒼の脇腹をつつく。


「蒼が言わないなら、麗美さんに聞くからね。いいの? イヤでしょ?」

「嫌だ」

「ね? 蒼は言いたくないのに、私が無理やり聞き出すんだから、蒼の責任はゼロなんだよ」

「それ、どんな理屈だよ」


 蒼はとうとうフハッと噴き出し、腕を外した。

 おもむろに体を起こし、私の方へ体ごと向き直る。

 いたって冷静な表情を取り繕っていたけど、瞳は不安に揺れていた。


「父の出した婚約解消の条件は、真白の覚悟を問うものだった。本気で城山の為に役立つつもりはあるのかって。利害でしか人のこと測れないヤツなんだ。真白のご両親とは全然違う。その話を切り出された時さ、俺は自分が恥ずかしくなったよ。両親そろってクズとか、なかなかないし、笑えるだろ? 麗美さんには『真白が可哀想だ』ってはっきり言われた」

「……蒼」

「ごめん。話がずれた」


 よほど口にしたくないんだろう。張り詰めた空気の中、躊躇いを含んだ沈黙が落ちる。

 蒼は苛立たしげに髪をかきあげ、それからひとつ、息を吐いた。


「今度真白が出るうちのコンクールでの優勝。それから学内コンクールでの優勝。それが出来たら、今の婚約は解消するし、先を見据えた付き合いを認めるってさ。父親に言わせたら『これでもかなり甘い判定』らしい」


 私は絶句した。

 

 コンクールに出るからには勝ちたい。それは今までと変わらない。

 でもダメだった時の恐怖が、100倍くらいに膨れ上がる。

 圧し掛かるプレッシャーとの闘いは、コンテスタントにとっての大きな壁だ。その壁が、より分厚くなった。

 

 それに学コンは。

 学コンは、紺ちゃんが――。


 お腹の底に、グッと力を込める。

 ここで怯んだ顔を見せたら、蒼はもう二度と心の内を見せてくれない。直感だけど、当たってる気がした。

 蒼はなんだかんだ言ったって、自分より私を優先する。そういうところは、紺ちゃんと同じだ。


「そっかー。そうきたか」

「……本当にごめん」

「でもさ。『国際コンクールで優勝してこい』とかより遥かに難易度は低いよ。お父さんの言うことにも一理あると思う」

「無理しなくていいよ、真白。もう俺を――」

「無理くらい、させてよ」


 蒼が言いかけた台詞をさえぎり、私は彼の両手を取った。

 

 ――見捨てていい、なんて言わせるもんか。

 

 指を絡め、ぎゅっと握り締める。蒼の手はかすかに震えていた。


「その二つで優勝したら、蒼がもれなくついてくるんでしょ? じゃあ、頑張らないと」

「……なんでだよ。なんでそこまでしてくれんの? 面倒くさいだろ? このままいったって、あいつが俺の保護者でいるうちは、真白は何度も嫌な思いさせられる!」


 私はたいして傷ついていない。

 城山家としては妥当な判断なのかもな、ってどこかで納得もしてる。


 だけど、蒼は傷ついて帰ってきた。

 それは彼が蒼のお父さんだからだ。

 蒼は未成年であることを理由に、なぶられて帰ってきた。麗美さんの許可を貰ったら、なんていうのも、その場しのぎのごまかしだったんだ。

 蒼と麗美さんをどれだけ虚仮こけにすれば気が済むんだろう。


 まだ見ぬ蒼パパへの怒りで、頭の芯が熱くなる。

 よくも蒼をここまでへこませてくれたね。

 お人好しだって蒼は言うけど、私はやられたことはちゃんと覚えてる、執念深い性分です。

 いつか蒼とうんと幸せになって、見返してやるから首洗って待ってろ。


「もし、蒼が私だったら? やる前から『ごめん、無理』って諦める?」

「そんなわけない!」


 食い気味に即答した蒼に、にっこり微笑んでみせる。


「ね? 同じだよ」


 蒼はあっけに取られたように私を眺め、それから力なく笑った。

 寂しすぎるくらい寂しい笑顔に、抉られるような胸の痛みを覚えた。

 



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